第12話
しばらく電車に揺られていると、ポケットのスマートフォンに非通知の着信があった。
「あ、もしもし、お忙しいところすみません」
電話口の男は腰の低い口調で言った。斜め向かいに座る、ビニール袋をひざに乗せた老人が眉間にしわを寄せて俺を見る。
「あの、恐れ入りますが、イスルギさんの携帯でよろしかったでしょうか?」
ときどきかかってくるwi-fiか何かの営業電話かと思い、俺は、そうですけど、と気のない返事をした。電車の中で話をするのは気が引けたし、何よりひどく疲れていた。今日は会社には戻らず、家に帰ろう。
そうか、あんたイスルギか、電話口の男の口調が変わった。
「あんた、いろいろ嗅ぎ回ってるみたいだけどさ、やめときな、シロウトが怖いもの見たさで首つっこむとロクなことにならないよ、わかったか?」
野太く、そして信じられないほど横柄な物言いで男はそういうことを言った。独特の間のとり方で、言葉と言葉のあいだに必ずひと呼吸置いて話した。その短い沈黙のたびに、こちらの緊張が増していく。
こういうことを、つまり顔も知らない赤の他人を脅して意に従わせることを、長く日常的に行なっている人間なのだと思った。
鼓動が速まる。不快だった。自分の把握しないところで不穏な連中が動き始めていると想像したら、誰だって不安と苛立ちを覚える。
だがそんな心境とはまったく無関係に、俺の口からは、俺自身も思いがけない言葉が出た。
わかりませんよ、何のことですか、あなた、ちょっと失礼じゃないですか。
語気が強まったのだろう、向かいの老人が目を大きくして俺を見つめ、それから顔をそらした。ビニール袋に目を落とし、ガサガサと無造作にいじり始める。
あの袋の中には何が入っているんだろうな、と思いながら、もう切りますよ、俺は電話口の相手に毅然とした口調でそう伝えた。
男はしばらくのあいだ何も喋らなかった。思いもよらない反応を受けて唖然としている、という感じはしなかった。そんなに甘い相手ではない気がした。
男は、ふーん、と低い声で言い、それから、わかったよイスルギさん、とわざとらしく俺の名前をくり返した。
「わかりましたよイスルギさん、あんたの態度はようくわかった、感心はしないがね、尊重はしますよ、大人同士だからね、
じゃあ、今日のところはこれで終わりにしよう、でもね、いいかいイスルギさん、
俺は警告したからな、もう一回言っとくぞ、俺は警告してやったからな、何があっても、俺を恨んだりするなよ、いいな」
そう言って男は電話を切った。電車はちょうど所沢を出発したところだった。
スマートフォンをポケットにしまい、腕を組んで、俺は目を閉じた。これから大変なことが起こる気がした。つい二日前まで、いや、昨日の夜までまったく接点のなかった暗黒の世界と、俺は繋がってしまった。発端は、もちろんメイコだ。
閉じたまぶたの裏に、メイコの顔が浮かぶ。
じっとこちらを見つめるメイコの像は、無表情で、そして恐ろしく魅力的だった。
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