信仰と人 - 拾
「では、その男はもう逃げてしまったんだな?」
二人の役人のうち、年嵩の方の男が険しい顔でぐるりと回りを見渡しながら念を押すように言った。放火騒ぎの翌日、村には珍しく外から役人が来ていた。長い丈の伝統衣装を着た男が二人。村の位置から考えて、おそらく件の商人がいるという街の地方役人といったところだろうと、エリカは予想を付けた。
「俺たちがここに着いた時には、そいつはいなかったよ」
村人のうち、最初の方に駆けつけてくれた中年の男が答えた。
残念ながら、トンショウが初めに発見していた辺りの木々は大分燃えてしまっていた。「放火された」と認められた山の入り口で、役人が二人と村人の半分ほどが集まっていた。皆、山の様子を確認したり、滅多に見ることの無い役人に興味があるといったところだろう。
役人をまばらに囲むそんな村人たちを、距離を置いてエリカとトンショウは並んで眺めていた。第一発見者であり真っ先に鎮火に当たった二人も当然この場に呼ばれていたが、既に聞き取りを終え、今は野次馬の野次馬と言ったところか。
小さい山は、その部分だけ衣類に穴を開けたように、ぽっかりと地面を見せていた。
「なるほど。他に、放火された場所は?」
「あぁ、そんなら、文字の樹の根本が少し」
問答を繰り返す顔は同じ。若いほうの役人は、板に挟んだ紙に記録しているようで、忙しなく木炭の筆を動かしていた。
彼が答えたように、大した範囲ではないが文字の樹が放火されたのは事実で、確認したいと言った役人を、村人たちが文字の樹がある方へと案内していく。
「…………」
だが、エリカはこの先起こるであろう出来事に、心を痛めた。隣で状況を同じように眺めていたトンショウが、エリカの着ているトンショウの母親の羽織の裾を引いた。エリカの外套は文字の樹を消化したことで、その役割を終えてしまった。今日は雲一つない晴天だが、流石に寒いからと、エリカはトンショウの母親から予備だという羽織を貸してもらったのだ。
エリカはそのトンショウの手を握った。晴れていても十分に寒い日には、ありがたいくらいの、暖かい子供らしい体温。
「はぁ?!今、何て言ったよお役人さん!」
「は?いや、だから、文字を創ったのは西の―――」
村人と役人の声が聞こえる。昨日の大騒ぎが嘘のように、山の周りは静かだ。普通の声量でも、彼らの話す内容は十分に把握できた。
エリカは、トンショウの手を握ったままリンドの方へと向かった。
「……エリカさん」
トンショウの言いたいことは、エリカにも予想がついていた。昨日、二人で火を消した後も、トンショウはずっと胸のつっかかりを感じていたはずだ。だが、村の混乱と疲れで、大した話もせずに二人とも休んでしまった。
(話さなくちゃ、いけない)
それは、当然のことだ。今しがた、「文字の
エリカは小さく息を吐いて、トンショウに目線を合わせる為に身を屈めた。目前に迫ったリンドが、ブルルと声を上げるのが聞こえる。
「なんだ、トンショウ」
エリカは、一応きちんと尋ねてみた。質問を早とちりするのは褒められた行動じゃない。
トンショウは真っ直ぐにエリカを見つめていた。澄んだ、黒い瞳。柔らかな冬の光のお陰か、いつもよりは茶色っぽく見えた。
「文字をつくったのがおれたちのご先祖さまじゃないって、知ってたの?」
その、純粋な質問に答えることが、今のエリカにできることだと思った。
「……知っていたよ」
「……文字は、ここじゃないところから始まったんだね?」
あの商人は、文字が読める村人たちに、自身の計画を無に帰されたことを逆恨みしているようだった。だからトンショウを、村の人たちが守ってきたものを、踏み躙った。しかしその「内容」は、嘘ではなかった。
「そうだ。もっと西の、昔からずっと多くの人がいる大きな
エリカの生まれはこの国の隣国だが、もはやそこは身を離して久しい。むしろ、大陸の西側―――文字が始まった地域と遠くない場所―――の方が、今のエリカにとっては身近で、旅の中心にしている場所にあたる。
そこで暮らしていた数年間、「文字」にまつわる逸話はいくつも聞いた。考古学的な見解としても、文字の起源は古代文明の発展したその辺りだという。
「そう、だったんだ……」
トンショウは、エリカから目線を外して、俯いた。今、この小さい存在が感じてる感情を正確には言い表せないだろう。でも、エリカはトンショウの頬に手を当て、昨日も、そしてリンドに乗せていた間も、それまで幾度もしてきたように、彼の視線を自分の方へと向けさせた。
また交じり合う、種類の違う黒い瞳。
「トンショウ、今度は私が尋ねる番だ。―――文字の樹は、変わってしまったと思うか?」
トンショウが息を小さく飲んだ。あと数日で吐く息も白くなりそうな、冷たい空気。
「……うん。おれたち頑張ったけど、根っこ、燃えちゃった」
「そうだな」
「水を吸うの、前より大変になっちゃうかも」
「……あぁ」
自分は一体、何と言ってこの子に伝えようとしたのだろうと、エリカは自嘲しそうになった。でも代わりに、トンショウが答えてくれたことに微笑みを返そうとして。
「でも」
トンショウが今までにないくらい、凪いだ瞳でエリカを見つめた。それに、少し驚き―――、
「おれ、文字の樹がこれからも大切だよ」
―――目尻を下げて、穏やかな表情で笑みを湛えた彼に、
「……そうか」
「うん」
愛弟子の笑みにつられて、エリカも笑った。曖昧な微笑など、何処かへ吹っ飛んでしまった。
エリカはトンショウの頬から手を離し、そのまま自分の顔の前で人差し指を立てた。ちょっとだけ含み笑いをする。
「じゃあ最後に、ひとつ助言をしておこう」
「助言?」
「文字と計算に不自由しなければ、近くの街で働くことができる。街で働けば、現金が手に入る」
「ゲンキンって、それ……」
トンショウが眉を下げた。「ゲンキン」は、件の商人を思い出す言葉になっているのだろう。そもそもそれが何か理解していないのだから、印象があの男になるのは仕方ない。だがそれは追々、村長あたりが教えていくはずだ。
「まだ続きがある。現金があれば、馬が買える。馬が買えれば、できることが増えていく」
トンショウが「馬」という言葉に目を瞬かせたのがわかった。エリカは「最後に、ひとつ助言する」と言ったばかりだ。つまり、それは。
「おれ、また馬に乗りたい!」
「お前ならできる」
エリカは人差し指をしまい、したり顔もやめて、トンショウの頭を撫でた。
その「できること」は、思いつく分だけ可能性として彼の手にある。それは、とても喜ばしくて、それを見届けられないのは、別れに慣れたエリカでも寂しいものだ。
エリカは立ち上がった。
「トンショウ、リンドにもお別れを言ってくれるか?」
だが、エリカは寂しさを顔に出さなかった。この村には、少し滞在し過ぎていたし、商人の男の件で村はまだしばらく興奮状態が続くだろう。良くも悪くも、外との繋がりが濃くなる。部外者は、退散するに限る。
「え、今すぐ行っちゃうの?明日とか明後日とかじゃなく?」
まさか今ここが最後だとは思っていなかったようで、トンショウは困ったようにリンドに向かうエリカの後を追う。
「文字の始まりについて聞かれても困るしな。トンショウの家に一度寄ってから、お暇するよ」
わずかながらの荷物を取って、代わりにこの羽織を彼の母親に返さなくては。夕暮れまでに街で上着になるものを買えばいい。陽があるうちでないと、できないことだ。
「………………」
リンドを撫でてから、木に括っていた手綱を取る。黙ってしまったトンショウに近づいて、リンドの頭が下がるように手綱を下に引いた。
「リンド……」
トンショウがリンドの顔を撫でた。小さい手の、優しい感触。リンドもきっと、忘れないだろう。小さく返事を返したリンドに、トンショウは頭を軽く振って、少しだけ歪だが笑みを浮かべた。
「リンド、ありがとう。おれ、楽しかった」
それからトンショウが今しがた撫でた辺りに額を当てる。熱を分け合うその姿が、エリカには眩しい。
(―――忘れない)
リンドも、トンショウも、互いに忘れず、エリカもこの光景を忘れなければいいと思った。
エリカはトンショウの肩に手をそっと置いた。
「ありがとう」
「ううん……おれのほうがありがとう、だよ」
トンショウは振り向いて、エリカの方を見た。無理をした笑顔は、もうそこには無い。
「エリカさん、たくさんありがとう。……また、会えるかな」
「さぁ。でもそうだな……縁があれば、またきっと」
「うん!おれ、エリカさんくらい上手に馬に乗れるようになってる!」
エリカは歯を見せて笑った。トンショウの頭を、最後にもう一度、少し強めに撫でる。トンショウが痛いと言うよりは、くすぐったそうに身を震わせた。
「こらこら、弟子は師匠を超えてこそだぞ。―――またきっと何処かで、トンショウ」
そして改めてエリカは思うのだ。この冬の日の一幕を、少なくとも自分は忘れることはないだろう、と。
「信仰と人」
<了>
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