信仰と人 - 漆

 その日の午後、エリカは村人から届け物を頼まれた。小さい村とは言え、馬で届けてもらった方が早いのは当然のことで、エリカもそれをすんなりと快諾した。この村に来て三月ほど。もうエリカは村人にすっかり馴染んでいたし、一年の仕事を終え眠りについた畑では手伝う仕事は無く、時間が余っていたので断る理由も無かった。


 天気は良好で、澄んだ青空に雲が川のような流れを描いている。風も比較的強い為、雲の流れも速かった。

 エリカが頼まれた三軒分を届け終えたのは、空の色が変わり始める一刻ほど前だった。そろそろトンショウも家の手伝いが終わる頃だろう。予め待ち合わせていた場所に今から向かえば、丁度良い頃合いで練習が始められそうだ。エリカはそう考えた。

 と。


「―――エリカさん!」

「……?」


 エリカがリンドに乗ってトンショウとの約束の場所がもう目と鼻の先、という頃、道の向こう側からこちらに向かって走って来る小さな影が見えた。


「トンショウ?」


 それは、もう直会えると思っていたトンショウで、徐々に互いの距離が縮まるにつれ、明らかにその表情に焦りが滲んでいることに気が付いた。

 エリカは嫌な予感に、思わず眉を寄せる。陽の光によって暖かかった空気が、どこか冷えたように感じた。


「どうした?何かあったのか?」


 急ぎ足だったトンショウには、リンドを走らせるとすぐに目の前に辿り着いた。エリカはリンドに乗ったまま尋ねた。

 トンショウは怯えと焦りを混じらせた表情でエリカに向かって真っ直ぐと言った。普段の彼からは想像できないような大きな声だった。


「山の方から煙が見えるんだ!」

「煙……?」

「最初は細かったから誰かの焚火かとも思ったんだけど、でもどんどんひどくなってきてて……」

「っ……トンショウ、リンドに乗るんだ!」


 トンショウの青ざめた顔と、その声の震えからは、状況が悪いことを伝えるには充分だった。エリカは瞬時にトンショウをリンドに引き上げた。


「山か?」

「うん、このまま真っすぐ……おれたちがよく練習で通ってる方の」

「わかった、掴まれ!急ぐぞ!」


 リンドをほぼ全速力で走らせる。二人はリンドに乗ったまま、トンショウの言う方向へ、ただただ急ぐしかなかった。

 エリカは嫌な汗を拭う暇も無かった。



 冬の乾燥した空気は、枯れた木が燃えるのを一層加速させる。

 エリカとトンショウが山の入り口が見える位置まで走ってきたときには、既に赤い炎が獣道の周りを中心に燃え広がっていた。木々は数本飲み込まれ、表面がすっかり黒焦げになっても未だに炎から逃れられてはいなかった。

 エリカはリンドに乗ったまま奥歯を噛んだ。風が強いせいで、火の周りが早い。


「火が……」

「これはまずい……」


 エリカは逡巡する。下手をすると山全体に広がりかねない。すぐに消さなければならないが、この火の回る速さでは、二人で近くの川から水を運んでくる間にでも、火はかなり回ってしまうだろう。それでは間に合わない。しかも道具も何も無いのだ。

 気温は氷点下に近いはずなのに、炎が近いせいか、二人はじんわりと体温が上がってきていた。ただし、手綱を握る手は冷たいままだ。


「……?」


 と、そのときエリカの視界の端に、何かの影が映った。炎に隠れて、たったの一瞬だけだったが、自然のものではない動きに思えた。手綱を引いて、炎に近づきすぎないように距離を保ってそこへと回りこんだ。

 嫌な予感が再びエリカを襲った。この辺りはエリカとトンショウが練習でしばしば訪れるが、今まで誰かにここで出会ったことは一度も無い。冬の山。そんなところに用がある者など、そう多くはないだろう。しかもその方向は―――文字の樹に近づく道筋だった。


「エリカさん……?」

「しっ。……静かに」


 トンショウの呟きを最小限にとどめると、エリカはリンドの歩む速度をぐんと落とした。これなら炎に焼かれる木々の音で多少の蹄の地擦れの音は聞こえないだろう。

 二人はリンドに乗ったまま、ゆっくりと文字の樹がある方へと視線を向けた。すると、すぐに燃える音に紛れてパキパキと落ちた枝を踏む音が聞こえてきた。エリカとトンショウは一瞬だけ顔を見合わせた後、その音のする方へと首を伸ばした。


「ああ、これか……これに違いない……」


 冬の空気に負けないくらいの、乾いた声がした。

 リンドをもう半歩だけ進め、足音の、声のする元が見える位置まで木々の影から体を出させた。

 そこから見えた光景は、エリカの目を見開かせ息さえも一度止どまらせるほどには強烈なものだった。エリカの目には、松明を手にして文字の樹の数歩手前に立つ男の姿が映っていた。


「ふ、はははは……!これが、これが……!」


 こんな人気の無い場所で、山火事が発生し、そこで松明を持つ男。火事などという異常事態でなくとも、その姿は十分に異常な光景に見えただろう。厚手の外套を羽織っているが、その立ち姿は初めて見るものでは無かった。


「何を、している……そこのお前!」


 エリカの止まった息はしかし、次の瞬間には張った糸のような声となって空気を裂いた。

 それに反応して、松明を持つ男の首がこちらへと捻られる。エリカにもトンショウにも見覚えのある顔があった。


「あの、日の……」


 トンショウの吃驚は小さな呟きとなってそれだけ零れた。

 男は酷薄な笑みを浮かべていた。ぞっとするほど、人の心を持たぬような、そんな微笑だった。爬虫類じみた顔つきは、その不気味さを強調させていた。

 その男の手に光る赤とも橙とも取れる炎の塊は、先日の雪が未だに残る山の麓ではよく映えていた。その炎も男の表情も、非日常的で異様としか表現できなかった。


 ―――村人に追い払われた商人は、数日後にこうして文字の樹の前に舞い戻ったのだ。燃え盛る火を抱えて。


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