第3話

 受付の前にある待合室へ行ったら、お兄ちゃんが声をかけてきた。

「詩麻、こっちや」

「あ、お兄ちゃん」

 お兄ちゃんは長椅子から立ち上がると、こちらにやって来た。わたしに声をかけながらも、視線は本宮くんに向ける。

「こんにちは」

 本宮くんは、お兄ちゃんの顔を見るなり、頭を下げてあいさつをした。

 ん? もしかして、緊張してる? 

 気のせいかな。彼の表情がぎこちないような気がして……。

 わたしが間に入った方がいいだろうか。

 どうしようかと迷っていたら、お兄ちゃんは彼の様子など気にもとめず、スッと手をさしだした。

「こんにちは。君、野球部だろう。いつも妹が世話をかけてるね」

 保護者面な態度をとるお兄ちゃん。

「いえ、こっちこそ!」

 本宮くんの背筋がぴっと伸びた。お兄ちゃんの手を見てハッとし、あわてて握手をする。

「おれたちの方こそ、世話になってます!」

 さすが野球部。毎日、練習で大きな声を出しているだけのことはある。耳にキーンとくる。

「おいおい、ここは病院だぞ。声を小さく、なっ」

 お兄ちゃんが苦笑いを浮かべると、本宮くんは「あっ」と口をあけた。また頭を下げる。

「すんません」

「ま、気にすんな」

 そうして、しばらく他愛のない話のやりとりをしたのち、やっと話題が移った。

「そういえば夏の大会、県予選の準決勝を見たよ。残念やったな。あと一点だったのに」

「応援に来てくれていたんですか? ありがとうございます!」

 本宮くん、今度は小声で言って、またまた頭を下げた。

「おれ、マネージャーに聞くまで知らんかったです。マネージャーのお兄さんが、おれら野球部のOBだったなんて。一度お会いしたいと思ってました」

 野球部は、とくに先輩後輩の上下関係にうるさい。そのせいか、うちのお兄ちゃんに対しても、本宮くんは頭があがらないのだろう。とっても腰が低い。

 お兄ちゃんは「うん、そうか」と返事をして、話をつづけた。

「あんな、あのときツーストライク、ワンボールで追い込まれた、最後の打者のことなんやけど」

「はい」

「相手のピッチャーは、確か、プロ入り確実といわれた遠藤だったよな。打者の方は、二年だったっけ。名前を忘れてすまない。それで、一球目は、完全に振り遅れてた」

 本宮くんは黙って、お兄ちゃんの話に耳を傾けていた。

「だけど、だんだんタイミングがあってきて、ラスト一球を迎えたとき、ヒッティングの構えを見てさ。よく落ち着いているなあ、と感心したよ。結局、空振りに終わったけど、すごかった。たいしたもんだよ。きっと、おれだったら、プレッシャーに耐えられなくて、ぶるってたと思う」

「はい」

「君たち、ほんとすごいよ。おれたちOBが今までできなかった、準決勝にまで行けたんやから。まだ二年だろう? 来年がある。自信を持てよ。期待しているよ」

「ああ、はい。そうですね。ご期待に添えるよう、もっとがんばります……」

 もとやん?

 本宮くんの声がかすかに震えているように聞こえたので、わたしはドキッとした。

 床を見つめる彼の表情は固い。

 ひどいよ、お兄ちゃん。そのときのバッターは、本宮くんだったんだよ。知ってるはずなのに、わざと意地悪を言ったの?

「お、お兄ちゃん!」

 気づいたら二人の間に割って入り、お兄ちゃんの腕をひっぱっていた。

「ん? なんや、詩麻?」

 お兄ちゃんは不思議そうな顔をして、わたしを見下ろした。

「今は部活休みなんやから。そういう話はせんといてよ。オンとオフの切り替えは大事なんやろ?」

「ああ、わかっとるって」

「早く帰ろう。わたし、まだ宿題残ってるんよ。わかんないとこ教えてほしいんやけど」

「しょうがないなあ。人が話をしているのに、話の腰を折りやがって。ったく、わがままなんやから」

 お兄ちゃんはブツブツ言うと、本宮くんに顔を向けた。

「すまんかったね。こいつ、わがままばっかで」

「いえ、別に」

「おれたち、車で来たんや。よかったら家まで送るけど」

「おれ、チャリで来たんで。自分で帰れます。大丈夫っす」

「そうか。そんなら、このまま失礼するよ。じゃ、がんばって」

 お兄ちゃんは軽く手をあげたあと、

「ほな、行くぞ」

 わたしの肩を抱いて、病院のエントランスの方へ、くるっと向きを変えた。そのまま歩き出す。おかげで、本宮くんにさよならを言うことができなかった。



 夕食のあとベッドに寝転び、携帯をいじっていた。着信表示には、本宮くんの名前が。朝の散歩中に受け取ったときのものだ。

「はあ、どうしよう」

 家に帰って来てから、ずっとこんな調子だった。さっきから何度もため息が出る。

 病院で別れた本宮くんのことが気になって、宿題どころかテレビさえ落ち着いて見れない。お兄ちゃんの言葉で、彼が傷ついていたら。と思うと、気が気でなかったのだ。

 思いきって、電話してみようか。

 来週から練習が始まる。どうせ、いつかは顔をあわさないといけないのだから。

 あ、でも。なんて声をかけたらいいのかな。どうしよう。全然わかんない――。

「もう、いいや!」

 発した言葉の勢いのままに起き上がり、携帯の発信ボタンを押そうとした。

 すると、ボタンに軽く圧力をかけたときと同じタイミングで、携帯が鳴ったのだ。

「ひゃっ」

 思わずビクッとして、携帯を落としてしまった。

 鳴り続ける「タッチ」の着信メロディ。球場の応援席でならば、心が熱くなって燃え上がるものがあるんだけど。今この場にはそぐわない応援歌だ。

 おそるおそる表示画面を見る。本宮くんからの電話だ。

 わたしは、あわてて電話に出た。

「も、もしもし?」

『おう、詩麻か? おれ、おれやけど』

 いつもどおりの明るい声だ。わたしはホッとして答える。

「なあんだ、もとやんかあ。どうしたん、今頃? また緊急連絡?」

 大きな声を出し、ベッドにごろっと仰向けになった。

 本宮くんのあいまいな返事がかえってくる。

『別に、そういうわけやない。けどな、なんか、こう。なあ……』

「え、何?」

『詩麻に電話しといた方がええような気がして。心配してるんとちゃうかなあ、と思ってさ』

 心配してるんとちゃうかなあ?

 うん、確かに心配はしてたけど……。

 選手の心配をするのは、マネージャーの務めなんだし。いまさら何を言ってるんだろう。

 日頃そんなことは、まったく口に出さない本宮くん。言ったとしても「お疲れ!」のひと言ぐらいしかないのになあ。

 けど、お兄ちゃんのことには、ふれたくない。

「うん、まあね。それが、どうかしたん?」

 気づかないふりをして、聞きかえす。

 電話の向こうから、一瞬ためらったような感じの短いため息が聞こえた。

『なあ、あのさ。聞きたいことがあるんやけど』

「うん、何?」

『あのとき、病院でお兄さんに会ったときさ、急に帰ろうと言い出したのはさ』

 ドキリとした。

「うん。ああ、あれね」

『なあ、あれ、ほんとはおれのため、やったんやろう?』

「へ?」

『違うんか?』

「え、えっと……」

『違うんか、詩麻?』


 あれ?

 あれ、あれ、あれ?


 本宮くんに言い当てられ、顔が熱くなってしまった。

 けれど、あれは――。


 お兄ちゃんがあんまりデリカシーのないことを言ったもんだから、とっさにとった行動なわけで。

 本宮くんのため? と誰かに質問されたら、そうだとしか言えないのだけど。あのときは、何も考えていなかったし……。


 自分の中にぽっと出てきた感情に戸惑いつつ、わたしは彼の問いに答えた。

「あ、あのね。違うくないよ。ていうか、うちのお兄が、あんなことを言ったのが悪かったんよ。ごめんね、もとやん」

 ここは、もう謝るしかなかった。マネージャーとしての立場がない。すごく恥ずかしい。

「そ、それでね。あの、そのう」

 そして、次にかけるべき言葉をさがしていたとき、本宮くんの声が流れた。

『じゃあ、さ。悪いと思ってんなら、明日つきあってよ』

「は? どこに?」

『それは、まだヒミツや。明日の朝、五時半。迎えに行くから、家の前で待ってて』

「ちょっ、ちょっと! 五時半って、そんなに朝早く?」

 思わぬ展開に、ガバッと身を起こした。

『おう、だって昼間は暑いやろ? それ以上、日焼けしたくないって言うてなかったか?』

「まあ、そうやけど」

『んじゃ、決まったな。そうと決まったら、おれ、さっさと寝るわ。寝坊しないように、詩麻も早く寝ろよ。じゃあな!』

「えっ? もとやん! 待って……あっ!」

 まだまだ問い詰めたいことがあったのに、勝手に電話を切られてしまった。

 携帯の画面をながめる。

 なんだったんだろう、今の。いくら考えても、答えが見つからない。

 まさか、何かたくらんでいるんじゃ……?

 いや、そんなわけないか。あの、本宮くんにかぎって。

 思わず、力が抜けてベッドに寝転んだ。

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