8-8 おまけ ―矢鏡の苦労③―

「あのねぇ……」


 ふーっと、フィルは溜め息を吐いた。


 水曜日の放課後、二号棟三階廊下にて。中庭を通る華月に向かって鉄製のバケツを落とした犯人――一号棟三階にいる女子生徒に小針を投げようとしているところを、矢鏡に羽交い絞めにされ止められた時のことである。


 フィルは首を回して背後に立つ矢鏡を見やり、


「あれは叱るべきだよ、ディルス」

「……避けたんだから、やめろ」


 矢鏡はやや弱ったような顔で応えた。


「当たらなければ鉄製の物でもいいのかい?」

「良くないが……だからといって、針を投げていい理由にはならない。人間は俺達とは違い、弱く脆い生き物だって……医者のお前ならよくわかってるだろ」


「ちゃんと加減するし、掠らせるだけで刺すわけじゃないよ」

「危害を加える時点でアウトだ」


「それじゃ反省しないだろ。痛みや恐怖を感じなければ、子どもが己の過ちに気付くことは無いんだから」


「それは人によるだろ。本当にお前は物騒な思考してるな」


「育ちが悪いからね」

「奇遇だな。俺もだよ」


「そう。――ところで、そろそろ放してくれないかな」

「休み時間が終わったらな」


「……止められたからには、あの人間に手は出さないよ」


「お前今、若干イラついてるだろ。あの人間に手出ししなかったとしても、何か良くないことをする気だろ。そんなお前を野放しには出来ない」


「…………」


 フィルは不服そうに眉根を寄せ、小さく息を吐いた。次いで、


「……仕方ない」


 ぼそりと呟いた直後、一瞬で両腕を引き抜き拘束から逃れ、矢鏡の胸倉と片腕を掴んで廊下の先に向かって投げ飛ばした。


「……っ!」


 矢鏡は驚きを少し顔に出し、自身が上下逆さまになっていることに気付いた。瞬時に頭上に右手を突き上げ床につき、それを支点に回転、足から着地する。ゆっくり立ち上がり、真っ向からフィルを見据えた。


 フィルは持ったままだった小針を弄びつつ、


「最初はさぁ、これでちょっとした傷を負わせて、警告するだけのつもりだったんだよ。だから本当は、今日まで薬は使ってない」


「使ってない……? 最初の吹き矢もか?」


「そう。あれは君をからかっただけで、神経毒なんて塗ってない。そもそも、僕が持ってる神経毒は霊体用の強力なやつだけだから、人間になんて使えないよ。確実に殺してしまうからね……そんなことしたらシンが悲しむ」


「……そうだな」

「だから遠慮して何の薬も使わなかったし、生徒四人を頭とした組織で動いてることを特定しても何もしなかった」

「おいちょっと待て。もう割り出したのか」


 矢鏡の淡々としたツッコミの後、ふっと笑って明後日の方を向く。


「でも、人間達があそこまでするなら、軽く脅すくらいはやってもいいよね」

「こら無視するな。それとお前の脅しは拷問に近いから止めろ。洒落にならない」


「大丈夫。組織を潰したら、次は単独で嫌がらせしている輩を処罰するから」

「話を聞け。あと大丈夫な要素どこだよ。皆無じゃないか」


「わずかとはいえ、僕を苛立たせるからだよ。けど心配しないで。騒ぎになったら華月に迷惑がかかるから、ちゃんと秘密裏に行うよ」


 フィルは視線を矢鏡に戻し、にっこり微笑んだ。小針を肩の位置まで上げる。


「とりあえず、君は邪魔だから寝ていてくれないかな」


 矢鏡は長い溜め息を吐き、


(本気で怒った時より遥かにマシだが……フィルを怒らせると本当に厄介だな)


 そう考えて、真剣な表情を作った。半実体化の指輪を現し、左手に嵌める。


「止める――なんて甘い考えに同意せず、初めからこうすれば良かった」

「その指輪……」


 鈍く光る銀を見つめ、フィルは口元から笑みを消す。


「ばれなければ良いってわけじゃないんだ。悪いがしばらく拘束させてもらう。聡明なお前の頭なら、数日あれば冷えるだろ」


「……短期間とはいえ、僕がいなくなったら色々困るんじゃない?

 華月にだって怪しまれるよ」


「嘘でもついて、なんとかするさ。――怪我させたら謝るよ」


「……公平じゃないね。術を使う気かい?」

「体術だけじゃ勝てないからな。安心しろ、肉体強化しか使わない」


 静かに言いながら、矢鏡が一歩踏み出す。

 技を仕掛けるタイミングを計るための行動に、臨戦態勢に入った様子に、フィルは少しだけ目を細める。そして、


「君がその指輪を持っていたのは、誤算だったなぁ……」


 矢鏡が再び足を動かす前に、薄く笑い口を開いた。


 一秒後には距離を詰めて打撃を与えようと考えていた矢鏡だったが、思わずぴたりと動きを止める。実力差は、互いに十分理解している。それでも尚、余裕な態度を崩さないフィルを怪しく思って。


 フィルは小針を袖にしまい、代わりに別の物を取り出した。矢鏡が指に嵌めた物と全く同じ銀の輪だった。それを右手で摘まみ、顔の高さに上げて見せる。


「実は僕も持ってるんだ。半実体化に加えて、手で触れた物まで人間の目には映らなくなるなんて便利だよね。おかげで、組織や首謀者を調べるのが楽だったよ。

 ――でも、君まで持ってるならハンデにはならないな……仕方ないから一旦引くよ。このままじゃ勝てないし」


 最後の言葉を告げると同時に、フィルは左手の内に隠していたモノを床に投げつけた。

 パキンッと小さな音が鳴り、次いでボンッという盛大な破裂音と共に白い霧が眼前に広がる。一瞬で何も見えなくなった。


 矢鏡は咄嗟に、フィルが立っていた場所に手を伸ばしたが、虚しく空を掴んだだけに終わった。ゆっくり手を下ろすと同時に、視界を埋め尽くしていた霧がふわりと消える。


 思った通りフィルの姿はそこには無く、矢鏡は思わず眉間にしわを寄せた。溜め息と共に視線を下ろし、そして、足元に小さな白い紙が落ちていることに気付いた。迷わず拾い、表面に書かれた文字を目で追う。


『この煙幕はただの人間には見えないから安心していいよ。それと、この件が片付くまでは、学校には来るけど家には帰らないから、執事君に言っておいてね』


 読み終わると、矢鏡はふーっと長く息を吐き、


「……まずい……逃がした……」


 力無くぼそりと呟いて、足早に一階へ下りた。渡り廊下から中庭に出て、二号棟の屋根の上へと飛び乗る。


 きょろきょろ周囲を見渡し、気配と勘は使えないため、視覚と経験だけを頼りにフィルの姿を探す。


 それからは完全に陽が落ちるまで、保健室を含む校舎内、近くの山、駅、商店街、華月の家とその近辺へと次々に足を運んだが、結局、フィルを見つけることは出来なかった。


 暗い中探すのは無理だ、と諦めた矢鏡は自宅へ向かい、誰もいないことを確認してから鉄門の前で指輪を外した。次いで、術で消しておいた鞄を手元に出し、鉄門を押し開け玄関へと続く道を歩む。


「フィルのことだから、すでにいくつか策を立てているだろうな……それを見抜けなければ、捕まるのは俺の方か……」


 淡々と言って、明かりが灯る屋敷を睨むように見据える。


(主謀者を割り出した、と言っていたな……ということは、明日にでも仕掛けてくる可能性が高いか。止めるには……俺だけじゃ難しい。捕まった時の対策を――)


 そこまで考えたところで、屋敷の入り口へと辿り着いた。


「おかえりなさいませ。今日は遅かったですね」


 扉を開けると、赤い絨毯の横に立つクラウスがにこりと笑った。いつものように、鉄門付近に備えられているセンサーで矢鏡の帰宅を知り、出迎えのために待機していたようだ。


 矢鏡はじっと見返し、


(この手は使いたくなかったが……)


 クラウスに、明日の放課後迎えに来るよう頼んだ。もし自分が捕まった場合、華月に異変を知らせる手段として。いつも真っ先に帰宅する華月と鉢合わせるように仕向ければ、自分を探すクラウスを手伝うだろうと踏んで。


 ここで、華月に言伝を頼んだり、フィルの危険思想を書いた紙を渡すよう頼んだりしなかったのは、間違いなくフィルにばれ、クラウスが排除されると感じたからである。しかしこの程度ならば、多少気にされるかもしれないが、脅威ではないと見逃されるだろう。


 クラウスは滅多にない矢鏡からの頼み事を喜び引き受けたが、矢鏡は心底不服だった。

 華月と同じく、矢鏡もまた、他人に頼るのが嫌いな性質だった。



 **



 次の日、矢鏡はいつもより早く登校し、指輪を使って、フィルと、何か校内に仕掛けが施されていないかを探した。


 しかしどちらも見つけることは出来ず、今一度授業中に華月にメモを渡そうとしたが、窓の外から飛んできた針によって阻害された。その後も、休み時間になるたびにフィルを探して校内を走り回る。


 そして、ようやく見つけた。昼休みになった直後、西側の渡り廊下から。


 自分の教室前を歩く華月に紐でくくられた分厚い本を背後から投げつけ脱兎のごとく逃げ出した女子生徒を、二号棟の屋根の上から鋭い眼光で射抜いていた。


 矢鏡はすぐさま屋根に飛び乗り、自分に視線を移すフィルと対峙する。


「見つけたぞ。観念しろ」


 低い声音で矢鏡が言うと、フィルはにこりと笑い、


「おや、見つかってしまったか。でも……観念するのは僕じゃないね」


 中指に指輪を嵌めた右手に長針を現し、構えた。

 その余裕のある態度を警戒し、矢鏡は慎重に半歩踏み出す。


「……俺に勝てる算段がついたか」

「まぁね。――と言っても、周りを一切気にせず、全力を出されたら終わりだけど。でも、臆病で優しい君は、そんなことはしないだろう?」


 嫌味のような挑発に、矢鏡はわずかに目を細めた。

 無駄だとわかっていても、挑発することに何の意味があるのかを考えた。フィルの腹の内を見透かそうとした。

 そんな矢鏡に、フィルは体の正面を向け、にこにこ笑顔のまま口を開く。


「ところでディルス」

「……なに」


 矢鏡が応えた途端、フィルは素早く右手を下げ、代わりに何かを握った左手を上げた。

 見覚えのある"それ"を視認し、矢鏡の表情が凍りつく。


「生徒会室に、半径五百メートルは吹き飛ばす爆弾を仕掛けたんだけど、作動していい?」


 まるで夕飯のメニューを決めるかのように明るく問うフィル。その左手の中にあるのは、片手で包めるほど細く、長さが十五センチほどある円筒形の青白い物体。親指を乗せている先端面には、一回り小さい赤いボタンが付いている。遠隔操作用の起爆スイッチだった。


「……お前がそこまで狂っていたとは知らなかった」

「失礼だな。友達想いなだけだよ」

「…………。聞くが、いつ仕掛けた? 朝見た時は何もなかったぞ」

「昨日の夜。見つけられなかったのは仕方ないよ。床に埋め込んで、完璧に隠したから」


 矢鏡は一瞬、夜間は監視カメラと人感センサーが起動してるがどうやって感知されずに済んだのかを聞こうとしたが、フィルも半実体化の指輪を持っていたことを思い出して止めた。


「知ってる? 今生徒会室では、主謀者達が集まって会議を開いているんだよ。だからこれで――」


 静かに発せられる言葉の途中で、矢鏡は刹那に距離を詰めてフィルの懐に入り、左手にある起爆スイッチに右手を伸ばした。術を使ったおかげで、フィルは咄嗟に反応出来ず、その手からスイッチが弾き飛ばされる。


 しまった、という顔をするフィルに、矢鏡は内心勝利を感じた。わざわざ見せるからだ、天才らしからぬ凡ミスだな、と思った。次いで、とりあえず昏倒させようと、伸ばした右手で手刀を作り、


「残念、こっちが本物」


 にっこり笑顔のフィルが上げた右手、そこにある起爆スイッチを見て目をみはる。


「え」


 呆然とした声を漏らす矢鏡の目の前で、フィルは赤いボタンを押し込んだ。

 矢鏡は思わず生徒会室の方に顔を向け――同時に全身の力が抜けた。視界の端には、フィルの細い指と銀の長針が映っていた。


 フィルはすぐに針から手を離し、傾く矢鏡の体を軽々と持ち上げ肩に担ぐ。

 自由に動かせなくなった体をだらりと垂らし、矢鏡は一瞬でもぬか喜びしたことを悔やんだ。止められなかったことを華月に詫びつつ、生徒会室を見やり――気付いた。


 何も起こっていない。爆発音もしていないし、爆発したような様子もない。騒ぎにもなっていない。


「悲しいなぁー……信じるなんて。人間相手に無差別で危険な事をする程、僕は狂ってないよ」


 ふーっと息を吐き、残念そうにフィルが言った。くるりと身を翻し、校庭側から地面に下りる。その際、風系の術を使い減速したため、着地の振動はほぼ無かった。


「危険思想な発言と、嘘ばかり吐いているのが悪い。おかげで全く冗談に聞こえない」

「とても長い付き合いなのにねぇ……」

「自業自得だろ。それに、お前が危ない奴だというのは事実だ」

「元殺し屋の精神異常者よりマシだよ」

「それは……そうだが」


 仲間の一人を思い起こし、矢鏡は素直に納得した。

 フィルは音を立てずに校舎横を歩み、保健室に向かった。保健室には校庭側にドアが備えられており、そこから中に入る。次いで、窓側のベッドに近付き、カーテンを開け、白い掛布団の上にゆっくりと矢鏡を寝かせた。

 矢鏡は視線だけ動かして、フィルがまだ手に持っている起爆スイッチを見た。


「……それはダミーか」

「いや、本物。ちゃんと繋いであるよ」

「……? どこに仕掛けた? 爆発音なんてしなかったが……」


 訝しげな顔をする矢鏡に、フィルはにっこり笑って明るく答える。


「前回の任務で行った、ド変態の城♪」

「やけに帰りが遅いと思ったら……」

「直径十キロを焼き尽くす、数少ない特別製の爆弾を置いてきたんだよ」

「あー……あれか。抜け目ない奴……」

「敵地をそのままにはしておけないだろう?」

「……運良くシュバルトが戻ってきていて、ついでに吹っ飛んでくれたら楽なんだけどな」

「それは無理だな。さすがに、高位魔族を一撃で倒せる程の威力はない」


 言うなりフィルは数歩移動し、カーテンに手をかける。無表情でじーっと見つめてくる矢鏡に、いつもの爽やかな笑みを返し、


「それにしても、拘束とは良い案だよね。でも、今行くと内密には出来そうにないから……捕らえるのは放課後になってからにしようかな。華月は家に帰ってるだろうし」

「……もう一度言う。人間に手を出すな」

「これでも譲歩してるんだよ、君が必死に止めるから。注意の仕方も変えるよ。動くたびに激痛が走る劇薬じゃなくて、ただの自白剤を見せて脅すことにする」


「…………華月に怒られても知らないぞ」

「怒るなら現状の方にだと思うんだけど」

「あいつはあれくらいじゃ怒らない。鬱陶しいとは感じてるだろうが、それだけだ」

「ふーん……。まぁ、どちらにしろばれないように口止めもするからいいか。

 ――その姿を見られたら困るよね? だから静かにしてるんだよ」


 そう言ってフィルはカーテンを閉め、部屋を出て行った。

 それからしばし間が空き、再びドアが開かれる。次いで、何かを置く軽い音が四つと窓のカーテンが閉まる音が鳴る。数分無音が続き、人の気配が近付いてくる。それが室内に入るとすぐに何かを縄で縛る音がする。それが四回繰り返された。その後ドアが閉められ、パチンッと指を鳴らす音がした。その途端、運び込まれた四つの気配が動き出す。そして、


『ふぃ――フィル先生!?』

「やあ」


 男女四人の驚く声と、呑気にあいさつをするフィルの声が聞こえた。

 それからフィルは、華月をいじめていることは知っていると話し、何故そんなことをしているのか優しい口調で尋ねた。しかし、生徒達は声を震わせるだけで話そうとはしない。


 当然だな、と矢鏡は思った。

 いきなり捕らわれた挙句、根本的な原因――嫉妬に駆られるほど好いている人が目の前にいるのだ。動揺するのが普通である。


 フィルは小さく息をつき、


「……言わないのなら、これ打つよ」

「そ、それ、なんですか?」


 唯一の男子生徒が緊張したような声音で尋ねた。

 カーテンのせいで見えないが、フィルが注射器を見せつけていることは、矢鏡には安易に想像出来た。


 これは自白剤だよ、とフィルが答える。すると生徒達は更に動揺し、それだけはやめてほしいと懇願し始めた。


 ――戸が開いたのは、丁度その時。


「あ」


 フィルが驚きの声を漏らす。

 矢鏡は口にも顔にも出さなかったが、少しだけ驚いた。それと同時に感心した。


(もう気配が消せるようになったのか……)


 戸が開くその瞬間まで、華月の気配を感じ取ることが出来なかったからだ。そして次に、親友の成長の速さに感嘆し、今度こそフィルの暴走は止まると安堵する。

 その後は矢鏡が思った通りに、親友はあっさりフィルを説得し、矢鏡にとって非常に面倒で厄介な今回の騒動を収めた。



 **



 翌日。

 フィルの評価が落ちなかったことを知った華月が、やっぱ美形効果ってすげーな、ここまで変動しないとは思わなかった、と若干納得してない様子で矢鏡に言った。

 矢鏡は数秒考え、そうだな、と返した。


 華月がフォローを入れたから、過去を語り強い印象を与えたから丸く収まったことを知っていたが、教えることはしなかった。

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