マンイーター・フリークス

神谷ボコ

第1話

「ねえ、あなた人間を食べたことある?」


 その女は透明で底の厚いグラスに入った何か強い酒を異様な優雅さで口に運びながら、低く滑らかな声でそういうことを言った。


 シリアスで秘密めいた雰囲気ではなかった。ほらあのさ、恵比寿に新しくオープンしたっていう有名なイタリアンシェフのあのお店あなたは行ったことあるかしら、とでも聞くような、恐ろしく自然な聞き方だった。


 酒に酔った上司に誘われて入った、御茶ノ水のはずれの薄汚ないバー。


 それが俺とメイコの出会いだった。


 そのバーには、上司である坪井に連れられてやってきた。おいここ、時代おくれな感じがすごいな、けどいいかイスルギ、こういう店には絶対昔の文豪が飲み明かしたとかいう逸話がひとつふたつあるもんだよ、俺はさ中上健次だと思うな……もつれる舌でそう言って、地下への急な階段を先に降りていった。


 坪井は三十代後半の編集長で、俺の六つ上だが、どこからどう見ても三十代には見えない。


 四十、いや、角度によっては五十代にも思える老けたルックスで、チョビひげをきれいに剃ればまだ若く見えるのだがあのひげはポリシーだそうで絶対に剃ろうとしなかった。猫背で、胃腸が悪いのか吐く息は常に臭く、足は驚くほど短かったが、俺は坪井が嫌いじゃなかった。


「あのひと、大丈夫?」


 強引に俺を連れてカウンターに座った直後、来期の目玉企画と期待されていたある野球監督の定期インタビューについて球団広報が文句を言ってきた、と社長から呼びだされ、坪井は出されたばかりのウィスキーをくり返し舌打ちしながらちろちろと舐めるように飲み、半分ほど残したまま、じゃあ悪いけど明日な、と店を出ていった。


 悪態をつく坪井とそれをなだめる俺をカウンターの端から眺めていた女性が、坪井の残したグラスと俺を交互に見ながら、微笑みを浮かべ聞いてきた。


 ああ、大丈夫、仕事の用で会社に戻るみたいですよ、俺は照れ笑いとともに答えた。


 その女性が、黒髪と色白の肌をした、洗練されたルックスの持ち主だったからだ。俺の勤めるような出版社には、こういう女性はひとりもいない。


 そうなんだ、あなた一人になっちゃうわね……そう言って彼女はグラスの側面を複数の指でなぞった。ひどくいやらしい手つきのはずだが、不思議とそうは見えない。


 女性はしばらく黙った。俺も黙り、カウンターの向こうの中年のバーテンダーはさっきから目を伏せひと言も発しない。だが居心地は悪くなかった。こういう沈黙もあるんだな、と俺はウィスキーではなくビールを飲みながら思った。


 トイレだろうか、バーテンダーが何も言わずにカウンターを出て店の隅へ消えた。


 ここにはよく来られるんですか? 酒が少し回ってきたのか、ふいに誰かと言葉を交わしたくなって、俺はふたつ席を隔てて座る彼女にそう声をかけた。


 女性が俺を見る。甘い印象を相手に与える垂れがちの目で、こちらが困惑するほどまっすぐに見つめてきた。俺はまた照れ笑いを浮かべようとした。だができなかった。自分の顔が硬くこわばるのがわかった。


 ぞっとしたからだ。


 女性はずっと俺を見ている。赤ん坊ならわかる。赤ん坊は純度百パーセントの好奇心から対象をじっと眺める。見つめられる側は気恥ずかしさはあっても、不快や不安な感じはしない。


 大人はちがう。大人が相手を凝視するのは、強い好意か、あるいは激しい憎悪があるときだけだ。


 俺を見つめる女性の目には、怒りも、好意の色もない。


 頭の中に、唐突にあるイメージが浮かんできた。


 底のない空洞のイメージだ。俺はまた背筋に寒気を覚えた。


 その、奈落のような眼差しを向けたまま、女性は俺の質問には答えずに、食べたことはある? と言った。


 え、何ですか? うまく聞きとれず、俺は少しだけ顔を近づけた。


 女性は薄く笑みを浮かべ、やはり俺から視線をはずさずに、人間、と答えた。


「人間よ、あなた、人間を食べたこと、ある?」


 バーテンダーが手を洗う音がかすかに聞こえる。そういえばこの店はBGMがかかっていないんだな、と俺は現状とまったく無関係のことを思い浮かべていた。

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