信仰と人 - 貳
トンショウが一人でリンドに乗れるようになった頃、今度は手綱の慣れのために、と村の様々な場所を巡るようになっていた。トンショウは鞍に座り、エリカは念のためとゆったりと歩を進めるリンドと並んで歩きながら、手綱を持っていた。
***
エリカのこの村での仕事は、午前中は畑仕事を手伝い、午後はおつかいやら村に届いた荷を配る仕事やら日によって違うことを頼まれた。馬を連れていたからだろう。どうしてだか、この村では馬を持っている家は珍しかったのだ。
エリカは最初の一週間を過ごして不思議に思った。経験上、大抵こういった周りの村や町から孤立気味の小さな村は、ほぼ全ての家で馬や驢馬などを使っている。しかしこの村では、馬や荷車を持っている家はおそらく両手で数える程度。そのいくつかの家がこの村では裕福であり、村での中心的な役割を担っていた。
馬くらいなら、少しばかり大きな町へ現金作物として出荷すれば貯金で買えそうだがーーーと、エリカは思ったものだ。だが余所者として、そのようなことを口にすることもなかった。
***
二人と一頭がのんびりと畑を抜け、村と隣接する山に近づくと、遠目でもよくわかるほどの大樹が見えてきた。
すぐ後ろに見える山の木々と比べても、その大樹はあまりにも立派で、思わず感嘆を漏らしたくなるほど美しい形をしている。軸である幹は言わずもがな、葉が全て落ちた枝たちも体を上に横に、しなやかに伸ばしていた。
エリカも思わず、目を開いた。
「……なんだ、あの樹は」
「あれ、エリカさん聞いてないの?」
リンドに乗ったトンショウの声が、斜め上から聞こえた。リンドは止まった。
「有名なのか?」
「うん。おれたちの村ではあの樹はとても大切にされてるんだよ」
「へぇ……、驚くほど美しい樹だ」
まぁ、確かにあんなに立派なら大切にされるだろう、とエリカはすぐに頷いた。特にとても珍しいことだとは思わなかった。多くの村がそうであるように、信仰の対象に目を惹く自然物が選ばれるのは何ら不思議ではない。
「人間に例えたらさぞかし美形なんだろうな」
冗談っぽく、エリカはそう口にする。口角が悪戯っぽそうに上がっていた。
トンショウはそれを見てわずかに目を瞬かせた後、クスリと笑った。自分たちが敬意を払う大樹にそんな風に言った人は初めてだったのだ。
「それに、とっても大きい人だよエリカさん」
今度はエリカがクスリとさせられる方だった。
「違いない」
「しかも頭も良いはず」
「頭?」
可愛い冗談の後、トンショウは一度止まったリンドに、再び前進する指示を出しながらそう言った。ゆっくりとした速さは相変わらずだ。エリカも一緒に歩を進め始めた。
「うん。あの樹を植えた人が頭が良くて偉い人なんだ」
「賢いだけでは偉くはならないと思うが……」
エリカが真面目な呟きを漏らした。それが聞こえたのか聞こえなかったのか、トンショウは変わらない抑揚で答えた。
「文字を作った人だから偉いんだ」
「文字を?」
普通に歩いた方がむしろ早いくらいの速さだったが、それでもエリカたちは話題の大樹へ徐々に徐々に近づいていく。
「おれたちのご先祖さまで、動物の足跡から何かを区別することを思いついたんだって。その人が文字の元を作ったんだっておれたちずっと聞かされてきたんだ」
「へぇ」
エリカはただそう答えただけだった。そういえば、と合点が行くこともあった。
「トンショウは学校に通っているが、もしかして村の子はみんなそうなのか?」
エリカが村の仕事を手伝っている時間、子供を見ることはほとんどと言っていいほどなかった。午後になって、チラホラ見かける程度だった。
「うん。そうだよ」
トンショウはするりと答えた。
エリカは単純に不思議だった。これまで農村で子供が家の畑を手伝うよりも学校に行くことはあまり見かけたことがなかった。なるほど、と心中で納得する。
文字を発祥したとされる人物の話が残っているから、子供たちにそれを伝えようとしているのだろう。こういった「学校」とは、読み書き等を教える場だろうし、それなら文字を教えることを優先しているのもわかる。
「トンショウたちが羨ましいよ」
「え、どうして?」
エリカは微笑んで斜め上を見上げた。トンショウには、エリカが少しだけ悲しそうに見えた。
「小さい頃から文字を読む練習をしてるから」
「エリカさんは違うの?」
「私だけじゃなくて、多くの村では文字は習わないんだ」
「ふぅん」
おそらくこの村からほとんど出たことのないであろう幼い少年が、相槌を打った。
知らない世界は、まだまだ想像もできないだろう。
そんなことをエリカが思ったとき、大樹は更にかなり大きく見えていた。まだ根元まで距離はあるが、樹の上を見るには首を傾けなければならないほどだ。
「……大きいな」
「うん。おれたちの『文字の樹』だよ」
「……『文字の樹』、か。確かに、それは偉大な先祖だ」
トンショウはリンドに乗ったまま、エリカははリンドに添いながら、ふたりは葉の落ちた大樹を見上げていた
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