第6話

 その男は駅から徒歩二十分の、古びた住宅の並ぶ静かな通りに住んでいた。


 彼はね喫茶店のオーナーなのよ、ずっと自分のお店を持ちたいって夢があってついこの前それが叶ったの、素晴らしいわよね、


 男の住所を伝えるとき、メイコはそういうことを俺に教えた。


 だが男の店だという喫茶店は、年季の入った戸建てが並ぶその一画でも度を超えて古ぼけた建物だった。店、というが看板もなくそれらしい外観もしていないために、俺は何度もその前を行き来しなければならなかった。


 住所はそこに間違いなかった。店の入り口は端のささくれた木製の引き戸になっていて、俺はおそるおそるその木戸に手をかけ横に引こうとした。


 だが建てつけが極端に悪いのか、戸はほんの少しだけ開いたあとビクともしない。


 すき間につま先をねじ込み、体重を乗せて思いきり横へずらそうとすると、勢い余って戸が正面に向かって倒れ、俺は慌ててそれを抱え込み、そのまま店内に入ってしまった。


 中は恐ろしくみすぼらしく、音楽はもちろんあらゆる物音が排除されたような雰囲気で、陰鬱な空気に満ちていた。それでも確かに、喫茶店らしい内装をわずかにとどめているようだった。


 四人がけのテーブルがふたつ壁に沿って並び、向かいに狭いカウンターがある。奥に、理科の実験で使うフラスコのようなガラスの器具がいくつか見えた。長いこと使ってないのだろう、ガラスはどれもくすんでいるらしかった。


 あの、こんにちは、


 誰もいない店内に向かって声をかけると、階段をゆっくりとおりるくぐもった足音がして、店の隅のドアが開き、男が顔を出した。


 五十か、もしかしたら六十代かもしれない。寝起きなのか少ない髪はあちこちに跳ね、背は低く、肩幅が異様に狭くて、癖なのだろう、鼻をかくふりをしながらくり返し指のにおいを嗅いでいる。


 何しに来た?


 そうとでも言いたげな、露骨に迷惑そうな表情で男は俺を見ている。来訪の理由を必死で探しているようだ。


 俺は困った。メイコの使いだと言おうとしたのだが、メイコの苗字を聞いていないことに気づいた。


 日本がとんでもなく貧乏だった時代にタイムスリップしたかのようなこの店内で、同じ空間にいるだけで自分まで惨めになる気がしてくる初老の初対面の男に向かって、メイコ、などと口にするのはどこかシュールな感じがした。


 どう言えばいいかと俺がまごついていると、怯えと嫌悪を隠さない目つきで俺をにらみながら、男が口を開いた。


 あの女、


 男はやっと聞きとれるほどの声でそうつぶやいた。


 そして、わかってると思うけどさ、と、俺にもわかるほどはっきりと喉を鳴らしつばを飲み込んでから、続けた。


「あんたもわかってると思うけどね、あの女、あいつはさ」


 そこで一度言葉を切ってから、男は、骨ばった拳を皮膚が白くなるほど硬く握りしめ、肩と腕と頬をぶるぶる震わせて、口の端に泡をためながら、草笛のようにかん高い声で、言った。


「あいつはバケモノだ、魔物だよ、関わるすべての人間の人生を狂わす、悪魔の遣いなんだ」


 店の前を一台の車が通り過ぎていく。エンジン音が遠ざかり、重苦しい静けさが戻った店内に、男の荒い息づかいだけがせわしなく響いている。

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