第5話
お盆明け初めての登校日から、野球部の本格的な練習が始まった。
三年生が引退し、新たなメンバーがグラウンドに集まった。入院中の磯田くんを入れて、たったの十人。本当にぎりぎりの人数だ。
ミーティングのあと、ストレッチをして体をほぐし、ランニング。キャッチボールにベースラン。通常のメニューを順調にこなしていく。
「次はバッティング練習や。全員やぞ!」
本宮くんの指示のもと、バッティングマシーンをマウンドに設置した。ボールのセッティング係りが一人つく。交代でバッターボックスに入り、カキーン、コキーンとバットの音が響いた。
わあ、すごい。久々のはずなのに、みんな調子がいいみたいだなあ。
グラウンドの端でしばらく見ていたけれど、特に何もすることがなかった。ボール拾いは練習も兼ねているので、部員たちの仕事だ。フェンスの外へ出る。
あ、そうだ。日誌をつけなくちゃ。
顧問の大門先生をたずね日誌を受けとるために、わたしは職員室へ向かった。
すると、その途中、土間に入ったところで、思いがけない人物にでくわしたのだ。
「詩麻先輩、あの、ちょっと……」
下駄箱の陰にかくれ、ばつの悪そうに手招きをする彼。
「いっ、磯田くん?」
まだ入院していると聞いた彼が、目の前にいた。
「なんでここにいるの? 病院にいるんじゃ……」
びっくりして大きな声を出したら、磯田くんは焦った。
「せ、先輩! しーっ。静かにしてくださいよ。みんなには退院したこと、まだ話していないんですから」
「へ、そうだったの?」
「みんなに会わせる顔がないし。でも、詩麻先輩だけには……と思って」
わたしは、ちょっとだけムッとなった。
「あのねえ、磯田くん。静かにするも何も、みんなはグラウンドにいるんやから、そんなに声低くしなくても大丈夫だと思うけど。それに秘密にしておきたい話があるんなら、メールにすればよかったのに」
「はあ、それはそうなんですが……」
磯田くんは困ったような顔をした。
「なんか慌てちゃって。取り急ぎ、詩麻先輩だけに伝えたいことがあって来たんです」
「わたしだけに伝えたいこと? え、何?」
「は、はあ。実は……」
と言いにくそうに口ごもりながら、磯田くんは携帯を取り出した。ピッ、ピッと二、三回ボタンを押したあと、もう一度わたしの顔を見る。そして、ごくりと唾を飲み込んだ。
「先輩、前もって言っておきます。これを見ても、ぜったい驚かないでくださいね」
磯田くんが携帯の画面をこちらに見せたとたん、わたしの全身は凍りついた。
それは明らかに、わたしの写真だった。
折り畳み式の椅子に座り、カメラに頭と背を向けている。そのため顔は見えていないけれど、問題が一つだけあった。
写真に写っていたのは、わたしだけじゃなかったのだ。わたしの向こう側に誰かがいて、わたしの顔と重なっている。あたかもキスを交わしているかのように――。
「ちょ、ちょっと待って。何、これ! こんなん嘘やん!」
「せっ、先輩?」
「誰が撮ったん? いつ、どこでっ?」
間違いなく、ここに写っているのは、わたしと本宮くんだ。公園で釣りをしているとき眠ってしまい、彼に起こされたときのもので、二人でいるところを、誰かに見られていたのだ。
足元がぐらんぐらん揺れているような気がした。
息が苦しい。
「それ写ってんの、やっぱり詩麻先輩やったんですか?」
わたしは、磯田くんの顔を見上げた。
すると、磯田くんはハッとしたあとに、うろたえるように言い訳をした。
「ち、違いますって。おれじゃありません! おれはただ、写真を受けとっただけで。他のやつからまわってきたんですよ」
「受けとっただけ……?」
磯田くんは強くうなずいた。
「はい。名前は言えんけど、ダチからもらったんです。どうも、一年のあいだでまわっているようで。たぶん、ただの冷やかしやないかと思いますが……」
「けど、みんな、わたしだってわかってるんやろう? ほんとはキスなんかしていないのに、してるって思われてるんやろう? 冷やかしなんかじゃ済まされないよ。それに、もとやんだって……」
「先輩、落ち着いてくださいよ。いつも部活で一緒のおれやったから、詩麻先輩だってわかったんです。顔を見られたわけじゃないんだし、他のやつらもわかっちゃいませんって」
「でも、でも……!」
「そんなことより、相手は本宮先輩やったんですね。それ、まずいっすよ」
「まずいって?」
「だって、ですよ。野球部のやつらだったら、いつかおれみたいに気づいてしまうかも。今は一年だけでも、上級生に写真がいくのは時間の問題や。そうなったら親とか先生にまで知られるんとちゃいますか? もしかしたら、部活動停止になったりして――」
部活動停止?
わたしの耳に、固く重く響いた。
*
シャワーを浴びて夕ごはんを食べたあと、 リビングでテレビを見ていたお兄ちゃんに声をかけた。
「ちょっとコンビニに行って、アイス買ってくる」
めずらしくお兄ちゃんは何も言わなかった。いつもなら「おれも行く」だの「プリン買ってこい」だのってうるさいのに。今日はふり向きもしない。「おう」と、たったひとことだ。
けど、ちょうどよかった。なんとなく、お兄ちゃんと顔があわせづらいから……。
リビングの時計は、午後八時半をまわってる。
ふう、と息をついて、サンダルをつっかけ歩きだす。
外に出ただけで汗がふきだしてきた。
まったく風がなくて、生ぬるい空気が肌にベタベタまとわりつくような夜だった。
ガードレールの際に、街灯がポツポツ立っているだけで、すれちがう人は少ない。
カラカラ音を響かせながら坂道を歩いていくと、自然に磯田くんのアドバイスが思いだされた。
『とりあえず知らないで通すんですよ。だれに何を聞かれたって』
どうせ顔は見えていないのだから、あの写真がわたしと本宮くんだってわからないだろう。わたしも、それが一番だと思ってる。
だけど、本当にそうかな。
だれにもバレないかな。
不安でたまらない。胸が苦しくてドキドキする……。
いつのまにかコンビニの近くまで来ていた。目の前のカーブを曲がりきったところが、コンビニの駐車場だ。
けれども、そのカーブの街灯の明かりが白く開けたところで、グキッと足首をひねってしまいそうになった。
明かりの下に、本宮くんのうしろ姿が見えたからだ。
「も、もとやんっ?」
わたしの声に、本宮くんの背中がピクッと反応する。立ち止まって、ゆっくりふり返った。
「だれかと思ったら詩麻やったんか。ビックリしたわ」
本宮くんは、Tシャツに黒のトレパン姿だった。両足のポケットに手を突っこんだまま、目をまん丸にする。
「わたしもビックリしちゃった。ぐ、偶然やねえ、こんなところで会うなんて」
本当に偶然もいいとこだ。本宮くんの家は、ここからずっと離れてる。方向がまったく違うのだ。
「こんな時間にどうしたん? 今まで何やってたん?」
意味もなくたずねたら、本宮くんは「あ、あー」と長い溜めをつくった。
「げ、ゲーセンに……ちょっと野暮用で」
と、申し訳なさそうにポリポリほっぺをひっかく。
「ゲーセン? もとやんがっ?」
野球と釣りにしか興味がないと思ってた。わたしがおどろいて声をあげると、本宮くんは不服そうに不満をこぼした。
「なんや、おれかてフツウにゲーセン行くし。そういう詩麻は? こんな時間に出歩いてるのは、そっちも同じやろ?」
「へっ? あ、わたしはコンビニに……それに、ここは近所やもん。べつにいいやん」
できるだけ自然に会話しようと思った。けど、やっぱり話しにくい。視点が定まらず、きょろきょろ周囲に目がいってしまう。
話しにくそうにしてるのは、本宮くんも同じだ。
わたしに話をふりながらも、目をこっちに向けない。なぜだか空を見上げてる。
どこからか波の音が聞こえてくる。ざざん、ざぶん、ざざーん。
しばらく、そうして波の音に耳をかたむけているときだった。
「わりい、いまの嘘なんや」
本宮くんがポツリと言った。
「本当はな、ゲーセンやない。おまえんちに行こうとしてたんや」
「え、わたしんちに? でも方向が反対やん。わたしんちは、あっちだし」
わたしが歩いてきた道を指さす。
「だから、行こうとしてたんやって。やっぱ、やめたんや」
「どうして……?」
「だって、おまえの兄貴、なんかおっかねえし」
と、どこか、ふてくされたように言う。
「へ、お兄ちゃん?」
どうして、ここでお兄ちゃんの話になっちゃうの? と頭をひねったところで。
あ、まさか……! ドキッと胸が大きく鳴った。
本宮くんも知ってしまったのだろうか。あの画像がまわってることを。
そう思うと、体がカーッと熱くなってしまった。
「もとやん……もしかして、磯田くんから……?」
なんとか声をふりしぼる。
本宮くんはガードレールの上に手を置いて、猫みたいに体をグッとそらした。
「――やめる、っていうなよ」
静かな夜空に彼の声だけが響いた。
「今まで、みんなでがんばってきただろ。あと一年あるじゃないか。だからさ、つまんねえことでやめるっていうなよ。だれ一人として、いなくなっていいヤツなんていないんだ」
本宮くんの言おうとしていることがなんなのか、わかった。彼は野球部キャプテンとしての責務を果たそうとしているのだ。磯田くんのときと同じように、わたしに対しても。
なのに、マネージャーのわたしが足を引っぱってどうするの?
自分ではちっとも気づいていなかった。
あんなウワサを恐れて、わたしはわたしのすべきことを放り投げるところだった。
本宮くんは磯田くんから話を聞いて、それに感づき、先回りしにきたのだ。
そして、そのとちゅう思うことがあって引き返すところだったのだろう。
ごめん、もとやん。
ごめんね。
心配かけて……。
「うん、やめないよ。わたし、マネージャー続ける。だって、野球が好きやもん」
わたしはマネージャーになった理由を思いだしながらつぶやいた。
なんだか、少し元気がでてきた。自然と笑みがこぼれる。
「そっか……そうだよなあ」
本宮くんは、まだ空を見上げたまんまだったけれど。
「おれも、好きや」
唐突にそう言って、ぐっと胸をそらした。
「――え?」
自分の耳をうたがった。
いま聞いたセリフは――野球が好き、っていう意味だったんだよね。何か含みがあったように聞こえたのは、さすがにわたしの気のせいだろう。
なのに、彼の横顔を見つめているうちに、なんだかドキドキしてきた。
……何を見ているのかな。
本宮くんの視線は、夜空のずっとずっと高いところを見ているかのようだ。 わたしのところからは、どんな表情をしているのかわからない。
そっと彼の右側にまわりこんでのぞきこむ。
本宮くんがハッとして、こっちをふり向いた。
「わっ、バカ! 人の顔、勝手に見んなよ!」
耳元まで真っ赤にさせて、それこそ少年のようなしぐさではにかんだ。
それから腕をあげて、わたしの頭の上でげんこつをつくる。
「これからも頼りにしてっから、よろしくな」
わたしの頭の上に、ふわりとやさしい手がのった。
どうしよう。胸が強く、はやく、打っている。
たぶん、わたしは本宮くんが好きなんだ。
けれど、この気持ちは、まだ伝えなくていい。
伝えるには、きっとまだ早すぎるだろうから。
この言葉は、野球のことしか頭にない彼を困らせてしまうだろうから。
わたしたちには、まだやらなくちゃならないことがある。
それは、あの夏の日のつづきを、あの球場ですることだ。
「うん、まかせて。キャプテン!」
だいじょうぶ。
来年までやっていけるよ。ちゃんと笑顔で。
そのときまで、この恋は胸にしまっておくね。
おわり
あの夏の日のつづきを このはな @konohana
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