第13話
その後、案の定湯川春斗が学校に来ることはなかった。
別に来ることは期待していなかったし、別段変わったことでも何でもない。
しかし、あの日以来、確かに変わったと思うことを私は一つ感じていた。
毎日、どの時間にどこにいても、誰かの視線を感じるのだ。
どこから見られている? と辺りをきょろきょろ見回してみても、怪しげな人影も道具もない。
だが、誰かには確実に見られている。その感覚は、日に日に大きく成長していった。
そしてその見ている人物は、湯川春斗なのではないかという疑念に自然と行き当たった。
きっと湯川春斗が私を監視しているのだ。何のために? サチを襲う隙を探すために。
ただそれはやはり根拠も証拠もないので、ただの疑念以外の何物でもなかった。
そのただの疑念が確信に変わったのは、とある日曜日。
買い物に出かけていて、近所の小さな公園で湯川春斗がいるのを発見した。
日曜日なのに誰もいない寂れた公園で、湯川春斗は錆びたブランコの前に蹲っていた。
何をしているのかと恐る恐る近づけば、蹲る湯川春斗の前にネコミミが横たわっているのが見えて、私は戦慄した。そのネコミミは、足の付け根から血を流していた。
「何やってるんだっ!」
つい怒鳴り声が口から飛び出す。
湯川春斗は背中をびくっと揺らし、振り返り私と目が合う。
目をぱちくりと瞬かせ、何で怒鳴られたのかわからないというような顔をする。
その顔が妙にイラッとして、私はまた怒鳴り声を上げる。
「おまえ、今ネコミミを殺そうとしてるだろ!」
湯川春斗はふるふると首を横に振る。
「違うのか? 何が違うんだ? こいつ足の付け根から血を流してるだろが」
私は倒れているネコミミに駆け寄った。幸いにもまだ息があるようだった。
「その――殺そうとしたんじゃなくて――助けようと――」
「ぼんやりただ蹲って見てただけじゃねぇか」
「いや――どうやって助けようか考えてただけで――」
「まず怪我してるネコミミを見つけたらおぶって獣医へ。こんなの常識だろ」
「あ、ネコミミってやっぱり獣医でいいんですか?」
「は?」
「人間の姿だから獣医よりも普通の病院の方がいいんじゃないかって悩んでて」
「すっとぼけるな!」
「え?」
「おまえが連続ネコミミ強姦殺害犯の犯人だろ」
「いや、いやいやいや、違いますよ」
「その取り乱し方――犯人だからか?」
「違いますってば! 誰だって急に犯人扱いされたら取り乱しますって!」
「じゃあこのネコミミは? このネコミミは何で怪我してる?」
「知りませんよ! そんなこと! 頭の可笑しな人だな!」
湯川春斗はそう罵声を吐き捨て、またもや小走りで公園から逃げ去っていった。
「待てっ」と私は呼び止めたが、無論聞く耳を持つ様子はなかった。
湯川春斗の残像を目で追うのはやめて、地面に横たわるネコミミに向き直る。
ネコミミは苦しそうな表情を浮かべ、荒い呼吸を繰り返している。
とりあえず見つけてしまったからには見殺しにできない。助けなければ。
私は手持ちのハンカチでネコミミの足の付け根を縛って止血し、おぶって近くの動物病院まで向かった。通行人が怪訝そうな目で見てきたが、気にしている場合ではなかった。
動物病院に到着し、連れてきたネコミミを年配の獣医に診察してもらった。
しばらく待合室で待っていたが、看護師に呼ばれて獣医がいる診察室に入った。
「このネコミミ、ナイフか何かの、とにかく刃物で切り付けられていますね」
診察台の上に横たわるまだ苦しそうなネコミミを前に、獣医はそう冷静に述べた。
「刃物? つまり誰かが切り付けたってことですか?」
「そういうことになりますね」
やっぱりか。やっぱり湯川春斗がこのネコミミを――。
私はこのネコミミがサチだったかもしれない可能性を考え、また胴体や首を切り付けられていれば死んでいたことを考え、心底ぞっとした。
いや、まだまだ安心できない。湯川春斗は、今度は私のネコミミを狙っているかもしれない。いや、絶対にそうだ。そうに違いない。
怪我をしたそのネコミミは、保健所に運ばれていった。私は家に帰り、すぐに警察に通報した。
「連続ネコミミ強姦殺害事件の犯人は湯川春斗です。早く捕まえてください」と。
しかし、警察は私の通報に取り合おうとはしなかった。
物証もなく状況証拠も曖昧なのに警察が動けるはずがない、と言われた。
それはそうだ。それはそうだが、一刻も早く手を打たないとサチが――。
そこで私は思い出した。佐村さんからもらった、あのメモ用紙のことに。
どこにあったかと必死に探せば、それは財布の中に仕舞ってあった。
私は一瞬躊躇したが、すぐに決心を固め、そのメモ用紙に記されている電話番号に電話をかけた。その電話番号にかけらば、ネコミミ保護協会に電話が繋がるはずだった。
『はい、こちら、ネコミミ保護協会の受付でございます』
透き通った女性のはきはきした声が聞こえてくる。
私は逸る気持ちと上擦りそうになる声を抑え、でも少し早口になりながら捲し立てる。
「あの、私、連続ネコミミ強姦殺害事件の犯人に心当たりがあるんですが」
『お名前は?』
「斉藤竜彦と申します」
『斉藤竜彦様ですね? かしこまりました。少々お待ちください』
女性の声がぷつんと途切れて、オルゴールのような音が代わりに電話口に流される。
貧乏揺すりをしているうちに、その音もやみ、先程の女性とは違う、野太い男性の声が聞こえてくる。
『私、ネコミミ保護協会の捜査部の部長でございます』
「は、はい」
『単刀直入ですが、心当たりがある犯人とは?』
「湯川春斗という男子中学生です」
『根拠は?』
「じつは――」
私は湯川春斗が犯人で思う理由を話した。ペットショップ帰りでのこと、公園でのこと。
電話の向こうの捜査部の部長とやらは黙って私の話を聞き、聞き終わると警察のように「そうだけでは根拠になりません」と突っぱねずに、「わかりました」と言った。
『湯川春斗が犯人であるかどうか、こちらで検討させていただきます』
そして私の何の断りもなく、呆気なく切れた。
唐突な切れ方だったが、またかけ直そうとは思わなかった。
ピーピーと電話口から鳴る甲高い電子音に耳を傾けながら、呆然としていた。
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