8-7 おまけ ―矢鏡の苦労②―

 次の日、矢鏡は自分のベッドで目を覚ました。時刻は朝六時。ゆっくり身を起こし、自分がブレザーとネクタイを外されただけの制服姿で寝ていたことに気付く。なんとなく動く気になれず、そのままぼうっとしていると部屋の扉がノックされた。数秒後に草加が入ってくる。


「おはようございます。具合はいかがですか?」

「…………具合?」


 わけがわからず矢鏡が首を傾げると、草加はベッド脇に立ち、昨日学校で倒れて、フィルが家まで運んで診察したことを説明した。


「軽い疲労だそうですよ。若様のことですから、期末テストのために夜遅くまで勉強でもしていたのでしょう? あまり無理してはダメですよ」


 そして、風呂は沸いているから入れるという事を伝え、一礼して部屋から出て行った。


 矢鏡は小さく息を吐き、自室を出て右手に伸びる廊下を進む。左の窓から見える裏庭の大きな池を眺めつつ、ある程度間を開けて並んだドアを三つ見送り、四つ目の前で足を止める。ノックもせずにドアを開けると、


「おやディルス、起きたんだね。おはよう」


 広い部屋の中心に置かれた豪華なテーブルの上に様々なガラス器具を広げ、何かの薬を作っていたフィルがにっこり笑った。右手に持っていた、薄緑色の液体が入った円筒形のビンをことりと置く。因みにこの部屋は客室であり、今はフィルの部屋として宛がわれている。


 矢鏡は無言で室内に入り、フィルの横に立ち並んだ。下ろした右手に"ある物"を現し、それを素早くフィルの頭に叩きつける。パァンッと良い音が鳴った。


「あいたっ。……ちょっと、何するのさ」

「幼少時にもらったハリセンという道具で叩いた。この程度ならいいだろ」

「……睡眠薬使ったことが気に入らないなら、ちゃんと寝なよ」

「寝ようとしても寝られない事もあるし、理解していても気に入らない事もある」

「あぁ……繊細だからね、君」


 納得したように呟くフィルに、矢鏡は再びハリセンを振り下ろした。



 **



 矢鏡はシャワーを浴びて着替えを済ませ、朝食を取ってからフィルと共に学校に向かった。昨日のやり取りを思い起こし、それから教室に入る。授業中も休み時間も、華月と周りの様子を窺う事は忘れず、不審に思われないよう注意もする。


 何事も無いまま午前が終わり、昼休みになった。飲み物買ってくる、と言って華月が教室を出ていく。矢鏡はその後を、かなり距離を開けてついていった。もし今、華月にちょっかいを出す輩が現れても、昨日約束したばかりなのですぐにフィルが動くことはないだろうが、犯人の特定くらいはしておいた方が良いと考えてそうした。


 華月は堂々と廊下の真ん中を歩み、西階段を下りて中庭へ出る。中庭の中心には噴水があり、それを囲むようにベンチが置かれている。その西側の脇に、二年B組の教室から一番近い自販機はあった。華月はその前に移動し、ズボンのポケットから小銭入れを出す。


 矢鏡は階段脇からその様子を覗いた。そして、


「……!?」


 矢鏡は驚いた。ほんの僅かに目を見開く。


 二号棟二階の西階段横、壁に隠れてほぼ見えないが――フィルがいた。フィルは真顔で中庭を見下ろしていて、左手に細い筒を持っていた。


 矢鏡はすぐに、気配だけで周りに誰もいない事を確認した。次いで、肉体強化を使って一瞬でフィルの左横に移動し、筒を持ったその手を掴む。


「……!」

「止めろ何する気だ!?」


 驚くフィルに、必死な様子で矢鏡は言った。途端、


『おっと』


 外から華月の声がした。同時にボンッと、何かがぶつかる音が鳴る。

 矢鏡は反射的にそちらを見やり、そして理解した。


 華月は一歩横にずれ、一号棟の方を見つめていた。視線の先にはゆっくり転がるバスケットボールがあり、それは近くの花壇に当たると動きを止めた。

 どうやら、誰かが華月に向かってボールを投げたらしい。


「気付くの早かったね、ディルス。おかげで犯人に逃げられたよ」


 不満そうな顔をしたフィルが、溜め息交じりにそう言った。

 矢鏡はジト目を返し、


「先に聞く。その筒は何だ?」

「吹き矢」

「…………。何の薬が塗ってある?」

「ただの神経毒だよ。三日間寝たきりになるだけの」


 あっさり言われたその言葉に、矢鏡は額に手を当て項垂れた。間に合って良かった、防げて良かった、と心底思う。

 矢鏡はフィルの手を離し、小さく頭を振った。眉をひそめ、


「……昨日の話、忘れてないよな?」

「覚えてるよ」

「ならなんで――」


 言いかけて、ふと気付く。


「あ。まさかお前……昨日の約束、俺に邪魔されないためにしたんじゃないだろうな?

 ああ言っておけば数日くらいは気付かれない、と考えたとか……」

「そんなことないよ。単に、我慢の限界が来ただけだよ」


 フィルはにっこり笑って答えた。

 やっぱり図星か、と矢鏡は思った。次いで、長い溜め息を吐き、


はなから仕置きする気満々だったわけか……昨日の言葉を信じた俺がバカだった……」

「そうだねぇ……君は素直すぎるから、もう少し疑う事を覚えた方がいいね」

「お前が言うのか」

「僕だから言えるんだよ」


 フィルは明るい調子で返した。

 数秒の間を開け、矢鏡は再び溜め息を吐いた。


「……因みに、たかが十数年しか生きていない子ども相手に大人げないとは思わないのか?」

「悪事を働いた子どもを叱るのは大人の役目だよ。だから――」


 フィルはくすりと笑って、階段の方へと足を向ける。そして、


「約束通り、僕は好きにさせてもらう。止めたければ止めるといい。出来るものなら……ね」


 そう言い残して去っていった。

 残された矢鏡はしばし呆然とし、やがて横を向いて空を見上げた。

 大きな白い雲が青い空を塗り替えていく様をぼんやり眺め、


「あー……めんどくさい。フィルを学校に連れてくるんじゃなかった……」


 一人ぼやいた。



 **



 それから、華月の知らない所で二人の激闘が始まった。

 圧倒的に矢鏡が不利な戦いが。



 **



 まず矢鏡は、フィルが暴走していることを華月に伝えようとした。フィルは華月には甘いことを、矢鏡は知っている。故に、これが一番手っ取り早く、確実に止められる方法だともわかっていた。しかし、そのことをフィルが自覚していないわけがなく、また、矢鏡が真っ先にこの手を使うことも予測済みだった。


 矢鏡が華月に話しかけようとすれば、小さい針を投げ飛ばして『声が出せなくなる薬』を打ち込んで防ぎ、声がダメなら、と紙に書いて知らせようとすれば、同じく針を飛ばして矢鏡の利き手に『握力が無くなる薬』を打ち込み防いだ。


 ここでフィルにとって"福"だったのは、矢鏡が普段から無口であり、授業中にノートを取ったりしないことだった。おかげで、矢鏡が一言も発さなくても、右手を一切使わなくても、誰も不思議に思わない。この程度の変化なら、華月に不審がられることも無い。もし矢鏡が饒舌じょうぜつな人間だったなら、確実に華月や周りの人間達に怪しまれるため、薬を使って防ぐことは出来なかっただろう。不利なのはフィルの方になっていたことだろう。


 ここで矢鏡にとって""だったのは、華月は携帯電話を所持していないことだった。フィルはまだ、この世界の文明機器である携帯電話の存在を知らない。通信機は警戒されるため使えないが、携帯ならば例え電話が出来なくてもメールが送れる。そうすれば、知略を尽くしフィルに挑む必要も無く、容易にフィルを止められただろう。


 打ち込まれた薬の効果は数時間で切れたが、その後伝えようとしても再び薬を打たれて止められることは明白だった。故に矢鏡は、華月に頼ることは早々に諦め、とりあえずフィルに盗聴器を仕掛けておこうと考えた。そうすれば、フィルが不穏な行動を取ろうした時に気付いて止められる可能性が高いと踏んだ。


 しかし、普通の人間とは違い、ほとんど睡眠を取らないフィルに気付かれること無く盗聴器を仕掛けるのは至難の技で、一度だけなんとか隙をついて衣服に仕込んでみたものの、あっさり見つかり失敗に終わった。その際フィルは、無駄なことをするね、と鼻で笑った。


 少しだけ苛立ちを覚えた矢鏡は、いっそどこかに閉じ込めよう、シンに言って別の世界に移動してもらおう――などと考えたが、学校の養護教諭として認定された今となっては、それも難しく面倒事になるだけだと踏み止まった。深い溜め息をつき、別の手を考える。




『仕事を増やし、最低でも日中は保健室から出られないようにする』


 ――容易にクリアされる可能性が高いため没。




『極力華月と離れないようにし、いじめる輩が手出し出来ない状況を作る』


 ――それでは解決出来ない、とフィルに排除される可能性が高いし、それ以前に華月の生き方に関与するやり方なので没。




 いくら考えてもフィルを抑制出来るような案は浮かばなかった。


 やがて矢鏡は考えるのも面倒になり、最終的に『極力見張るようにし、どうにかして自力で止めるしかない』という結論に至った。それが、フィルとした約束通りの――フィルの思惑通りの行動だとわかっていても、そうするしかなかった。


 ――そして、すぐに気付いた。

 このやり方は、華月に頼る以外では最も楽な方法であると。


 授業を欠席し続けることは出来ないため休み時間などの少ない時間しか見張れないし、邪魔されたくないからとフィルが逃げ回るため毎回探さなければならないが、授業中ならフィルは生徒達に手出し出来ないし、そもそも逃げたところで意味が無い。誰かが華月をいじめようとすれば、それを排除するために必ず近くに現れるのだから。


 ――そして、後に気付いた。

 己の考えが甘かったことに。

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