第2話
女性はじっと俺を見ている。
人間を食べたことはあるか? と聞かれ、ありませんよ、と俺は苦笑いしながら当たり前の返答をした。
彼女は笑っていなかった。
無表情ともちがう、かすかに虚ろな雰囲気を漂わせながら、あらそうなの、と呟いた。俺の回答が予想外だったかのような反応だった。
あの、と俺は、ひっきりなしに迫り上がるつばを飲み下しながら、聞いた。
あの、あなたは、あるんですか?
「何が?」
だから、その、人間を、ですよ。
言い方に困った。恐怖からだけではない。手洗いを終えたバーテンダーは元のカウンターに戻ってグラスを磨いている。狭くうす暗い店内に客は俺たちだけだ。
どんなに声を抑えても会話は聞こえる。人間を食べる、などという話を聞かれるのは、たとえ二度と来ない店であっても気が引ける。
女性は、長髪をオールバックでべったり撫でつけたそのバーテンダーの存在をまったく気にする様子もなく、人間を食べるなんて、そんなことあるわけないでしょ、はっきりとそう言った。
バーテンダーは一度だけ顔をあげて女性を見て、それから俺に視線を移し、また手元のグラスに戻した。
そうですよね、うん、そりゃそうだ、俺は胸につかえていた緊張がほぐれていくのがわかった。自然と笑みがこぼれ、手にしていたビールを口元へ運び、口の端についた泡を袖口でぬぐって、そうですよね、と念を押すようにもう一度女性に笑顔を向けた。
女性は、やはり笑っていなかった。
こいつは、と俺は思った。こいつ、本当はあるんじゃないのか。本当は、人間を食ったことが、あるんじゃないのか。
俺の考えていることを見透かすように、女性は首から上だけを少し前のめりに近づけた。そして俺から目を離さずに、笑った。
笑顔には、こういう類の笑顔もあるんだな、俺はどういうわけかそんなバカげた考えが頭をよぎった。
たった今ほぐれたはずの緊張が、一瞬のうちに全身のあらゆる箇所で凝固して、俺を包むような気がした。
女性はその、目をそむけたくなるような笑みを顔に貼りつけたまま、ねえ、知ってる? と別の質問を投げかけた。
何がですか。
「コミュニティよ、そういう人たちが集まる、コミュニティがあるんだって」
そういう人、と女性は曖昧な言い方をした。
だがもちろん俺には、それがどういう連中を指すのか、はっきりと理解できた。
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