信仰と人 - 叅
農村でありながら文字を子供たちに習わせる村。文字の樹の話をトンショウから聞いた数日後には、この村の人たちに対して抱いた余裕を感じさせる印象にすっかり納得していた。きっとそういった伝説を引き継いできたからなのだろう。
エリカは顔を洗いながら、やっぱり悪い話じゃないと思った。自身の子供時代を考えても、文字を習えるということはやはり恵まれていることだ。
「にしても流石に寒くなってきたな」
手巾で顔の水滴を拭いながら、黒い肩より上で雑に切られた髪を揺らしてそんなことを呟いた。
もうすっかり冬と言っていいだろう。こうして顔を洗う為にわずかな時間外で過ごすにも、厚手の外套が必要である。エリカがこの村にやってきたときはまだ秋だったことを考えれば、時が流れるのはあっという間で。特にここでは可愛い教え子ができたため、余計にそう感じるのかもしれない。
「あ、エリカさん」
「トンショウか。おはよう」
今ちょうど考えていた教え子が、エリカが顔を洗っていた井戸まで来ていた。同じように顔でも洗いに来たのか、まだ眠そうに黒い瞳が開ききっていない少年は手巾を手にぶら下げている。
「おはよう、エリカさん。リンドは?」
「顔を洗うだけなのに、アイツは連れてこないだろう」
すぐに相方を探してキョロキョロ見回すトンショウに、エリカは少しだけ笑った。素直な思考は、彼の良いところだ。優しい瞳だった。
そういえばそうだね、とそれだけ呟いてから、トンショウは水を汲み、顔を洗い始めた。彼も羽織を着ているが、やはり寒そうに肩を震わせている。
実を言えばエリカとトンショウがここで顔を合わせるのは初めてだった。それを思い出したのか、トンショウも手巾で顔を拭きながら、不思議そうにエリカの目を覗いて言った。
「エリカさん、今日って起きるの遅くない?」
何が、とは言わず、エリカは頷いた。
「まぁな。ちょっと昨晩、村長に呼び出されててな」
「だから寝るときいなかったんだ」
「あぁ。それに、またすぐ行かなきゃいけないんだ」
エリカは普段、トンショウの母と朝食を作り、子供たちが外に出ていくのを見届けてから一日を始めていた。しかし、今朝に限ってトンショウと大して変わらない時刻に起きてしまった。
「え、なら朝ごはんは?」
「今日は一緒に食べれない。帰って支度したらもう出ないと」
「でもエリカさん、お腹空いちゃう」
トンショウは心配そうに眉を下げた。年頃の少年は、腹を満たすことが相当大切だと見受けられる。エリカはまた笑った。しかしどこか悪戯っぽさがその笑みには次第に滲み出す。それなら、とエリカは言った。
「リンドと同じ飯でも食べておくさ」
「えーっ」
かわいい教え子は、やぱり素直なのだ。
*
エリカはリンドに乗って村長の家に向かっていた。徒歩でも行ける距離ではあるが、荷運びを頼まれる可能性と、それから―――、エリカは昨晩の話を思い出した。
夕刻、遣いでやってきたという村の若者がエリカを村長の家まで来るように促した。無論この村にやって来た時、滞在すると決めた時、そして普段の荷捌きの手伝い等々で顔は幾度となく合わせていた。その上、滞在を許可してもらっている以上、断る理由などあるはずもなく、エリカは言われた通り村長を訪ねた。
すると、そこで彼は村の外のことに詳しいエリカに相談を持ち掛けた。ある商人の話だった。
―――この村では、年貢と食糧以上には作物を作っていないようですね?
このように話を持ち掛けた男がやって来た、というのだ。男はどうやらこの辺りでは一番大きな街で問屋をやっているらしく、一番山奥にあるこの村が未だに現金作物を作っていないことに目を付けたようだった。
村長や村の一部の者たちは『現金』を知ってはいたが、村には不要と外からやって来る波には乗らず、これまで通り年貢と食糧のみを目的として畑を耕すことにしていた。隣の村とでさえなかなか簡単に行き来できる距離ではないため、外部との接触は日常ではまず無い。そんな狭い世界を生きている村民は皆顔見知りであり、物物交換を行うことで生活に困らないのである。
しかし、二月ほど前、エリカは馬に乗ってやって来た。普段は外との繋がりを持たない村民は村の外に興味を持ち、また村長はエリカから『外』の現状を聞いた。変容は瞬く間に進んでおり、いつかこの村は外へと開かなくてはならない時が来るのでは……と考えずにはいられなかった。そこで、今回の商人の話である。思っていたよりは早かったが、遅かれ早かれこういうことは起こり得る。
村長はエリカに
一連の話を聞いたエリカは、「
エリカがこの村に来る前、その商人の街に数日滞在し旅路で必要なものを揃えた話。街の様子。
「今後、この村への
村長はその意見に、やはりか、と新しい道を一歩決めようとした。のだが。
***
エリカは針葉樹で囲まれた敷地の中の、周りの家々に比べると広く頑丈そうな建物の戸を軽く叩いた。戸は薄く開かれ、顔を確認される。昨日、エリカを呼びに来た若者だった。この村でよく見る黒い短髪に黒い瞳。大きな体に反して、荒々しい雰囲気を纏わない男だった。
「エリカさん、お待ちしてました。どうぞ」
エリカは頷いて中に入る。土間で革の長靴を脱いで板間に上がり、四角く黒い火鉢の前に座る村長に向かい合うように腰を下ろした。居間にあたるこの板間には、エリカと村長と若者の三人だけだった。
「朝早くからすまない、エリカ」
「いいえ。おはようございます、村長」
「おはよう」
エリカと同じ黒い瞳を合わせた村長は、まだ四十半ばほどの体格の良い男だった。少し長い髪は前髪ごと後ろで雑に束ねている。白い髪も見受けられるが、血色が良く、口の周りを覆う髭のせいでなんだか熊のような豪快な男に見えた。村長は申し訳なさそうな顔から一転、気難しい表情に戻る。
「して、エリカ」
「はい」
「昨夜のこと、頼めるか」
エリカは外套を脱ぎ、傍らに畳んで置きながらその言葉を聞き取る。
「……『内容』のほうでしたね。そればかりは、私が口に出せることではない気もしますが」
エリカは耳に横髪をかけながら苦笑した。
その商人の話が『現金作物』をうちに卸してくれ、というのであれば、さして問題はないだろう。それでも村長は真剣そのものの表情で唸る。
「信用できないのだ」
「まぁ、お気持ちはわかりますが。……私ができることは、知っていることを話すことくらい。これからの話し合いに同席しますが、私から内容に口を挟むことはできません」
エリカは首を振った。当然のように、目の前の村長はエリカに助言を求める姿に、微苦笑を浮かべた。
「私も部外者ですよ、村長」
「……ここまで村に馴染んだ者をもはや部外者とは呼ばん」
しかし村長は片方の眉を少しだけ上げて、そう答えただけだった。
「それは嬉しいお言葉。……ですが村長、あまり外の者を信じすぎてはいけません。私も所詮はそちら側。例えば、此度の商人と繋がっており、何か良からぬ企てに手を貸しているやもしれませんよ」
「エリカさんっ」
村長の奥で控えていた若者が言った。妖しく笑うエリカに苛立っているようにも焦っているようにも見える。
「キョウロ、口を慎みなさい」
「っ……」
低く発した一言で跡継ぎを黙らせると、村長は腕を組んだままエリカから目を離さない。そして挑戦するように口元に弧を浮かべた。
「ふむ。つまり、現時点では信用に足りんか」
「ええ。率直に言って、信用できません。確かに話の『内容』はよくある話です。それこそ、他の農村では既に街の商人と取引をしていることはもう珍しくはありません」
「しかし、その普通のことが、この村では未だ普通ではない」
村長は、愚かではない。エリカはまぁ大丈夫だろうと思った。こういった者が長であれば、判断はそう誤らないはずだ、と。
「そうです。未だに普通じゃないから取引を持ち掛けたと考えるのが妥当でしょう。……あまりにも『普通』過ぎるのです、その者が口にした内容が」
エリカの考えを、村長はすぐに飲み込む。そして目の前に座る、自分たちと似た色彩を持ちながらなどことなく異なる目鼻立ちの美しい女の続きを待った。
「私は商人と呼ばれる、問屋についてとても詳しい、というほどではありません。しかし実際あまり良い印象も無いのです。彼らは富を生み出すのがうまい。だがだからこそ、その為になら何でも……そう、何でもしてしまう気がしてしまう」
エリカは目を伏せ、そして少しの間それを閉じた。息を僅かに吐き出しながら、まぁでも、と再び口を開く。
「注意しておけばそれで良いとは思いますよ。純粋に取引を持ち掛けた可能性も全く無いわけではない……、まずは話すこと。それから村長、現金で取引を行う場合、大抵は契約を結ぶことを証明した紙を用意します。口約束だけではないという証明をお互いに名を持って形で残す、というのが現在の主流です。もし向こう側が本気でこれから手を組みたいと言うのならば、そういったものを用意すべきです。……これも、少しは判断材料になりますかね」
エリカは今度こそ口を閉じた。とりあえず、話せることはこのくらいであろう。村長は笑みを浮かべながらも嘆息した。
「それのどこが部外者なんだか。エリカ、感謝する」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます