第9話
「ただいま」と言って帰宅する。
以前は帰宅しても「ただいま」とは言わなかったのに、今は言う。
なぜなら今は待っている人――ではなく生き物がいることを知っているから。
「にゃー」とその生き物――ネコミミのサチは私を出迎える。
一見すれば猫の耳と尻尾をつけてコスプレをした全裸の若い女性。美人だしスタイルも良いしエロスを漂わせているような女性。でも欲情したりはしない。だってそこにいるのは人間ではないから。人間ではなく、ネコミミという人間とは違う生命体だから。
「餌だな、ちょっと待ってろ」
私はサチがなぜ毎日私を出迎えてくれるのかを知っている。サチの目的は一つだ。
私は歩くとサチは後ろから四つん這いでついてくる。リビングの隅の餌皿のところまで行き、その餌皿にサチお気に入りのネコミミフードを注いでやる。
そのときのサチの表情は、何か大切な宝物を見つめる子供のようにきらきらと輝いている。そして注ぎ終われば、私が良しというのも聞かずに餌皿に飛びついて、そこに盛られた餌を平らげる。
餌を平らげれば満足そうな顔で、何の名残惜しさもなさそうに私の元から離れていった。
まったくもって現金なやつだ。思考は猫に近い生き物だから仕方ないが。
私はソファに腰かけてテレビを点ける。旅行番組をやっている。
テレビ画面に流れていく異国の地の映像を、眠気とともにぼんやりと眺める。
ふと右腕に人間の素肌の感触。ドキッとしてそちらを向けば、サチが私の隣で丸まっている。
こいつも随分と私に慣れたものだと思う。
初めはそれこそ借りてきた猫で、毎日のように怯えていて餌の時間以外に私に近寄ろうともしなかったのに、徐々に慣れて今ではこんな風に無防備に近づいてくるようになった。
それにしても、ネコミミという生き物はやはり自由なものだ。私が自分から構おうとしたり撫でようとしたら嫌がって噛みついてこようとすらするのに、私がそんな気分ではないときに限ってこうやって近寄ってくる。
その人の顔色や空気を読まない自由な行動は、生前の沼崎を連想させ、思わず笑う。こんな美しい若い女性の姿をした生命体と、あんなむさいおっさんとを重ねてしまうとは。そんな自分の発想力に笑って、少し切なくなった。
私はサチの頭を撫でる。サチはごろごろと喉を鳴らす。普通の猫と同じく、気持ちが良いというサインだ。
面倒臭いし、うざいときもあるし、現金だけれど――なんだかんだで可愛いやつ。
以前はネコミミには興味がなかったし、むしろ邪魔な存在のように感じていたし、ネコミミ喫茶に行ってもペットショップで見かけても何も感じなかったのに、感じなかったはずなのに、今はサチが愛しくて堪らない。こうやって無防備に撫でられているサチが。
決して性的な意味合いではなく。性的な意味合いが挟まる余地などなく。
純粋に家族として、そして沼崎に代わる友として、私はサチを愛していた。
当時は不思議だったペットに夢中になる人間の気持ちが、今なら理解できた。
異国の地に住むネコミミがカメラに映る。『可愛らしいネコミミですねー』と気の抜けたナレーションが流れる。私はもうテレビ画面は見ず、目を瞑り、サチの頭の毛触りを感じ、ごろごろというサチが鳴らす喉の音に耳を傾けながら、束の間の安らぎの一時を過ごした。
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