9 華月の災難2

9-1 俺にとっては最もヤな敵

「……なんてことだ……」


 俺は絶望していた。

 両手で頭を抱え、机に両肘をついて項垂れる。


「うあー…………やっちまったぁー…………」


 受け入れ難い目の前の現実に、沈んだ声が勝手に出ていく。

 代わりに来るのは嘆きと後悔。

 身につけた薄いはずのワイシャツが、まるで鉛のように重く感じる。

 単なる気のせいだと頭ではわかっていても、全身が地に引っ張られているように思う。


 俺は一度目を閉じて、ゆっくり開けた。

 それでも現状は変わらない。つらい現実に変化はない。


 ――ふと、隣で影が動いた。


「そんなに悪かったの?」


 抑揚の無い声で矢鏡が言った。

 目だけを動かし、右横の机の上を見る。


 そこにあるのは一枚の白く小さな細長い紙。俺の机の上に無造作に置いてある紙と同じで、いくつもの四角い枠が横二列に並び、上の枠に単語、その下に数字が書かれている。


 俺は深い溜め息を吐いた後、


「うるせぇ嫌味か、オール満点野郎」


 二つを除き、三十点以下しかない自分の成績表を見やり、ぶっきらぼうに返した。



 **



 七月中旬。季節は夏へと移り変わり、あと少しで夏休みに入る。

 衣替えは今月からで、男子の服装は白いワイシャツ(着方はある程度自由らしい。なので俺は第一ボタンを外し、裾を出して着ている)と紺のスラックス。女子は白いワイシャツと紐のように細い緑のリボン、そして紺のスカートだ。


 ド田舎の避暑地だからか、全開の窓からは都会では味わえない澄んだ空気と涼しい風が吹き込んでくる。ここには蒸し暑さなど無い。日差しが当たれば暑いと感じるが、室内の日陰にいれば非常に快適な温度である。


 ……今は心が寒いけどな。極寒極寒。


 その原因は、ついさっき朝のホームルームで配られた、先週行われた夏季期末テストの成績表にある。


「なぁ……ここ進学校じゃないよな……? なんでこんなにレベル高いんだよ……」


 俺は頬杖をつき、眉根を寄せて矢鏡に訪ねた。

 英語二種だけは一、二問間違えた(多分スペルミス)といういつも通りの結果だったが、その他は中一以来の赤点祭り。その時は歴史と国語の二科目だけだったが、今回はなんと六科目もある。かんっぺき親に叱られる。


「進学校というほどではないけど……この学校の教育方針が"個人の才能の尊重"で、良い大学目指して勉学に励む生徒が多いから、並以上には力を入れているんだよ」


 淡々と答えながら、矢鏡は先程配られた自分の成績表を机の中に入れる。


「なるほど。どうりで帰宅部の奴が多いわけだ……」


 呟きつつ視線を正面に移すと、空の席とその右横で机に突っ伏す佐野の背中と、テストの感想を言い合う少数グループがいくつも見えた。


 因みに前の席の男――宮間は、中央階段前の掲示板に、朝のホームルーム中に張り出される順位表を見に行った。そこに載るのは上位五十人の名と総合点。成績表の端に書かれた自分の順位の他に、他人の順位を知りたいという生徒(ほぼ全員)のためのランキングである。


 ……まぁ、百五十六人中、百三十一位の俺には関係無い話だけどな……


 はぁーっと、今日何回目かわからない溜め息を出す。成績表を半分に折って胸ポケットに入れ、椅子の背もたれに体を預ける。


 教室を去る前に佐藤先生が言っていたが、赤点を取った生徒は夏休みの序盤に追試があるらしい。数も少なく、基礎問題しか出ないらしいが……そこで合格点を取れなければ、日を改めて補習を受けることになるらしい。そうなると、夏休みの前半はほぼ無くなるという。


 そんなのはご免だ。バカなことからわかると思うが、俺は勉強嫌いなんだよ。

 本当は追試のための勉強もしたくないけど……貴重な夏休みを守るためには仕方ない。今の内から手を打たなければ。


 でも六科目もあるからなぁ……ふつーに俺だけで勉強しても……無理だよなぁ……だって、どっからどうやって勉強すればいいのかもわかんねぇもん。まずいな……このままじゃ、マジで俺の夏が終わる……どうするか…………っと、待てよ――


 ふと、ある事を思いつき、ちらっと隣の学年主席を見やる。

 ――そうだ。ここに超頼りになりそうな、頭の良い友達がいるじゃないか!


「なぁ矢鏡」

「何?」

「勉強教えてくれない?」


 にへっと苦笑いを浮かべて頼むと、矢鏡は三白眼をこっちに向け、


「人に教えたこと無いから、わかりやすくはないと思うけど……それでもよければ」

「マジで!? サンキュー矢鏡!」


 俺は手をパンッと打って喜んだ。やっぱ持つべきものは頭の良い友達だよな♪


「じゃ、今日の放課後からよろしく! 六科目もあるからやばいんだ」


 そう言うと、矢鏡はこくりと小さく頷いた。


「場所はどうするかな……お前の家でもいい? 俺の家狭いし」


 またまた頷く矢鏡。この間気付いたが、矢鏡は学校だと更に口数が減るようで、可能な限りジェスチャーで返してくる。なんでか知らんが……まぁ、どーでもいいか。


 ――というわけで、テスト返しだけの授業を終えた俺達は、珍しく仕事が残っているというフィルを置いて矢鏡家に向かった。


 以前来た時は談話室に通されたが、今回は本棚だらけの書斎へと案内された。書斎は一階の左奥の方にあり、天井も棚も高く、室内に何も無ければバスケの試合が出来そうなくらいの広さがある。内装はアンティークっぽいデザインで、やたら大きな窓の近くには、平行になるよう置かれた長方形のテーブルと、それを囲むように手前と奥に四つずつ、左右に一つずつシックな木の椅子が並べられている。どう見ても会議用の配置である。


 俺は矢鏡に指示された通り、ドアから見て右端奥の椅子に座った。

 矢鏡は鞄を対面の椅子の上に置き、ちょっと待ってて、と言って本棚の間に入る。一分も経たずに、参考書らしき本を何冊も手に持ち戻ってくる。それを俺の前にドサッとおろし、斜め左の、俗にいう誕生日席に腰掛ける。


「まずは世界史からやろうか。あの問題で十三点じゃ……時間かかりそうだし。とりあえず追試に出そうなところを中心に教えるから、最低でも要点だけは覚えてね」

「……頑張るよ」


 そして、クラウスさんが持ってきてくれた紅茶を片手に、第一回矢鏡先生による追試対策講義が始まった。



 **



 ――あ、それと余談なのだが。

 今回の期末の順位には結構変動があったらしい。矢鏡がトップなのは変わらないが、常に五十位以内に入っていた生徒もそうでない生徒も、フィル様ファンクラブに入っている生徒は、多少の差はあれど全員成績を落としたらしい。しかも、宮間曰く生徒会長は万年一位の称号をとうとう失い、十六位にまで転落したという。恋に浮かれているからだな。


 おかげでギリギリ五十位に入れた、と宮間が喜んでいた。あと、意外にも佐野は俺と同じ追試組だった。赤点四つだって。それでも全く焦らないっていうんだから、ある意味凄い奴だと思う。留年とか気にしないのかな……俺でも少しは気にするのに。



 **



「おや、華月がいるなんて珍しいね。何してるんだい?」


 勉強を始めておよそ二時間後。矢鏡作の小テストを解き終わったところで、爽やかに微笑んだフィルが部屋に入ってきた。


「あ、おかえりー。見れば分かると思うけど、勉強してるんだよ」


 俺がそう言うと、フィルはこっちに歩み来ながら不思議そうな顔を作り、


「勉強? テストっていう行事が終われば、しばらく勉強しなくていいって聞いたけど……」

「それは普通の生徒の話。赤点六個も取っちゃった俺は追試があって、そのために勉強しないといけないの」

「……あかてん? ついし?」


 そのへんの用語はまだ知らないようで、更に首を傾げる。

 矢鏡に解答用紙を手渡し、どうやって説明するかな、と悩んでいると、受け取った紙に赤ペンを走らせながら矢鏡が口を開いた。


「百点を満点とするテストで、三十点以下の点数を『赤点』と呼ぶ。『追試』は追試験の略」

「なるほど」


 それだけで納得するフィル。

 俺はにっこり笑いかけ、


「暇ならさ、フィルも勉強教えてくれない? 追試受からないとやばいんだ」

「教えるも何も……勉強なんて、本の内容を全て覚えればいいだけだからなぁ」


 あっさり放たれた言葉に、ぴきっと引きつる表情筋。

 俺はため息一つ吐き、軽く頭を振る。


「駄目だ……俺には天才の言ってることが理解出来ない……」

「一度は言ってみたいよ、そのセリフ」


 フィルにジト目を向け、淡々と言う矢鏡。


「全くだ」


 うんうん頷き、同意する俺。

 返す言葉が見つからないのか、フィルは困ったような笑みを浮かべて固まった。

 その様子をちらっと見てから、俺は矢鏡に視線を移し、


「ってか、矢鏡だって頭良いだろ。教えるの初めてって言ってたけど、すげーわかりやすいし。そーゆーセリフ言えそうじゃん」

「無理だよ。俺は単純に、フーリに行くまで暇な時間が多かったから、暇潰しとして勉強していただけ。天才とは程遠い」

「へぇー。意外とお前、努力家タイプだったんだな」


 感心してそう言うと、矢鏡は採点し終わった俺の答案用紙を手に取り、


「……俺も意外だよ。華月、やれば出来るんだな」

「おや本当だ。十問中、六問正解してるね」


 横からひょいっと覗き込み、フィルが言った。

 おいちょっと待て。その正解数で『意外』ってことは……


「まさか、教わったばっかの基礎しか出てないこの中で、一問でも解ければ上出来――とか思ってたわけじゃない……よな?」


 尋ねた途端、さっと視線を逸らす矢鏡。おいこら図星か。

 俺は矢鏡にジト目を向け、


「ひでーなぁ。俺どんだけバカだと思われてんだよ」


 とぼやくと、矢鏡は十秒ほど考えてから言う。


「……言っておくけど、この程度の問題なら全問正解するのが普通だよ。内容、ついさっき教えたばかりのところだし」


 …………


「……じゃあ、せめてふつーよりちょい下くらいのバカだと思っててくれ」

「まぁ、最悪という程ではないねぇ」


 淡々と、フィルが口を挟んでくる。

 矢鏡は小さく頷き、


「とりあえず……これなら追試は問題なさそうだな。歴史だけで三日はかかると思ったけど、今日中に試験範囲終わるだろう」

「でも、あと一時間くらいで晩飯の時間だぞ」

「一時間あれば大丈夫だと思う。――良ければ夕飯食べてく?」

「いや、悪いからいいよ。親に連絡してないし」

「そう。なら、なるべく早く終わらせようか」

「はーい。よろしくせんせー」


 俺はふざけて言って、


「じゃ、僕は見てようかな」


 フィルはくすりと笑い、対面の椅子に腰掛けた。

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