第8話

「取り乱したりして悪かった、驚いたと思うけどあまり気にしないでくれ、ボクはときどきああなってしまうんだ、自分でもどうしようもないものでね」


 陶器の破片を拾い床に広がったコーヒーを拭きとりながら、男はそういうことを言った。


 そしてカウンターから出てきて、横、いいかな、と申し訳なさそうに俺の隣の席に腰を下ろした。


 いいかなって、自分の店じゃないですか。


「そうだね」


 頭をぽりぽり掻きながら男が座る。くしゃくしゃのシャツの胸ポケットからタバコを取りだして火をつけた。俺にも勧めてくれたが、吸わないのでと断った。


 君は、と男は白い煙を口から吐きだした。


「君はあの女から、ボクに何をしてこいって言われたの?」


 何かって、いや、その、


 俺は言葉に詰まった。はい、実はあなたから人間を食べる変態の集まりについて詳しくお聞きしたいと思って、などとまともな神経では言えそうになかった。


 男も俺も、黙った。


 しばらくして、俺は浮かんだ疑問を素直に口にした。


 あなたは、彼女とどういう関係なんですか?


 質問に答えず逆にそう問いかける俺を、男は少しだけ目を大きくしてじっと見た。


「どういう関係も何もないよ、君と同じじゃないかな、いきなりだ、いきなりあの女に土足で人生に踏み込んでこられた、そして多少の不満はあったけど何を変える必要もない穏やかな日々を破壊され、それから飽きて捨てられたんだ」


 メイコの話になると、男の目から光がすっと消えていく感じがした。


「この店は、いやこの家はね、ボクの生まれた場所だ、ボクは体が弱くてこの街の学校にいくのにも苦労したほどで、だから高校も大学も行かずにずっとここで過ごした、

 当時は不登校も引きこもりも一般的じゃなかったからね、そんな言葉さえなかったかもしれない、だから落ちこぼれだ負け犬だと周囲からよく罵られたものだよ、

 両親はそんなボクを叱ったりしなかった、守ってくれたんだ、立派だろ、父も母も、一人息子のボクを心から愛してくれていた、

 でも気苦労が祟ったのか、二人とも若くして病に苦しんで亡くなってしまったけどね、そういう運命だったんだろうなぁ、

 君は運命って、信じるかい?」


 え、あ、ぼくは、


「まぁいい、ボクは哲学的な話題に関して自分の意見を押しつけるつもりはないよ、そういう領域に関する意見はそれぞれ自分の中にあって、他者に冒されるべきではないからね、

 それでボクはね、両親が亡くなって以来、この家に一人で住んでいた、ずっとだ、もう三十年以上前からだよ、インターネットもスマートフォンもない時代から、長い間ここで一人で暮らしてきたんだ、

 寂しいという感情はさほど大きくはなかった、本があったからね、ボクは根っから本が好きなんだ、母の影響だよ、

 母は若いころ中学の教師をやっていて、それでよく本を読んだ、ジョージ・オーウェルとか、カート・ヴォネガットとかね、ボクも母の本棚から拝借してよく楽しんだものだよ、

 豚が人間を追い出して農園を支配するあの物語はとくに大好きなんだ、君はどう? あの話、好きかい?」


 彼が言っているのがオーウェルのどの作品かは見当がついた。だが俺はその話を読んだことがない。俺は量産型のライトノベルと、ときどき数合わせに出す二番煎じのビジネス書の編集者なのだ。

 歴史の名作と呼ばれるような文学作品には興味がない。


 ええまぁ、そうですね、と俺は目を合わせずに答えた。こういうときに話の腰を折るのは得策じゃない。


 男はタバコの火を銀皿でもみ消して、次の一本を口にくわえた。カウンターの向こうに煙の球を届けるように口をすぼめて、そっと吐く。奇妙に敬虔な雰囲気をたたえたしぐさだった。


 メイコは今、何をしているだろうか。本当は俺を尾けていて、すぐ後ろ、あの建てつけの悪い引き戸のすき間から、無表情で俺を見つめている気がした。俺は入り口を振り返った。


 メイコの視線はなかった。すき間から、向かいの戸建ての寂れた木塀が覗いている。

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