第10話

「あの女にボクが出会ったのは三年くらい前のことだ、新宿の裏通りにある元殺人犯のママが経営するカビ臭くて恐ろしくトイレの汚いバーだった気もするし、錦糸町の、墨東病院のすぐそばにあるサーカスくずれのロシア娘が多勢いるラウンジだったようにも、あるいは吉祥寺の、頭はカラッぽだけど胸だけは東大どころかワールドクラスですみたいな大学生がバイトしてる制服パブじゃなかったかなと思うんだけどね」


 他にも心あたりがあるのか、男は天井を見上げ指をひとつずつ折りながら俺の知らない店の名前を挙げていった。


「とにかくね、これは奇妙なんだけど記憶が曖昧なんだ、あの女と出会った場所、時期、そのとき雨が降っていたか雪がちらついていたかうだるような暑さだったか、どんなきっかけで互いに話し始めたのか、どんな格好をしていたか何について話をしたか、普通はどんなに酔っ払ってても多少は覚えているはずなんだけどね」


 なんとなくわかる、と俺は声に出さずうなずいた。


 そうだ、メイコには不可解な何かがある。相手の感覚や感情や記憶を自在に歪めてしまうような、不穏で圧倒的な力。


 男の話を聞くうち、俺は自分の記憶までおぼろげになっている気がした。昨夜御茶ノ水のバーで出会ったのは間違いなかったが、その、間違いないという確信が、やんわりと揺らぎ始めているように思えた。


「それでね、とにかくボクはあの女と言葉を交わした、酒は飲んでいたはずだ、こんな田舎に引っ込むボクが一体なんの用で東京かどこかの繁華街に出ていったのかはもう覚えてない、

 仕事の案件なんかもちろんないし古い友人がいるわけでもない、なんだかいま君に話していて思うんだが、東京の繁華街というのも怪しいような気がするよ、

 もしかしたらこの町の、金物屋とお茶屋と写真屋と寂れたスナックがあるだけの、中央通りの商店街で出会ったのかもしれない、

 そんなことはもうどうでもいいんだけどね」


 どうでもいいと言いながら、男は正しい記憶が気になるのかぶつぶつと独り言をつぶやき始めた。いや待てよ、あのスナックには父さんがまだ生きてた頃に連れていかれてからボクは一度も行ってないはずだぞ、そうだよボクはそもそも酒なんてほとんど飲みはしないんだから、でもじゃあ何で東京なんかに出ていったんだろう、あれボクは本当にどこであの女に会ったんだっけな……


 男はそういうことを俺ではなくまるで天井ちかくに浮かぶ浮遊霊か何かに言って聞かせるようにカウンターの真上を見上げながらつぶやき続ける。俺は話を戻そうと男の視界の隅で不自然でない程度に頭を揺らす。


 男は俺を見ずにうわごとを続けている。

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