信仰と人

信仰と人 - 壹

「エリカさん!」


 秋の終わり。

 エリカは駆け寄ってくる齢十の男の子の声に、リンドの手入れを止めた。


「トンショウ。どうした」


 畑の中に伸びる一本道。畑と畑の間にぽつぽつと植えられている木々の葉はほとんど落ちてしまっていた。

 そんな中を精一杯走ってくる幼い姿に、エリカの声も自然と柔らかくなった。エリカとリンドの前までやって来たトンショウは、肌寒いにも関わらず汗を垂らして言った。


「おれ、馬に乗ったことなくて」


 ふたりの黒髪を風が撫でた。どこか恥ずかしそうに、躊躇いがちに眉尻を下げたトンショウの黒目には、エリカが映っていた。


「リンド、この村では見たことないくらい立派な馬だから、おれ、その、乗ってみたくて。母ちゃんにそう言ったら、学校も畑も終わったら頼んでみていいって」


 必死で乞う姿に、一間、エリカは目を瞬かせた。


「もちろん。リンドも喜ぶ」


 が、すぐに笑みを浮かべてそう答えた。

 秋の終わりの、エリカとトンショウの乗馬練習の始まりの日だった。


 ***


 エリカとリンドの旅は基本的に気まぐれで動く。陸続きの道を進んだり、時にはリンドごと乗せてくれる船で海を渡ったり。とにかく気まぐれなのだ。目的はなく、期限もなく、エリカの気分で北へ南へ。


 そんな一人と一匹が今回訪れた村は、どの国にもあるような小さな農村だった。どの家も古い木造で、藁と漆喰でできた屋根でどうにか雨風をしのいでいた。豊かとは言えないだろうが、みな家の裏に隣接した畑でいきいきとしていた。エリカが幾度と通過し、留まってきた村と違ったのは、本当に些細なことだった。ここの村人たちは不思議と人生への余裕を感じさせた。たったそれだけのこと。それに、惹かれただけだ。エリカの旅は、やはりどこまでも気まぐれだった。


 ***


 冬が近づいた晴れた日の午後。畑の脇で、馬と共に立つふたつの影。トンショウは、エリカを泊めている家の子だった。


「私が手を貸すから、一気に跨るんだ。リンドは動かないから、安心していい」

「う、うん」

「よし。いち、にの、さんっ」

「うわあっ」


 薄い布の靴の裏に一気に来た力と、それと共に上がる自分の身体。体勢を保ちきれなかったトンショウは、足を掛けかけた鞍に思わず身体いっぱい掴まった。


「トンショウ、右足を反対側へ伸ばせ」

「離したら落ちちゃうっ」


 エリカは頑なに目を閉じるトンショウの横腹に手を伸ばした。あぶみに左足は掛かっている。あとは跨がればいいだけだった。


「支えてるから。足に力を入れて、勢いをつけないと」

「……ほんとに?おれ、落ちない……?」


 トンショウの目は瞑ったまま。震えた小さな声だけがエリカの耳に届いた。


「落ちないよ。目を開けて、ちゃんと鞍を見るんだ。私を信じて」

「うん……」


 不安そうな小さな目が、エリカと合う。エリカは微笑んだ。


「もう一回だ。大丈夫、できるさ。ーーーいち、にの、」

「さんっ」


 ふたつの声が重なった。再び目を瞑ってしまったトンショウに、エリカは笑っていった。今度は、安心させるような笑みではなかった。初めて馬に乗ったときの自分を思い出していた。


「トンショウ、目を開けてごらん」

「……」

「騙されたと思って」

「……?」


 そっと、トンショウの黒目は開き、


「……わぁ」


 驚きの表情と共に、歓喜の呟きが漏れた。


 *


「エリカさん、リンドに乗ると遠くまで見えるようになるんだね!」


 リンドの手綱を引きながら、トンショウと共に帰路につく。誰かと帰り道を共にするのは久しぶりで、エリカはどこかくすぐったかった。

 トンショウは、兄弟の中では大人しいというのが印象だったがーーーエリカは少しだけ笑った。しばらくは、この興奮が冷めなさそうだ。


「おれ、また乗ってもいい?」

「練習することはたくさんあるぞ」

「うん!」


 二人と一匹の影は、沈みかけた夕日に照らされて伸びていた。







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