信仰と人 - 肆

「……はい?」


 村長の家に上がり、低い卓を囲んでいた男は素っ頓狂に返した。その男の向かいに腰かける村長は、その返しに眉の端をピクリと動かした。エリカは無表情だった。

 村長は固い表情のまま、もう一度同じ言葉を紡いだ。


「ですから、もし本当に我々と契りを結びたいと仰るのでしたら、詳細を書いた紙でお互いの名を持ってそれを証明したい」

「……契約書、のことですよ。ご存知でしょう?あの大きさの街で問屋をやっているのでしたら」


 エリカが横から助け舟を出す。商人の男の驚き顔は契約書を知らないのではと思わせるほどだった。だがしかし、そんなはずはない、とエリカは思った。彼が卸しているという街は、山へ続く田舎道の途中にあるとはいえ、大きさはそれなりだ。あの発達具合を見るに、それに疎いというのはなかなかに考えづらいことである。


「いや……、はい、存じていますとも」


 商人は抜けた魂が戻ったように、平静を装ってそう返事を口にした。続いてははは、と乾いた笑いを洩らしながら、商人は続けた。


「まさか村長が契約書をご存知とは思わず、驚いてしまいましたよ。そちらの方……エリカさん、でしたね。あなたがご存知でしたか、村の外に出たことがおありなのです?」

「……まぁ、そんなところです」


 エリカは特に表情を変えずに頷いた。改めて卓を挟んで向かいに座る男を見た。

 一重の両眼は平均より距離があるようで、面長ということも伴ってどこか爬虫類じみた顔つきをしている。黒髪黒目はこの辺りの地域ではよく見るので、それに関しては何も特別なことはないが―――エリカは自分のことを村の人間として話を聞く商人に対し、疑念を抱かずにはいられなかった。


(……肌や髪色が同じでも、違う民族であると普通は気づくはずだが)


「では、まず仰る内容をその契約書にしていただけますか。それを元に私は村の者たちと相談します」

「いやしかし、すぐには無理です。用意をしておりませんので」


 すかさず聞いた村長に、商人は答えたが……すると、商人は拳を握った。村長の斜め後ろに座っていたエリカは、その拳がよく見えた。

 エリカの目がすっと細まり、そしてそのまま彼女は目を閉じてその場を立った。

 窓から取り込まれた冬の午後の柔らかな光が、立ったエリカの存在を際立たせていた。


「村長。でしたら契約書を用意してもらってから、またお越し願いましょう。我々はそろそろお約束の時間ですし。私は先に支度をして参ります」


 約束など、無い―――。

 村長はその言葉の意味に気づいたが、それを商人に悟らせず、そうだな、と一言だけ洩らした。本日中に話を進めることは、いずれにせよ無理であろう。エリカはこの話を切り上げたいのだろう。『内容』を確かめてくれと頼んだのは、村長の方だ。


「ではご用意でき次第、いらしてください。本日はここまでということで」

「……わかりました。また近いうちに訪ねます」


 商人はそう言って軽く礼をし、結局支度があると先に立ったエリカが動く間もなく出て行った。表情は特に家に上がった時と変わったところは無かったが、拳は握られたままだった。



 扉の開けたキョウロは、客人が敷地から出て行ったのを父とエリカと共に確認してから戸を閉めた。

 エリカはその場に再び座った。村長は体の向きを回転させ、エリカと向かい合う形で座り直した。


「それで、どうだった」

「信用に値しません」


 率直な感想に、村長は苦笑いを隠せなかった。


「それは賛成だが……紙もあらかじめ用意されていなかったしな」

「それもありますが。私のことをこの村の者だと思っている時点で、力量は無いでしょう」

「あぁ、そういえばそういう口振りだったな」


 だが、それが?と村長は視線だけで問うた。エリカは眉尻を下げて笑う。


「何も見ていません。目の前に座る人間すら見えず、村の何を見て何を卸すのです」


 キョウロが湯飲みに茶を入れて二人の前に置き、自分もそこに加わった。客人の前では表情を殺していたが、今は不機嫌を隠しもせず顔に出していた。


「俺もあの人は好きじゃないです。契約書っていうのだって、きっと父さんがそんなこと知らないって思ってたに違いない」

「そうかもしれんが」


 それでもまた来い、と言ってしまったもので、村長は困ったようにその言葉を受け取った。ただ、二人の意見にはあながち間違っていないだろう、と思った。

 だから、肩を竦めて言った。


「今度は契約書を見て、おかしなところがあれば皆に相談もせずにその場で断るさ。それとも、もう面倒になって来ないかもしれん」

「来ないほうがいいさ」

「キョウロ」


 そう言い合う親子を前に、エリカはぼそっと言ってしまったのだ。その声には呆れと難渋が滲んでいた。


「残念ですが、あのタイプの人間はまた来るでしょうね」




***


 秋から冬になったばかりのこの時期は、特に日が沈むのが早く感じる。先程まで、弱弱しくされど冷え過ぎる外気の中では有難い太陽が出ていたが、既に傾き始めていた。そんな中一人の男は羽織の上からさらに厚い外套を着み、古い木造の平屋と畑の並ぶ道を急ぎ馬を走らせていた。


(……どうしてこんなことになっている?)


 男は眉を寄せ、焦りを滲ませながら舌打ちをした。馬の速度は落とさない。


 この村は周りの村や街と離れている為、人の行き来は少ない。首都のある南側からここへ辿り着くには、あまり植物が育たない土地を馬で半刻ほど進まなくてはならない。

 その枯れかけた土地を抜け、更に南に四半刻ほど進んだ比較的大きな街で、男は商人をしていた。街は年々発達し、卸先からは今以上に量が欲しいと言われている。しかし、街近辺の経路アクセスが容易な村は、既に多くの商人が現金作物として買い取る契約を結んでおり、男が付け入る隙はもはや無かった。そこで男は、この一番辺鄙な村から作物を取ることにしたかったわけだが。


(こんな辺鄙な場所なんだ。どうせ物価もわかりゃしない。それに、買い取ってくれる人間がいるだけありがたいってもんだろう)


 男は考えた。なんとしてでも、この村から作物を買い取りたい。しかし、村長が契約書を作れと言ってきたのだった。男の予定では、現金という概念がほぼ根付いていないこの村では、その価値判断ができないはずだった。だから、買い取る穀物の値段を街の相場の半分まで抑えてしまおうと思っていた。


(あの女か?)


 それなのに村長は、契約書なんて作ってしまったら、価値が街とは違うと言い出しかねない様子だった。男と村長の話し合いに先程同席していた髪の短い女が、どうやら街でのことを知っている風で、だとすれば相場を教えているのかもしれない。

 人の多い街で商人をやっている男は、金に関する相手方の考えには妙に勘づくのだ。どうするどうする、と男は口の中で繰り返した。契約書に名前さえ書かせてしまえば男の予定通りだが、熟考されてはまずいと感じていた。


(……待てよ。村の者と相談するって言ってたな。俺が行ったその場で契約書に名を書かせるには、既に村の人間が承諾したって思わせればいいのか)


 なるほど、そう考えるともしや……、と男は焦り顔をやめ、笑みを浮かべた。右の口角だけが上がり、その表情はどこか不穏さを感じさせるような笑みだった。男は馬の速度を可能な限り上げた。

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