信仰と人 - 陸

 どんよりと暗い空の下、リンドを操って、指定する目印まで行き自身のところへ戻るような練習をさせていたエリカは、トンショウの話に思わず声を上げた。


「なんだって?!」


 トンショウが帰路で見たという村人と見知らぬ男のやり取りを聞き、エリカは驚かずにはいられなかったのだ。エリカの大声を初めて耳にしたトンショウは、反動で思わず手綱をきつく引いてしまった。リンドがそれを停止の指示と捉える。

 基本的に感情の起伏は抑えるよう癖をつけているエリカだが、トンショウの話はエリカが予想していたより事態がまずいことを示していた。


「エリカさん……?その人のこと、知ってるの?」

「というか、私が最近村長に呼ばれている理由がまさにそれなんだが……」


 痛くなったこめかみを押さえ、とりあえず事態を飲み込むと、トンショウとリンドに近づいていく。エリカはあと少しで終着点ゴールだったというのに、それを阻害してしまったことを申し訳なく思った。苦笑しつつ、驚かせてすまないとリンドの首を撫でた。それでも、溜息は禁じ得ない。


「まさか、こんな手に出るとは」


 村長の家で顔を合わせたときから胡散臭いとは思っていたが、まさか村の人たちに先に当たるとは予想外だった。それに、トンショウの話を聞くに、おそらく文字が読めないだろうと高を括って口頭だけで丸め込もうとしたのだろう。

 まったく、商人という奴らはどうしてあんなにも金に執着するのだろう。エリカはまた眉を顰めた。


「どういうこと?」


 トンショウはやはり意味がわっておらず、ただ見たものをエリカに伝えただけだった。エリカはちょっとだけ迷うと、説明を始めることにした。


「簡単に言うと、その男は村の人たちに納得させたと言って、村長とある約束を結ぼうとしたんだ。自分が優位になるような、狡い手だと知っていながらね」

「約束?」

「そう。村の作物を『現金』というものと交換するという約束」


 現金についてエリカは、交換したい物と同じ価値だけあれば交換を可能にする物だと説明を加えた。


 この村では物物交換で生活が成り立っているが、そもそも現金というのはそんなに新しい道具システムではない。意外にもその歴史が古いことを、エリカは知っていた。

 この村が属している国も、栄華を誇っていた時代には、エリカの生まれた国へ貨幣銭という概念を輸出していた。今は王都周辺しか安定しておらず、この村のような田舎では影響力をほとんど持たないほど体制は弱っているが、昔は世界に名だたる大国だったのだ。


「うーん……おれ、まだよくわからないこともあるけど、とにかく、あの人は悪い人だったんだね」


 トンショウはエリカの説明を聞いても、分かった半分、分からなかった半分、といった様子だった。トンショウの年齢と今までの村での暮らしを考えれば、それは当然のことだ。一気に外の世界と大人の事情を理解できるはずもない。

 エリカは「そうだな」と頷いて、リンドに乗ったままのトンショウの頭に手を置いた。自身より高い位置にあるその頭を優しく撫でながら言った。


「だがトンショウ、おそらくその男は、自分が悪いことをしていると思ってないと思う」

「えええ……でも、おれたちに……」


 そう、それを理解しろというのは無理な話だ。それでも、エリカは愛弟子に言うべきだと思った。

 撫でる手を止め、その瞳を見つめた。黒い瞳が交差する。


「この世には、様々な人がいるんだ。皆違うことを考え、違うことの為に生きている。それを忘れるな」


 今、その意味全てを解れとは言えない。でも、後のトンショウの為になるのであれば、それで充分だとエリカは思った。

 案の定、目の前のぱちりと開いた瞳は、すぐに困ったように細まった。


「よく、わかんないよ」

「まだ分からなくていいさ」


 エリカはトンショウの頬に手の位置を移動させながら、そう言って歯を見せて笑った。トンショウはエリカの手の冷たさに顔を背けようとする。


「手、冷たいよ!」

「トンショウはあったかいな」

「エリカさん、おれの体温奪う気でしょ!」


 そう言ってトンショウは手綱を引いた。逃げるようにリンドと共に目印となっている河原の木へ向かった。まだ川の水は流れているが、表面が凍るのは時間の問題だろう。そんな寒さだった。

 エリカはくすくす笑いながら、その後姿を見送る。


「トンショウ、今度は木を回って戻るだけじゃなくて、そこで一度止まって乗り直す練習もしてみろ。リンドと木の位置を上手に取るんだ」


 エリカの指示に、トンショウは手を振って答えた。リンドとの相性ももうすっかり良くなっている。

 エリカはしばらくその様子を見ていたが、やがて思考に沈み始めたのか、顎に手を当てると表情を消した。考えるのは、例の商人のことだ。 


(村の人たちに追い返された、か)


 そうなると、村長との取引なんてもはや諦めるだろう、とは思うが。まさか村人が文字を読めるなんて思っていなかったんだろう。エリカも同じだったのだ。それは確かに驚いたろうなぁ、とは思う。が、先に卑怯なことを考えたのも彼だ。同情は無かった。


(後で村長のところへ寄るか。これで村が現金を入れる時機タイミングは一度過ぎただろうか)


 とはいえ、今後も何かしら機会はあるだろう、とエリカはそれに関してはすぐに結論付けた。むしろ気になるのは、そこまでして仕入先を欲した男が、村へ怒りの矛先を向けないかだ。向けるのは勝手だが、変な行動を起こされでもしたら堪ったもんじゃない。


(まぁだが、もう冬だ。畑は閉じ始めているし、再開は春だろうから狙ってくるならその時期だろうか)


 エリカが真っ先に浮かんだのは、あの商人が流れ者を雇って農作物を奪う可能性だ。無理やりにでも少しは量を増やせる。犯人が分かったとて、この村の閉鎖環境を考えると村人は外まで追っては来ないだろう。

 だが今は冬の頭。冬の寒さが厳しいこの村では、農作物は冬に全く育てられない為、奪われる物は無いはずだ。とはいえ、直接村人に手を出そうということもあり得るかもしれない。一応注意するように村長から伝えてもらうべきだろう。エリカはこれからの行動を決めた。


「それにしても寒いな」


 一旦思考を終えたエリカは、こちらへ戻って来るトンショウを見て、白い息を吐きながら微笑んだ。トンショウは寒いと言いつつも元気そうだ。

 この村での滞在期間は、なかなか長くなってきている。当初はこんな予定ではなかったのだが、トンショウとの練習は、自然とそれを伸ばしていた。それは、エリカには嬉しくもあり、そしてずっとはいられないことを考えると、寂しくもあった。

 エリカは暗いままの空の下、トンショウを見て眩しそうに眼を細めたのだった。



 件の商人が『文字の樹』について知ってるなんて、エリカは知る由も無い。

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