散歩道の終点

タナカ

第1話

初めて「うたさん」を見たのは五日前のこと。


夏休み初め、夜に一人で散歩をするのが好きな私はその日も灯りのない薄暗い道を歩いていた。日がある時とは違って怖いほど静まったこの風景が、身体を透かすように吹く風の息づかいが、頭上に広がる星々の輝きが、私は大好きなのだ。その日は何を思ったか、いつもの決まった散歩道を外れて、あぜ道を少し遠くまで歩いた。散歩道を変えることはあまり好きではないが、その日はちょっと冒険をしてみたい気分だったのだ。行き着いた先は小さな森。隣にある小さなため池は、月明かりに照らされて幻想的で、木々の葉が揺れる音、森から吹く風、自然を体全体で感じることが出来る場所だった。ここはいい場所だ、ただ単純にそう思った。ふいに、ため池の奥の方に目をやると土手際に何かがあるのを見つけた。少しの好奇心が私をその場所へと導いた。土手へと進む途中、木々の葉に夜空が隠され、月明かりもあまり届かなくなっていた。視界が定まらない中で目的の場所へと歩いていくと再び僅かながら光が入り始めた。その光を頼りにゆっくりと私は進んでいった。


そこには人がいた。生い茂る草の上に大の字で寝転がって、木々に隠された夜空を独りで見ているようだった。そして、歌を口ずさんでいた。一部しか見えず、おぼろげな夜空に似合う寂しい曲調。私は、その歌声に懐かしさを感じた。何故そう感じたのかは分からない。とりあえず、私に気付いている様子のないその人を私は勝手に「うたさん」と呼ぶことにした。理由は特にない。その日は新天地の土手を終点として来た道を戻ることにした。


翌日の夜も私は、また例の森の方へと歩いた。普段、散歩道から外れることをあまり好まない私が、二日連続で森へと出向いたのは「うたさん」が今日もいるかな、という新たな楽しみが増えたことが一番の理由だ。この日は少し雲が多く月は見え隠れしていたため、より光から遮断されていた道を歩くことは新鮮だった。道をゆっくり歩いて土手に着くと、この日も「うたさん」はいた。「うたさん」はまた草の上で大の字に寝転がっていた。私は「うたさん」の見ている景色を無性に知りたくなった。音を立てないよう、足先に気を配って「うたさん」の近くへと行った。ここまで来たものも、どうすればいいか分からなくなってしまったので、とりあえず、「隣、失礼します。」そう言って私も思い切って「うたさん」の横に大の字で寝転がってみた。「うたさん」は急な声掛けに驚いた様子で私を見たが、ただ一言「…どうぞ」と言って再び夜空を眺めていた。勝手に「うたさん」を年上の人と考えていた私にとって「うたさん」が同級生くらいの年でありそうなことに驚いた。ただ、それより昨日初めて「うたさん」を見たはずなのにその顔に、声色に、風になびく長い黒髪に安心感を覚えた私自身に驚いた。何でだろう、という素朴な疑問は空を見上げた瞬間に消え去った。

そこにはひたすらに美しい夜空が広がっていた。同じ星空は二度と現れないその瞬間限り景色。やはり一部雲に隠れてはいるが、星々の輝きと木々の葉の深い緑、その二つを飲み込んでしまうような闇とその中で映える月の輝きのコントラストは言葉に表せないほど美しかった。


その次の日の夜も私は森へと、いや、「うたさん」の元へと出向いた。「うたさん」自身に私は興味を持ったのだ。「うたさん」はどのような人なのかを知りたいと思った。なぜ、土手にいるのかを知りたいと思った。ただ、毎日来ている確証などない。だから私は急ぎ足でため池の土手の方へと向かった。やはりこの日も「うたさん」はいた。やはり、思った理由は、毎日来ている確証は無くとも、毎日来ていると私は思っていたからだ。「うたさん」は土手際を歩いていた。音を立てず、ゆっくりと歩いていた。話しかけたい、そう思うと私は「うたさん」の、隣の方へと足を運ばせた。そして、「ここでいつも何をしているんですか?」と聞いてみた。「うたさん」はまた昨日と同じように驚いてこちらを見た。「ごめんなさい、急に話しかけて。」そう言うと「うたさん」は顔を逸らし「いや…いいよ別に。あと、敬語はやめて。」と答えてくれた。一般的には冷たいと言われそうな口調に私は懐かしさ、安心感を再び感じた。私は「うたさん」にもう一度同じ質問をした。いつもここで何をしているのか、と。「うたさん」は一言「待っている人がいる」と答えた。この夜遅くに待ち人がいる、その事実に驚いたが、「うたさん」の真剣で寂しげな表情を見てしまえば私は何も言えなくなってしまった。黙り込んでしまった私の代わりに今度は「うたさん」が私に話しかけてきた。「君こそ、何をしているのさ、こんな時間に」ごもっともな話だ。私自身まだ学生、夜遅くに出歩いていいような年齢ではない。「ただの気晴らしの散歩だよ」と当たり障りのないことを答えた。私自身も分からないからだ。散歩は好きだ。夜景を見るのが好きだ。自然を感じることが好きだ。だけど、夜遅くに散歩に出かける理由はそれだけじゃない気がする、と私は感じていたのだ。私の返答に「うたさん」は一言「…そう」と答えた。私がこの場所について「うたさん」に聞くと、「うたさん」はいろいろな話をしてくれた。季節ごとに変わる風景についてのことだった。春は土手に花が咲いて綺麗で、夏は蝉の鳴き声が終始響いて、秋は枯葉が散る様子が妖麗で、冬はただひたすらに夜空が美しい、と。私は「うたさん」の印象として、人と喋ることが嫌いそうという先入観を持っていたため、「うたさん」が思いのほか話してくれることに驚きつつも、「うたさん」が楽しそうに、でも心の奥底では寂しそうに四季ごとの風景を話す様子が気になった。そして、たまに出てくる一人の少女の話も。「うたさん」は一人の少女と毎日のように夜は土手で星空を眺めていたと言う。その少女の話を追求しても「うたさん」は答えようとしなかった。もしかしたら「うたさん」の言っていた「待ち人」はこの少女なのかもしれない、と思った。所々出てきたその少女の特徴が私に少し似ていたことは驚いたけれど。


「うたさん」に出会って四日目の夜も、私は土手へと向かった。「うたさん」は珍しくため池の方を見つめていた。魚でも泳いでいるのかと思い私もため池の奥底の方を見やったが、何も見つけることは出来なかった。「何を見てるの?」と聞くと「うたさん」は「一番楽しかった過去」と答えて、地面に転がっていた石をおもむろに掴んで、ため池の中へ投げ込んだ。ポチャンッと四方八方で締りのない音がして、「待ち人が来てもさ、僕に気づいてくれなきゃ意味が無いよね…」と言った。今日、「うたさん」に何があったのだろうか、そう思って近くに寄ると「うたさん」の頬には一筋の涙の跡が残っているのを見つけた。その瞬間、何かを考える前に「うたさん」を抱きしめた。「うたさん」は今凄く悲しんでいる。その事が私は嫌だった。「うたさん」を苦しめる少女が嫌いになった。私がその少女の代わりが出来たらいいのに、とすら思った。でも、「うたさん」の口から出てきた言葉は想定外のものだった。


「そろそろ思い出してよ、僕のこと…」


そのあとの記憶は無い。気がつくと私は、またいつもの散歩道の始点に立っていた。


「うたさん」に出会って、今日は五日目なのだろうか。それとも、さっきのは夢だったのだろうか。何も今の自分の現状が分からないまま、「うたさん」が居るであろう場所へ向かった。この日、「うたさん」はため池の土手ではなく、森の前にいた。いつも通り私は「うたさん」の隣まで小走りで行った。「うたさん」は私を見るや否や「君の名前は何?」と聞いた。そう言えば、まだ一度も自己紹介をしていないと思い、名を言おうとすると、自分が誰なのか分からないことに気づいた。混乱している私の様子を見ていた「うたさん」は「君は記憶を封じたのかな…」と告げた。意味が分からない。「うたさん」の言っていることも、私自身のことも。「うたさん」は「今日こそ思い出して…」そう言って私の左手を両手で包み込んだ。

「何を…」何を思い出すの?と言いかけた時、私の頭に何かの映像が流れ始めた。

主人公は私。物語は、私の人生。その物語で私は「うた」という少女といつも一緒にいた。少女は「うたさん」の瓜二つ、いや「うたさん」その人だった。物語の終わりの時も私は「詩」と居た。舞台は夜、美しい星々を眺めながらあぜ道を歩いている時に、後ろから強い衝撃を私は受けた。ブレーキ音と共に意識が遠のく中、私は左手で詩の手を掴んでいた。その手を離さないといけない、と瞬時に思った。詩は車の衝撃を受けていない、離せば車の下敷きになることは無い、と分かった。でも、私は詩の手を離せなかった。

そのまま物語は終わった。


意識が「今」に戻った時、無意識に「詩…」と私は呟いた。私があの時、詩を横へと突き飛ばせば詩だけは助かったのに、その後悔が頭に飛び交う。「やっと思い出した…」と詩は涙を流しながら言った。そうだ、詩はあんな目に会わされても、ずっと私を待っていてくれた。そして、忘れられた側に詩はいたのだ。「ごめん、詩、ごめん!」謝っても許されないが、私はこの言葉しか言えない。詩は「いいよ。僕も君のこと離す気なんてなかった。僕だけ生きるなんて嫌だ。」と言って「君が思い出してくれて、来世も一緒に居れたら僕はいいんだ。だから、行こう?」と言葉を紡いだ。そうだ、私たちには行かないといけない場所がある。


「散歩はここまで。」と詩が言う。いつも通り私は、「そうだね、また明日。」と言う。その明日はいつになるかは分からないけれど。

あの時と同じ、二人で手を繋ぐと、世界から私たちは消えた。


「また明日。」


君とまた会えますように。

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散歩道の終点 タナカ @miyaizuki

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