信仰と人 - 玖
商人の男に構うより、火を弱めるのが優先だった。今日は、風が強い。風向きによっては火の回りが早くなる。
「う……っ」
冬の水温が、川に手を突っ込んだエリカを刺激した。布にたっぷりと水分を吸わせる。布が重くなるのがわかる。
水から布を引き揚げ、体が濡れるのにも構わず、両手でしっかりと抱える。滴る水はむしろ拭わないほうがいいだろう。
エリカは布を抱えたまま、先程商人の男が火を投げた文字の樹の根元に向かって走る。
(これで消せるだろうか)
胸中で自問してみる。エリカは眉を寄せた。
トンショウに布を持ってきてくれと頼んだのは、同じように濡らした布を使い、本格的に大きくなる前に消すためだ。偶然リンドに積んでいた布は、本当に急ごしらえでどうにか寒さを防ぐために持っていたもの。羊毛と綿の混紡のこの布は、大きさにして女性の肩掛け程度で、そう火消の効果は期待できない。
(考えるな……!)
エリカは炎の前までやって来た。広がり始めた焦げ付く匂い。
幸いというか、松明が直撃したのは文字の樹の根の端の方だ。文字の樹の長い根は地上で這っている部分も多く、根の端に発火したとはいえ幹に辿り着くには至っていない。
そして何より、風向きが味方をしていた。根から幹へ向かって広がろうとする火の方向に対し、向かい風になっている。風だけで消えるほどの火では無いが、だいぶ時間は稼げそうだった。
エリカはとりあえず、幹に一番近い火に濡れた布を被せた。じゅっ、と冷たい布と地面に挟まれて火が消える音がする。
(よし、次だ)
すぐにこの布を再び水に浸けに行くのは賢い選択ではない。エリカは踵を返して川に向かう。そして、躊躇うことなく外套を脱いだ。
「さ、む……っ」
当たり前だ。陽はあと一刻もせずに沈んでしまう。陽気で暖められただけの気温は既に下がり始めている。薄ぼんやりとしてきた辺りの光源は、もっぱら燃える木々たちと、それから文字の樹の根。朱い光は優しくない。
エリカは冷える肩を強張らせつつも、怯むことなくまたもや両手を冷水の中に突っ込んだ。外套の方が先程の布よりもずっと重い。
「っ……」
ずるずると水から引き揚げ、包むようにして抱えた。前方が見づらい上に、これでは足元も危うい。今までのように駆けることは控え、なるべく速足で、だが転ばぬように歩く。お陰で水滴はエリカの服に吸い込まれていた。不快なのは言うまでもないが、風に当たり身体の熱が奪われていくのがわかる。
火元に近づき、根に外套を被せる。じゅう、とまた音が響く。苦労して運んだ外套は、先程よりも広い範囲の火を消した。先に被せた布が乾いて火が移る前に、濡らしなおそうと拾い上げる。
木が燃える音。焦げたにおい。文字の樹の付近は火が弱いからか、煙はほとんど出ていない。しかし商人の男を見つける前に見た、燃える木々から立ち上る煙は空へと昇っていく。向こう側は風の影響もあり、燃え広がるのが早いようだ。無論、そちらも放っておくといよいよ本格的な山火事になり、人が対処できる程度を超えるかもしれない。だが、今のエリカにできるのは文字の樹の火を消すこと、おそらく、それだけだ。
エリカがまた川の方へ向かう途中、商人の男がこちらを見ているのに気づいた。エリカは布を手にしたまま、僅かな間、立ち止まって男を見た。距離は近くないが、声を張り上げないと届かないほどでもない。
「……これが、お前の望むものだったのか?」
「あ、あぁそうさ……!」
どこか、興奮したようにも怯えたようにも聞こえる声が返る。エリカは男を冷ややかに見た。堅氷を感じさせる、冷たい瞳。
「哀れな」
それだけ呟くと、エリカは急ぎ足でまた川へ向かう。
村人のことを思えば、捕らえておくべきなのかもしれない。村の人間ではない者が、村の自然物に火を放ったのだ。もしこの国で法が効果を発揮するなら、放火にあたるのだろう。
(だが、それよりも―――)
それよりも、文字の樹を失くさないことのほうが、きっと大切だ。
エリカは、布をまた川に浸けた。
(文字の発祥がここではないとしても)
水分を含んだ布は、初めには無かった焦げが広がっていた。それに気づきながらも、エリカは引っ張り上げて抱きかかえる。冷えた服が、空気に触れて身体の熱を奪う。それでもやはり、この手を止めてはいけないと思った。
(
*
エリカが何度目かの外套を運んでるところで、トンショウが布を持って戻ってきた。トンショウがエリカと同じ行動を始めると、消化効率はぐんと上がった。布が乾くと、それすらも着火剤として飲み込もうとしていく炎と闘う。
エリカには、幼い弟子が内心で何を思っているのかわからなかった。今まで信じてきたもの、おしえられてきたものをたったの一瞬で否定された、その気持ちは。
だが、懸命に火を消そうとする姿は、確かにエリカの脳裏に強く強く焼き付いたのだった。
「……エリカさん、……消えたみたい」
二人になってからそう時間はかからずに、文字の樹の周りから炎は消えていた。トンショウにそう声を掛けられたのは、何度目かわからない川から戻ってきたところだった。エリカは布を抱えたまま、走ってトンショウの隣に屈みこむ。すっかり木炭になった根が地面から顔を出していた。燃えて身が無くなっているのは発火源のすぐ近くだろう。
「はぁ……」
エリカは安堵でその場に布を落とした。
エリカの唇は紫色に変色していた。あぁそういえば寒いんだった、とエリカは他人事のように思い、張っていた肩の力が緩まるのを感じた。それから、トンショウの頭に手を伸ばす。
「……よくやったな、トンショウ」
「エリカ、さん……」
トンショウの表情を見るに、未だにこの現実を脳が処理しきれていないのだろう。ただひたすらに体を動かしていたら終わっていた、そんな顔だ。
彼に、何と言葉を掛けるのかが正解なのかわからない。わからなくても、言いたいことは、まだたくさんあった。
エリカは複雑な思いを瞳に宿しながら、戸惑うトンショウを見ていた。
「…………」
エリカはトンショウの頭を撫でてから、立ち上がる。結局、何も言わなかった。
(まだ、終わっていない。次は、山の方の火を少しでも弱めなければ)
胸中で自分に言い聞かせ、凍える体を奮い立たせる。落としたばかりの布をエリカが拾おうとして―――、
「おい、結構回ってるじゃねぇか!」
「桶を回してこい!その間に少しでも奥の木を倒してくんぞ!」
「待ちなよ、トンショウは文字の樹もだって言って―――」
何人もの人が声を張り上げているのが耳に届いた。十中八九、それは山の正面側から聞こえてくようだった。
トンショウが弾かれたようにその方向を見て、それからエリカを見上げた。今度は驚きと、それから安堵が見える。エリカも、疲れが滲む顔に笑みを浮かべた。
「トンショウ、本当にお手柄だ」
まだ炎はある。でも、もう二人だけじゃない。
エリカを見つめるトンショウの瞳が潤んでくる。涙は目に溜まっても堪えているようで、溢れはしなかった。嗚咽も上げず、エリカも何も言わない。ただ二人は手を伸ばして―――、残った熱と、それからやっと得られた安堵を確かめるように、そのまま互いの手を握りしめただけだった。
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