第4話

 翌日、俺はいつもの見回りを済ませてから、またユピナのもとを訪ねていた。


「降りそうだな」

 

 空路塔の上に出て、石の欄干に寄り掛かりながら浮遊島の外を眺める。眼前にはこちらに迫り来る黒ずんだ雲の軍勢が見渡せた。


「すごい、雲に飲み込まれてしまいそうです」

 

 隣にいるユピナは、内地暮らしで島の縁から見る雨雲は初めてなのか、その迫力ある光景を前に小さな体を更に縮めていた。

 俺は、津波というものを見たことがない。

 この島を空に浮かせているのは「魔力を帯びた特殊な雲」なのだが、それは陸地だけでなく海をも支えることができる。よってこの浮遊島にも海があり、底の雲の異常流動や大風によって津波や大波が起きることもあるらしいのだが、その迫力は今まさに目の前で起きている「雲津波」には及ばないだろう(実際の危険性、重大性は別として)。

 

 何のことはない、ただの雨雲が浮遊島と同じ高さで浮いていて、島の上に乗り上げてくるだけの話だ。だがそれは霧や靄の次元ではない、分厚い雲海が島を丸々飲み込もうとしているのだ。

 とは言え陸地上空の空気は周囲より暖かいので、浮遊島に到達した雨雲はやがてドーム状に浮き上がって島を覆っていき、雨を降らせる。

 雲津波が来て雨が降るまでの一連の様子を、ある有名な文学者は「海よりも広い神のたなごころが空より来たりて、我らを包み込み、慈雨を注ぎたまう」と綴ったらしい。

 ……まあ何にせよ、いつまでもここに居るのはさすがに危険だ。風が強まるし、気温もぐっと下がるし、雷の危険もある。


「中に戻るか」

「……はい」

 

 俺が促すと、何だかんだで興味津々に雲津波を眺めていたユピナは少し名残惜しそうに後をついて来た。

 部屋の中は肌寒く、ユピナは備え付けられた暖炉に火をおこし始めた。もともと家事としてやってきたのだろう、手際は上等なものだ。

 それから暖炉の熱を利用してお茶を沸かしていくユピナを、俺は客人らしくソファーの上から悠々と眺めていた。


「悪いな」

「いえ、構いません。ケンリヒさんも見回りの後でお疲れでしょうから、ゆっくりしていってください」

「ん、そうさせてもらうよ」


 それからユピナの淹れてくれたお茶を二人で味わい、取り留めもない会話に興じた。

 お互い口数の多い方ではないはずなのだが、話の合間に変な間が空くことはなかった。不思議なことだが。会話が途切れるタイミングが互いに何となく分かって、その時はそれぞれお茶を口に運ぶか、暖炉の炎をゆらゆらと眺めていた。まるで沈黙も含めて会話であるかのようだった。

 呼吸が合っているのだろうと、何となしに思った。

 歩くときの歩調が合うように、生きて活動する際のペース、間の取り方みたいなものが近いのかも知れない。だからこそまだ会って数日の少女とこんなにも打ち解けられるのだと、そう思わなければこの現実に現実味を持たせてやることができなかった。


「……ぬくいなあ」

 

 そう零した俺の言葉に、ユピナは怪訝な表情を浮かべてティーカップを傾けた。


「もう冷めてますよ?」

「そうじゃねえ」

「あ、暖炉の火加減が丁度いいって話ですよね」

「はぁ……何でもねえよ」

 

 分からないならいい。と言うか、分からなくていい。俺が何を考えているかなんて一々見抜いてくるような奴は苦手だ。あんたはそのくらい天然でいい。

 ただ、ぬくいと独り言ちたのもそういう訳でか、のどかな昼下がりにやって来るタイプの眠気が俺の意識をかすめ取っていこうとしていた。


「ん……」

 

 そんなときにぼんやりと目を遣った暖炉の灯りは、どこまでも優しかった。その灯りに照らされたユピナもまた、普段より三割増しで美しく見えるのだった。

 

「……? どうしかしました?」

 

 俺の視線に気付いたユピナが曖昧で優しい微笑みを浮かべ、小首を傾げる。そのとき、心臓を掴まれたかのような衝撃が走った。


「あ、いや……」


 とっさに視線を逸らす。何だ、今のは。あいつの顔を見られない。今そうしたら俺が酷く動揺していることがバレてしまう。まさかと思うが、今この頬が紅潮しているとしたら、それを見られるのも困る。

 そうしていると、突然に俺の体が横に引っ張られる。

 そのままソファーの上へと倒れ込んでしまったのかと思った。だが違った。左頬から側頭部にまでかけて感じる人肌のぬくもりと、押し返すようでもある柔らかな感触。

 膝枕をされているということに、しばらく理解が追いつかなかった。

 

「……お、おい、何やってる」

「わ、私のことは気にしないで、このまま寝ちゃってください……っ」


 おかしなことに、いきなり膝枕をキメてきた本人が顔を真っ赤にしてテンパっている。

 

「あー……その、何だ、悪い気はしないが、どうしてまたこんな……」

「私がしてあげたいって思ったから、しているんです。……ダメですか?」

「そ、そうか……」

「は、はい……」


 それっきり二人の間に会話は生まれなかった。

 相変わらず何を考えているのか分からない奴だが、正直に言ってこの状況は嬉しかったし、ひどく安らぎをもたらすものであった。

 (まあ、いいか。今だけは……)

 俺は諦めて目蓋を閉じ、あらゆる抵抗を手放した。一度受け入れてしまえばあっけないもので、意識は焼いたパンの上のバターのように溶けて形を失ってしまうのだった。

 

 

 

 耳が何かの音を拾って、うたた寝から覚めた。

 一体どのくらい眠っていたのだろう。気持ちよく寝ていたせいで時間の感覚が鈍っている。ただ石造りの塔を叩く雨音と、窓の外から入り込む灰色の日光である程度外の様子をうかがい知ることはできた。


「……」

 

 そして、目を覚ました時に聞いた音の正体に耳を澄ませる。

 ……ン、ドン、ドン……。

 誰かが戸を叩いている。空路塔の入り口にある木製の観音開きだろう。その音が下の螺旋階段に反響して、うっすらと部屋の中まで響いてきている。

 誰か呼んでいるのか。居留守を決め込んでもいいが、ここの主でない人間が勝手にやっていいことではないだろう。

 粘着質にまとわりつく眠気とユピナの残り香に後ろ髪を引かれながら、むくりと起き上がる。


「……ん?」

 

 鈴が転がるような声がして視線を向けると、ユピナが寝惚けまなこを開いた。彼女もまた膝枕をしながら一緒に眠っていたらしい。


「来客だ。俺が出てくる」

「い、いえ、私が」

「気にすんな」


 立ち上がろうとするユピナにひらひらと手を振り、俺は部屋を出ていった。

 階段をゆっくり下っていると、肌寒さと無機質な石の質感に促されて頭が冴えてくる。そして、何か嫌な感じが胸の中でざわざわとうごめき出した。


「誰だろうな……」

 

 そう独り言ちると、それに返事でもするかのように再びノックの音が聞こえた。どこか切迫した色がにじんでいる。

 俺の上司か、でなければ雨宿りに来た一般人であればいいと願いつつ、扉の前に立つ。


「どちら様で?」

『あのっ、ユピナ・オンフィールドさんはいらっしゃいますかっ?』

 

 扉越しに問いかけると、雨の中でもよく通る明朗な青年の声が返ってきた。

 どうやら、嫌な予感は的中したらしい。ユピナの関係者か。


「……ええ。要件は?」

『俺は、彼女の友人です。数日前から行方不明で、彼女を探してここまでたどり着いたのです。ユピナに会わせてもらえませんか』

「……」

 

 なるほど、親兄弟が訪ねてくるよりはまだ面倒事にはならなさそうだ。しかしユピナの事情を詳しく知らない俺の一存で会わせる訳にもいかない。一度ユピナの意見を聞くべきだろう。

 が、このまま雨ざらしで閉め出しておくのも何だ。


「取りあえず入れ」

 

 俺はかんぬきを外し、彼を空路塔の中に入れてやることにした。


「ありがとうございます。あ、俺はセイルと言います」

「ケンリヒだ」

 

 セイルは一旦名乗ってから扉の空路塔内部に入り、レインコートとゴーグルを脱いだ。雨の中を飛んできたのか。大層なことだ。

 嫌味なくらいに容姿の整った青年セイルは、不安と希望が入り混じったような表情を浮かべてこちらをうかがっている。


「ユピナにあんたが来ていることを伝えてくる。そこで待っているんだ」

 

 そう言い残して、俺はえっちらおっちらと塔の階段を上がっていった。

 が、上りの労力は本来の半分で済むことになる。


「ケンリヒさん……」

 

 階段の途中までユピナが来ていたのだ。


「聞いていたか」

「ご、ごめんなさい」

「別に構わない。で、あいつは?」

 

 セイルについて話を振るが、半分くらいはユピナの表情が物語っていた。


「その……知り合いです」

 

 セイルはユピナのことを友人だと言っていた。そしてユピナはセイルのことを知り合いだと説明した。いかにも訳のありそうな食い違いだ。


「あんたに会いに来たようだが?」

 

 「会わせてもいいのか」と言外に問うと、ユピナはぐっと何かを堪えるようにスカートの端を握りしめ、たっぷりの沈黙を置いてから口を開いた。


「……ここで追い返す訳にも、いきません」

 

 「不本意ですが」という意思を言外に込めながら、ユピナはセイルの要求を飲んだ。

 俺は苦々しく唇の端を持ち上げて鼻でため息を吐いてから「部屋で待っていろ」とユピナに伝え、セイルのもとへ引き返していった。

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