信仰と人 - 伍

 エリカが村長に呼び出された最初の日から数日、トンショウは曇った空の下、学校からの帰り道を歩いていた。時間は昼頃のはずだが、何せ雲が厚く太陽は居場所さえも明らかにしていない。昨晩、積もるほどではないが軽く雪が降っていた為、連日より寒かった。

 トンショウは襟巻の隙間を埋めるように押さえながら、帰路を急ぐ。数日ぶりにエリカとリンドに乗る約束をしていたのだった。

 ここ数日、エリカは村長やその息子と何やら忙しそうで、なかなかトンショウの練習に首を縦には振ってくれなかった。だが昨晩、今日雪が止んだら、と約束してくれたのだった。


「う、さむ……」


 強く吹いた風に、トンショウは目を瞑り、白い息と共にそう呟く。そして目を開けると、次の角にある家の前で、何やら村の人たちが集まって騒いでいるのが見えた。


「?」


 トンショウは気になって、布で包んだ本を抱えてそこに向かって走り出した。近づくにつれ、見知った顔の大人の怒号が聞こえてくる。輪の中にいる、村人は着ない上等な着物の男だけが、知らない顔だった。


「俺たちを舐めてんのか!」

「いえ、そんなつもりは!これは別におかしなことではなく、」

「あたしらの作る作物ものをあんたに売るのが優先さきだって?あたしらの食べ物が無くなったときどうすんだい!」


 普段なら畑仕事をしている大人たちは、男女問わずに中心の男を責めているようだった。トンショウは輪の外の方から見ていた、赤子をおぶった四軒先に住む女の着物を引いてみた。


「おばさん、どうしたの」

「あぁトンショウ。いやぁ、それがね。あの男、村の作物を現金とやらで買いたいと言ってるらしいんだけど、その取り決めを書いた紙を私たちに見せてきたんだ。これでいいかって聞くんだよ」

「ゲンキン?カウ?」


 聞き慣れない言葉に、トンショウは首を傾げた。女は、赤子が泣かないように体を上下に軽く揺らしながらも、少し苦笑いを浮かべて話を続けた。


「ごめんごめん、そっちはまだ私もよくわかってないんだけどさ。とりあえず、その約束をする為の紙に、どうやら変なことが書いてるっていうんだよ」

「変なこと?」

「そうさ。作物はまず決められた量を売れ、とか、もしその量が守れなかったら次から値段?を下げるとか」

「何それ」


 トンショウは、やっぱり理解できない部分が多かった。皆が何に怒っているのかもわからないが、とりあえず思いついたことを口にしてみる。


「よくわからないけど、そういう外の人との話は村長がやるんじゃないの?」

「それが、村長が皆と相談するって言ってたらしいから、それなら先に皆に話して許可をもらいたいんだってさ」

「ふぅん」


 と、そこで、男の持つ紙を回し読みしていた村人の一人が、トンショウと話す女に「お前も見てみろよ、ほら!」と半ば無理やり押し付けてきた。女は一応受け取ったが、彼女はトンショウと同じであまりよく内容が掴めていない様子だった。だからこそ輪の外で眺めており、トンショウが話しかけられたのだが。

 トンショウはわからないなりにも皆が周りであまりにも騒ぐので、好奇心で自分も見てみたくなった。女の着物をまた引っ張って、見せてくれと頼む。女は特に抵抗なく、その場にしゃがんで、トンショウと一緒にその紙を眺めた。


「『村の子供は荷詰めを手伝うこと』……?」


 子供、という言葉を見つけて、トンショウは口に出してその行を読んだ。紙上の羅列には難しい語もあったが、その部分はトンショウにも読めるものだった。

 輪の外から聞こえてきた子供の声に、村の大人たちは一度声を止め、トンショウを見る。皆、口々にトンショウの名を呼んだり「子供にも?」と怪訝そうな顔をしたりした。

 自分を囲む村人たちの合間から見えた子供に気付くと、商人の男は目を大きく開いた。信じられないという様子で言葉を紡ぐ。


「今……お前が読んだのか……?」

「……?そう、だけど……」


 目の前の男の様子がおかしいと感じたトンショウは、屈んで一緒に紙を覗いていた女の体に隠れるように体を引いた。

 男は、トンショウを凝視したまま続ける。


「読んだ……?嘘だろう、まさかこんな村で、お前くらいの歳で文字が読める……だと?」


 嘘だ、と言われても、トンショウは読めるのだから、どう答えていいかわからない。嘘ではない、と言おうか迷っていると周りの大人たちが先に動き出す。

 まず、男の真横で眉を顰めた中年の男が怒気を含んで言った。


「さてはお前さん、俺たちが文字読めねぇと思ってこんなふざけた内容を堂々と見せやがったな?」


 今にも掴み掛かりそうなその男の声に乗っかり、周りの村人も再び商人に向かって次々と言葉を投げた。


「ああ、そんなら頷けるね。でも残念だったね、あたしらはみーんな読み書きできるのさ!」

「そうだそうだ!俺らには文字の樹があるんだからよぉ!」

「わかったらさっさと出てけ!」


 言いよる村人が徐々に増えていく。


「クソ……っ」


 商人は悪態をついた。迫りくる村人の輪の隙間から、縫うように這い出る。一度村人に渡してしまった契約書は奪い返せていないが、今はそんなことより逃げることが最優先だった。

 男は、そのまま走って馬を留めていた少し先の木に向かった。村人たちの罵倒は聞こえてきたが、追っては来なかった。


(恥かかせやがって!何故奴らは文字が読めるんだ?!)


 男の予定では、文字が読めない村人たちに口頭で説明し、それに了承を得たと村長に伝えて、村長が細かく目を通す前に署名させるつもりだった。村長は文字が読めてもおかしくはないが、こんな田舎の村人が全員―――まだ幼い餓鬼でさえ読めていた。こんなこと、あっていいはずがない。


 何故だ何故だと繰り返しながら、馬の下へ辿り着く。手綱を結んでいた木から外し、跨ろうとしてあぶみに足をかけようとしたところで、男はぴたりとその動作を止めた。


(『文字の樹』……?)


 最後に男に投げられたその言葉が、頭の中に響いたのだった。その木とやらが、どうにも意味を持つ言葉に思えてくる。


 男は動作を再開し、騎乗した。村の外へ向かうよう、馬に指示を出す。

 今後の仕入の計画が無に帰したことが、商人の腹中で焦燥と憎悪となって渦巻き始めていた。何か方法はないか、それを探して男は村を忌々し気に見渡しながら馬を走らせる。厚い雲は視界を悪くしていた。そのことにも、男は腹を立てた。寒いとは思わなかった。


 と、そこに一人の子供を見つける。先程、契約書を読んだのとは別の子供だった。寒いのか、両手を袖の中に入れて、抱えるように本を持っている。

 男はにやりと片方の口角だけを上げてほくそ笑むと、その子の方へと馬を向けた。「やぁ」と、あたかもただ通りがかったように、馬の上から声を掛ける。


「『文字の樹』って何かわかるかい?噂で聞いたんだけど」


 薄暗く、小さい村を覆う灰色雲。晴れる気配は、無い。

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