信仰と人 - 捌

 商人の男と対峙することになったエリカは、男の手に輝く炎を一瞥してから、その両眼をしかと見つめた。声は、低く響く。


「お前……いったい何のつもりだ?」

「何つもり、と。ははは、これを見てもまだわからないとは、察しの悪い」


 商人は人と出会ったことに驚いた様子を全く見せなかった。喉を鳴らし、口角を片方だけ釣り上げて、乾いた声で笑う。細められた両目からは、どこか可笑しささえ滲ませていた。

 エリカは男の返答が気に入らないことを、眉を顰めて表した。


「そういう意味じゃない。お前が村の人たちに追い払われたことは知っている」

「あぁ、そこの彼もいましたからねぇ」

「……何故ここで、何故そんなことをしている?」


 山は何もここだけではない。しかし、文字の樹はここにしかない。

 エリカは男が文字の樹が目当てなのか、単に大きな木だと認識してここを選んだのか、それを図り兼ねていた。エリカが声を掛ける前の男の行動を思い返してみれば、おそらく既に文字の樹を知っている可能性が高いだろう。しかし何も知らないのであれば、下手にその樹が大切だなどとは教えないほうが賢明なのは明らかだった。

 男の目は虚ろで、意志を持っているよう見えていても、もはや判断力を伴う行動は期待できないとエリカは思った。


「追い払われた、ですか。そうですねぇ……それが理由だとはあなたは思いませんか?」

「……それは単なる逆恨みだろう。お前が山を犯していい理由にはならない」


 ぱちぱちと、木々がまた燃えていく音が背後で聞こえる。

 男と樹の幹は、もうあと数歩分の距離しかない。村では大切にされていると、トンショウに教えてもらった樹だ。そう簡単に燃やされるわけにはいかなかった。


「私が何を思ってこの村にやって来たか、あなたにはわかるまい。それを蹴散らされたことを考えれば、この程度のことでもしなければ腹の虫も収まらないというものだ!」


 男は少しだけ興奮気味にそう言いきると、視線をエリカとトンショウから外して、文字の樹を再び見つめた。

 完全なる逆恨みだ。だが、それを説いたところでこの男には通じない。エリカは奥歯を噛んだ。

 男は一心に樹を見つめ、そして足を一歩進めようとして―――、


「や、めて……」


 トンショウが、それを止めた。

 男は首だけを動かして声の主へと目線を動かした。その目は相変わらず虚ろなまま、その手の松明の光を昏く映していた。


「あー?何か言ったかい?」

「やめてよ……、その樹には近づかないで……!」


 トンショウは震えながらも、きちんと言葉へと形にした。その言葉に、男はにやり、とまた片方の口角だけを上げて不気味な笑顔を浮かべた。


「あぁ、あぁ、あぁ!やっぱりこれが『文字の樹』なんだな!」

「!」


 エリカはその言葉に、一瞬だけ息を飲んで、それから喉を鳴らして唸った。ここにきて初めて、獣のような鋭い嫌悪を露わにした。


「何故お前が文字の樹それを知ってる!さっさと離れろ!」


 男は怯むどころか、再び乾いた笑い声を上げた。


「嫌に決まってるだろう!はははは、文字の樹こんなものの為に、村人たちは文字が読めると?笑わせてくれる!」


 燃やしてやる、と男は口の中でそう呟いてから、また一歩、その足を文字の樹へと踏み出す。

 トンショウがリンドから身を乗り出して叫んだ。


「やめて!おれたちの樹を燃やさないで!」

「黙れ!文字なんかお前らの祖先が作ったわけないだろう!なんだよ!」


 その言葉に、エリカの前に座る、幼い肩が強張った。


「……え?」


 顔を見なくてもわかる。間違いなく、トンショウは今、何を言われたのか理解できないという表情かおをしているはずだ。

 エリカは今までで一番大きな声で叫んだ。


「やめろ!それ以上言うな!」


 しかし、男にはエリカの声など聞こえていないように、トンショウに向かって言葉を続けた。嫌な微笑みを湛えているが、額からは汗が垂れ、身体はふらついていた。


「本当に知らないというのなら、教えてやろう、小僧。文字を作ったのはこの樹を植えた人物ではない。そいつが生まれるよりずっと昔の時代に、西のさ」

「う、そだ……」

「真実なんか、この程度のものさ。お前らの先祖なんざ、偉大でも何でも無い!そんなものに縋って生きてるなんて哀れなもんだなぁ?」

「うそ……嘘だ、嘘だよ!」


 エリカは男を睨んだ。男はエリカのその視線に気づくと、目を一層細めた。何かを察したように何度も頷く。


「お優しいことですねぇ、、文字の樹などというものを守ろうとする……あなた、この村の人間ではないんでしょう。ならこんなもの、意味を成さないとわかっているはずだ」


 そこで初めて、トンショウがエリカの方を振り返った。その顔にいつもの無邪気さや笑顔は無く、恐怖と困惑で満ちていた。

 エリカはトンショウの肩に手を添え、一瞬だけ瞳に陰を落とす。しかしその表情には何も言わず、また男を睨みつけた。


「それを決めるのは我々のような外の人間ではない。お前にも私にも、何かを言う権限は無いことに、何故気づかない?さっさと去れ、この外道が」

「……私には、全く理解できない……残念だ」


 男は顔から笑みを消して、それだけ呟くと、手に持っていた火を、松明ごと文字の樹へ向かって投げた。


「っ、お前!」

「あーあ、燃え移りそうですねぇ。いやぁこれで少しは村人たちも目が覚めてくれるはずだ。喜ばしいじゃないですか!」


 男はハハハハと笑い声を上げながら、覚束ない足取りのまま後ずさりして樹から離れる。足が縺れ、そのまま男は幾歩か後退した後に尻餅をついた。その場から動く様子も無い。

 エリカとトンショウの顔が青ざめていくのは、もう男の目には映っていないだろう。文字の樹の根元近くに燃え移った少しの炎が、徐々に徐々に周りの幹を喰ってその身を大きくしていく様子を、ただ眺めているだけだったのだから。


「……止むを得ないか……、トンショウ」


 エリカは、前に座り山を呆然と見つめるトンショウの肩を強く揺すった。

 火はごうごうという音を止ませず、風に乗って辺りを包み始めている。迷っている時間は無かった。

 トンショウが振り向いた。エリカと視線が合う。エリカの表情は、今まで見たことのないほどに真剣だった。トンショウは思わずその漆黒の瞳に囚われそうになる。


「今から一番近くの家に行って、大きい布をとにかくリンドに積んで持ってきてくれ」

「え……?」

「それから、そこに住んでる人たちにもここへ来るよう頼んでくれ。山で、文字の樹で火事だから手伝ってくれと」

「おれが?」


 エリカは少しだけ口角を上げた。妖しい光を目に浮かべて見せてから、トンショウから手を離して鞍から降りた。素早く鞍の後ろから下げていた小さい荷籠から布を出す。急な寒さに対応できるように、籠の両方に厚めの布が入っていた。

 それから、手綱をしっかりとトンショウのその小さい両手に握らせる。


「トンショウが、だ。樹を救うんだ、今はもう時間が無い。さぁ行け!」


 次にトンショウが何か言うより早く、布を抱えていない右手で、エリカはリンドの腹を叩いた。ヒヒンとリンドは鳴くと、前脚を上げてすぐさま走り出そうと重心が一旦後ろへ掛かった。


「エ、エリカさんっ!」

「手綱を握れトンショウ!お前がリンドを操るんだ!」

「っ」


 トンショウはその言葉に、身についた感覚で咄嗟に手綱を引いた。真後ろへと方向転換するために右手に力を込めて引く。

 リンドが前進してしまえば文字の樹の、男の方向へ走るだけだった。それを頭で認識するより早く、身体が逆方向へと動かしたのだろう。トンショウなら大丈夫。エリカはそう確信した。


(と、今度はこっちの番だ)


 トンショウが村へ向かって走っていくのを最後まで見届けることなく、エリカは一番近くの川へと駆け出した。

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