第4話

 ラッシュ前なので、二車線の道路には車の列がまだできていなかった。でこぼこのタイルの歩道を避け、車道に出る。

 自転車の長い影がアスファルトを駆けていった。

「おい、詩麻。ふざけてるのか? もっと、ちゃんとつかまらんかいっ」

 真っ直ぐ前を見ながら、本宮くんが大きな声で言う。

 うつむいていたわたしは、思いきって顔をあげた。

「そんなこと言われても……」

 むりやり自転車に乗せられ、荷台の端を必死になって、つかんでいるわたし。いつ振り落とされても、おかしくない状態だった。それに、二人乗りしているところを、誰かに見られたらどうしよう。そればかり気になって仕方なかったのだ。

「もーう……」

 平然とペダルをこぐ彼の背中を見て、うしろから文句を言った。

「ねえねえ、こんな朝早くどこに行くの?」

「着けばわかるよ」

 そっけない返事がかえってくる。わたしは、さらに尋ねた。

「もとやんは、なんとも思わへんの? わたしなんかを乗せてさ」

「なんとも思わへん」

「でもさ、わたし重いし……」

 すると、本宮くんは叫んだ。

「なんや、詩麻。おれのこと、バカにしてんのか。高校球児の脚力をなめんなよっ」

「へ、何言ってんの? ううん、違うって。そういう意味じゃなくって――」

 学校の誰かに見られたらまずいんじゃない? と言おうとしたら、本宮くんの背中の肩甲骨がぐっと盛り上がった。

「よっしゃあ、飛ばすぞ! 舌、かむなっ」

「わ!」

 彼のかけ声とともに、ぐんぐんスピードが早くなる。流れる景色の速度も増していった。

 風が背中を撫でるように吹き抜けていく。

 シャーッと車輪の回る音とともに流れるのは、商店街の景色だ。半分だけしかシャッターの開いていない店がほとんど。

 横断歩道のメロディ、街路樹の蝉の鳴き声。みんな、みんな、うしろに流れていく。

 わあ、気持ちいい……!

 はじめは怖かったスピードも、だんだん慣れてきた。強い風が心地よく感じる。まるで空を飛んでいるようだ。


 ――が、気の緩んだ瞬間を狙ったかのように、タイヤが小石を踏んだ。ガクンと荷台が大きく揺れる。

「うっひゃあ!」

 わたしは変な雄たけびをあげ、思わず本宮くんの腰にしがみついてしまった。コツンと頬に彼の背中があたる。


 汗のせいで、湿り気を帯びたTシャツ。


 ――あっ……!


 彼の汗のにおいと体温を感じたとたん、ドキンとしてしまって。

 わたしは、ギュッと目をつぶった。



 それから、ほどなくして、自転車が止まった。体が斜めに傾く。

「おい、着いたぞ」

 本宮くんの声がしたので、そっと目を開けたら、そこは駐輪場の入り口だった。朝早い時間なのに、色とりどりの自転車が何台かとまっている。

「え、ここどこ?」

 できるだけ自然に受け答えをしようと、ぴょこんと自転車の荷台から下りたら、本宮くんが振り返った。

「緑地公園だよ」

「緑地公園?」

「ああ。ここ、湖があってさ、釣りができるんや。朝早くから開いてるから、けっこう人気があるんやって。おれも最近、通い始めたばかりやから、詳しくはないんやけど」

 いつもどおりの口調で、気さくに話す本宮くん。

 なあんだ、そうだったのかあ。

 ホッとしたのと同時に、気が抜けた。

 つきあって、と昨日の電話で言ったのは、釣りのことだったんだね。わたし、てっきり――。

 冷静な彼を見て、わたしは女子として見られていないんだなあと、つくづく思い知らされた。もちろん、前から知ってたけどね。


「今日も暑くなりそうだなあ」

 ふと気づいたら、本宮くんは空をながめていた。まぶしそうに見上げている。

 けれど、すぐに太陽が雲にかくれてしまって、それがちょっとだけ悲しく思った。



「うーん、どのへんにすっかなあ」 

 ぶつぶつ言いいながら歩く本宮くんのあとを追って、湖の周りを歩いた。手ぶらじゃなんなので、半ば奪うようにして預かった本宮くんのバケツを、ブラブラさせて歩く。

 日陰をさがし湖を半周まわったところで、本宮くんはやっと立ち止まった。

「おう、ここ、ええ感じやな。ここにしよう」

 そこは、ちょうど樹の枝が湖にせり出していて、絶好の日除けポイントだった。今まで歩いてきた場所のどこよりも、涼しく感じられる。

 普通だったら、釣れる場所をさがすんじゃないの? と思ったのだけど、わたしがいっしょだから、もしかしたら気をつかってくれたのかもしれない。と思い直し、素直にうなずく。

「ええよ」

 本宮くんは荷物をおろし、釣竿を袋から出して地面に置いた。白のプラスチック箱のふたを開ける。

「あ、忘れとった」

 弾かれたように顔をあげ、わたしの方を向いて、小さく笑った。

「緑色のバッグの中に、折り畳み式のちっさい椅子が入っとったんや。地面に直接すわるの、いややろ? それ出して使ってええよ」

「あ、うん。わかった」

「ちょっと退屈すっかもしれへんけど、待っといてや。釣れだすと、けっこうおもろいでさあ」

 すまなそうに言い訳する本宮くん。

 彼って、こんなに気配りする人だったっけ?

「ふうん、そうなん? じゃあ、待ってる」

 そんなに気をつかうことないのにな。

 家で仕掛けをつくっておいたのだろう。本宮くんは、すでに準備ができていた。釣竿を持ってスタスタ歩き出し、わたしが見ている場所から数歩はなれたところで止まる。そして、釣竿を振り、先っちょを水の中にポチャンと落とした。



 朝の日差しを反射して、水面がキラキラと光っている。どこからか風がふいてきて、ざわざわと梢が揺れた。暑さを一瞬、忘れる。

 目を閉じて、息をゆっくり吸い込んだ。

「あー、いいなあ。こういうの。たまには、いいよねえ」

「そうやろう。ここ穴場なんやで」

「もとやん、それ、さっき聞いた」

「あ、さっき言うたか」

「うん、言うた」

 おうむ返しに返事をする。

 本宮くんは、相変わらず水面だけを見つめていた。

 わたしの方はというと、何もやることがなかったので、ただおとなしくじっとしていた。ひざの上で頬杖をして、何度かやってくる欠伸をかみ殺す。

「ふわあ~あ」

 だけど、待っているうちに限界が来て、目を閉じてしまったみたいだ。

「おい、詩麻。起きろってば」

「へ?」

 いつのまにか眠っていて、本宮くんに起こされたのである。

 本宮くんは片ひざをつき、わたしの顔を覗き込んだ。

「ひひっ、よだれがついてんぞ?」

「えっ、よだれ?」

 あわてて口元に手をやった。――ちっとも濡れていないじゃない。やられた!

「何よ、もとやんのうそつき! よだれなんかないもん」

 本宮くんは吹き出した。

「引っかかる方が悪いんやろ。よくあるイタズラだよ」

「ひどいなあ。キャプテンのくせにマネージャーをいじめるなんてさ。もとやんのバカ」

 怒って暴言を吐き、ぷいっと横を向く。そうしたら、本宮くんは「わりい、わりい」と謝ってきた。

「ほんとは感謝してるんやで。おれの気晴らしにつきおうてくれたからさ」

 本宮くんの声の調子が変わった。わたしの反応をうかがうように、じっと見つめる。

 その目があまりに真剣だったから、わたしはすっかり困ってしまった。

「もとやん?」

 と、首をかしげるしかない。

 本宮くんは、わたしからそっと視線をはずした。

「おれ、うれしかったんや。おまえ、昨日病院で、おれのことかばってくれたやろ? おかげで、なんか気が楽になったというか――」

「うん……」 

「じつはな、礼を言いたくて、おまえを誘ったんや。電話で言うのもなんやし、メールもちょっと、と思ってな。すまんかった、詩麻。おれ、ほんと自己中だよなあ」

 本宮くんは眉尻を下げて笑った。

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