第8話
放課後、早めに仕事を切り上げさせてもらい、湯川春斗宅に向かった。
予め電話をしたら「来るな」と言われそうなので、連絡をせずに来た。
今すぐ踵を返して帰りたい衝動を抑え込んで玄関先のインターホンを鳴らす。
しばらくすると、がちゃっと鈍間に、しかも狭くドアが開く。
少しだけ開いたドアの隙間から中年の女性が睨むような表情を覗かせる。
「誰?」不愛想に言う。
「あ、あの、私、湯川春斗くんのクラスの担任教師の斉藤という者ですけども――」
言い終わらないうちにドアが閉まりそうになる。私は慌てて咄嗟にドアの淵を掴み、力を込めて閉めさせないようにする。
ただでさえ険しい中年女性の表情がさらに険しくなる。
「うちの子は大丈夫って言ったじゃないですか!」
中年女性は怒鳴るような声を放つ。やはりこいつが湯川春斗の母親か。
「お母さん! 頼みます! ちょっとだけ湯川春斗くんと話をさせてください!」
「そういうのいらないですよ! 春斗も嫌がりますし!」
「ちょっと、ほんのちょっとだけでいいんで!」
これも仕事なんで、と言いそうになったが、それは飲み込んだ。
もう諦めて手を離そうかと思い始めた矢先、ふとドアを閉めようとする力が弱まった。
「・・・・・・ちょっとだけですよ」
湯川春斗の母親は仏頂面でそう言うと、ドアを広く開けた。
「す、すいません」と私はどもりながら湯川春斗宅にお邪魔した。
「春斗の部屋は二階です。そこの階段を上がってすぐの部屋」
湯川春斗の母親は廊下の奥の階段を指差す。
「早く済ませてください。まぁどうせ春斗はまともに話はしないでしょうけど」
私は急かされるままに指差されたその階段を上った。
その階段を上がった先の最も手前にある部屋、そこが湯川春斗の部屋のようだった。
目印になるものはなかったが、ドアに「無断で入るな」と書き殴られた紙が貼られていた。
そのドアを一度深呼吸してからノックする。次に呼びかけ。
「――湯川春斗くんかな?」
返事はない。まぁ想定内だ。もう一度ノックし、呼びかけ。
「湯川春斗くん、私は君のクラスの担任教師の斉藤といいます」
返事はない。まぁそうだろう。またまたノックし、呼びかけ。
「単刀直入で申し訳ないけど、学校に来ないか? 無理に教室に来ることはないよ。知ってるかもしれないけど保健室登校っていうのがあってね、誰にも会わなくていいし授業を受けなくてもいいよ。ただ放課後になるまで保健室にいてくれれば。どう?」
ドアの向こうはずっと静寂。人がいる気配はあるし、微かな物音はするのだが。
試しにドアノブを掴んで回してみるが、鍵がかかっているのか、回るには回るのだがドアは開きそうにはない。
「何か悩みがあるなら相談して欲しい。担任というのはそのためにいるんだから――」
こんな話をしながら自分でも馬鹿らしくなってくる。そもそも何で自分がここにいるのかよくわからなくなる。
ようは湯川春斗に不登校をやめて保健室登校をしてもらいたいわけだが、ただそうして欲しいだけで別段湯川春斗の抱えているかもしれない問題だとか悩みだとかは一切解決する気もないのに、「相談して欲しい」とか場当たり的な嘘を吐いている自分が、なんだか酷く滑稽な気がしてくる。段々と語気も尻すぼみに弱くなる。
「――ってまぁ、無理強いはしないけど、考えといてくれると有り難いな」
最終的にお願いするような感じになってしまった。これでは絶対に来ないだろう。
だが、今日はもう疲れたし、一階で母親が「早くしてくださいよ!」と苛立った様子で声を荒げているので、今日のところは諦めて引き下がることにした。また来るのも嫌だけど。
湯川春斗宅を出たとき、母親は「もう来ないでください」と唾を吐き捨てるように言ってドアを閉めた。「私も来たくないですよ」と誰にも聞かれないように小声で愚痴った。
結局無駄足になってしまった。仕事から、さらに倍増した疲労感を抱えて私は家路に着こうとした。
ふっと振り返ってみると、湯川春斗宅の二階の窓のカーテンが少し揺れた気がした。
あれ? もしかして湯川春斗が覗いていたのか?
まぁ、どうでもいい。私は前に向き直り、改めて家路についた。
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