最初の夏

水城しほ

最初の夏

 学生時代に使っていた机の引き出しから、一枚の写真が出てきた。

 使い捨てカメラで撮った記憶がある、桜の下で笑っている写真。

 世界の全てが面白いと言わんばかりの、バカな顔をしている。

 ……まだ子供だった私と、大好きで堪らなかった人が、肩を寄せ合い笑っていた。


 トモヒロ先輩と知り合ったのは、中学校に入学して、二週間が経った頃だった。

 私が昇降口の掃除をしていると、すぐそばの校庭で、三年生の男子が野球のような事をして遊んでいた。

 小柄な先輩がホウキをフルスイングして、小さな何かが大きな弧を描いて飛んでくるのが見えた。近くに落ちたような気はするけど、その着弾点までは確認できなかった。

 バッターだった先輩が駆け寄ってきて、そして私に話しかけてきた。

「ごめん、こっちに毛虫飛んでこなかった?」

「……毛虫で野球してたんですか?」

「デカいのがいたから。まあ女子にはわかんないよなぁ」

 私と身長がさほど変わらない先輩は、私の頭をぽんぽんと撫で、ごめんなと言いながら駆けて行った。

 私の中で、その先輩は「毛虫先輩」というあだ名になった。

 三年生に兄を持つ親友のスーちゃんが言うには、毛虫先輩の名字はヤマモト。成績が良くて顔が可愛いから、三年生の中ではマスコット的な人気があるのだ、と言った。


 それからというもの、全学年が集まる行事のたびに、毛虫先輩は私に絡んでくるようになった。おそらく名前も覚えてなんかなくて、だいたい「アンタ」と呼ばれていた。

 遠足の時なんて、私はクラスの友達と行動していたのに、毛虫先輩はたった一人で突撃してきた。

 あまりにも親しげに話しかけてくるものだから、三年生の女の先輩が「トモヒロ彼女できたんー?」とか「一年で遊ぶのやめなよー」なんて言って、私たちをからかいに来る始末だった。

 私はその時、毛虫先輩がトモヒロという名前である事を知った。


 トモヒロ先輩に話しかけてくる女の先輩たちは、みんな綺麗だった。

 私みたいに野暮ったい三つ編みなんかしていないし、お化粧でもしているのかというくらい大人びていて、大体は制服の襟のラインが一本足りなかったり、スカート丈が足首まであったり、髪の色が茶色だったりした。

 きっと毎月買ってる雑誌はティーンズロードで、好きな漫画家は高口里純と紡木たく、好きな歌手は工藤静香、みたいな。おそらく飲酒や喫煙も日常で、街に出る時の服はミキハウスだ。

 ……あんな風になれば、トモヒロ先輩は私の名前を覚えてくれるだろうか。そう思った。


 私は家が厳しく、お金のかかる事は真似が出来そうになかった。しかし学校という場所には、校則では認められているけれど、一年生は生意気だと言われて校舎裏に呼び出されてしまうような、暗黙の規則というものがある。

 私は髪をポニーテールにして、ヘアゴムを余分に巻いてリボン代わりに結び、開襟の綿ブラウスを着て、こっそりと色付きリップを付けた。大人に見える正体はこれだろう、という気持ちだった。

 スーちゃんは私と距離を置くようになったけれど、同じような格好を好む友達は増えた。そして私は二年生の不良グループから目を付けられて、頻繁に呼び出されるようになった。


 夏休みの登校日も、私は二年生に呼び出された。

 トイレで無駄に殴られ蹴られ、土下座を強要されたけれど、徹底的に抵抗したら、最終的には便器の水をぶっ掛けられた。

 ヤンキーがわざわざ登校日にまで真面目にガッコー出てきて後輩シメに来るなんて、はっきり言ってダサい。そんなダサい先輩たちに便器の水なんてかけられてる自分が、この世で一番ダサい。だけど土下座はしなかったんだ、私は負けてなんかいない。

 手洗い場の水で頭や顔を洗ってから自分の教室に戻ると、私以外の生徒は既に誰も居なくなっていたので、そのまま教室でジャージに着替えた。体育のない日にもジャージをカバンに入れておくのは、既に習慣になっていた。

 汚水まみれの制服はジャージを入れていた袋に詰め、手早く帰り支度を済ませてから、教室の扉に施錠した。その鍵を職員室へ返却しに行ったところで、トモヒロ先輩にばったり会った。

「……アンタさぁ、前の格好に戻した方が、いいんじゃないの」

 何があったのか察したらしい先輩が、私の濡れた頭を撫でた。水洗いしたとはいえ汚物を被った頭だ、そう思って、私は先輩の手を払いのけてしまった。

「あっ……す、すいません。頭、汚れてるので」

「そのままってわけじゃないんだろ、気にしない」

 汚物を被った私にも、普通に接する先輩は優しい。だけど私は何となく、その顔がマトモに見られなかった。

 私は逃げるように職員室から出た。さようならと挨拶はしたはずなのに、何故か先輩は私の後を追ってきた。

「待て、アンタ家どのへん?」

「……五丁目です、リックマートのあたり」

「遠い、俺んち来なさい。親いないから風呂貸してやる」

 悪いからいいです、という私の声は聞き入れられず、私は先輩の家へ行く事になった。


 先輩は私にシャワーを使わせた後、当然のように「制服もジャージも下着も洗濯機に放り込んだ、夕方には乾くよ」と言って、ワイシャツを一枚着せただけの私を、自分の部屋に連れて行った。

 真夏の暑い日に、先輩の巣で二人きりになった結果、私たちはセックスをする事になった。きっと先輩は、私を好きなわけではない。だけど、ただヤリたいだけとも違うように思えた。

「俺が大人にしてあげる。だから、大人のフリをしようとするのは、もうやめなさい」

 トモヒロ先輩はそう言って、私の中に入ってきた。ぎちぎちと、やや強引に捻じ込まれて、指すら挿れた事のない場所が広がっていく。痛いとか気持ちいいとかよりも、ただ「人の身体ってすごいなあ」と思っていた。

 先輩が腰を動かすたびに、工事現場で杭を打ち込んでいる機械を思い出した。一番奥まで容赦なく抉ろうとする動きに、ずどんずどん、と効果音を付けてあげたかった。

 クーラーのきいた室内で、汗だくになって動く先輩を見ているのは、とても満足できた。「目の前の身体を使って気持ち良くなりたい」という衝動がよく見えて、それは私の心を満たした。

 しばらくすると、トモヒロ先輩は切なげに呻きながら震えて、私の中にそのまま射精した。規則的にびくびくと跳ねる感触は、死に際に痙攣する何かのいきものみたいだった。好ましかった。しかし先輩が出て行った穴から精液が出てくる感触は、大変に気持ち悪かった。

 まだ初潮を迎えていない自分は、はたして妊娠するのだろうか。疑問の方が先に立って、不安は全く湧かなかった。


 ――自分がこの行為を好きなのか嫌いなのか、結局はよくわからなかった。こういう行為を繰り返す事が、大人になるって事なのだろうか。これを難なくこなせる人が、先輩は好きなのだろうか。

「先輩は、セックスが好きですか」

 言葉選びを完全に間違った質問をぶつけると、煙草を吸っていた先輩は、目を閉じて呆れたように笑った。

「そうだね、好きだね。気持ちいいし、言葉を交わすよりわかる事があるから」

 アンタの事も少しだけわかったよ、と先輩は頭を撫でてきた。それが何かを聞いてみると、ますます頭を撫でられた。

「俺の事が、好き」

「はい」

「でも俺とのセックスは、嫌だった」

「……嫌、というわけではないんですけど」

「気持ち悪かった」

「そうですね」

 最初はそんなものかもなぁ、と先輩は笑った。

「もう、俺とはしたくない?」

「そんな事は……ないです」

 どのみち繰り返されるのなら、相手は先輩がいい。この人に大人にして貰えるのなら、私はきっと大丈夫だ。これからの人生を生き抜いていける、なんて、何の根拠もなく思った。

「受験あるし、彼氏にはなれないけど、それでもいいなら時々会おうか」

 先輩は私を抱き寄せた。身体だけだと言われているのか、受験までブレーキをかけているのか。 

「受験が終わったら、どうなるんですか」

「わかんないな。俺が中学を卒業しても、ミーコちゃんが一緒にいたいと思えるかどうか。それ次第だよ」

 初めて、あだ名で呼ばれた。私は友達からミーコと呼ばれていた。

 ずっと一緒にいたいです、と言いたかった。だけど私は、軽々しくそんな約束をしてはいけないと思い込んでいた。だから「そうですね」とだけ返事をした。

「ん……とりあえず、今もう一回、させて」

 先輩はもう一度、私を抱いた。その営みはさっきより丁寧で、私の為のものという感じがして、次第に私は「気持ちいい」と思うようになった。

 中に出されても、もう「気持ち悪い」とは思わなかった。


 私はトモヒロ先輩と、三つの約束をした。

 もう制服は着崩さない事、良い成績を維持する事、先生たちと仲良くする事。

 自分は県立のトップ校を受けるから、もし受かったら追いかけてきなさい、と先輩は言った。

 追いかけたところで一年しか一緒に通えないけれど、それでも、嬉しかった。


 その後も、先輩の家には何度も遊びに行って、その度にセックスをした。

 決してセックスをする為に会っているわけではなく、あくまでも会うのは、先輩と会いたいからだった。

 並んで座ってジャンプコミックスを読んだり、ファミコンで遊んだりもした。宿題を教えてもらう事もあった。ラジカセからは、いつもバービーボーイズの曲が流れていた。

 何かをする事に飽きると、色々な話をした。お互いの家庭環境も打ち明け合ったけれど、それは明るい話題とは言えなかった。

 それまで誰にも言えなかった鬱憤を共有する事で、私たちはますます仲良くなっていった。

 

 トモヒロ先輩とのそんな関係が続いたのは、春までの事だった。


 卒業式の二日後、公立高校の合格発表があった日の夜、先輩は私の家に電話をかけてくれた。

 母親に取り次がれ、気まずい心持ちで電話に出ると、先輩が抑揚の無い声で「県立落ちたよ」と告げた。

 私は絶対に受かると思っていたし、担任の先生も太鼓判を押していたと聞いていた。本人も、合格して当然だと思っていたのに違いなかった。

 慰めか励ましか、何か上手い言葉はないかと探していると、先輩が「もう会うのはやめようか」と言った。

 その結論に至った理由を、本当は問い質したかった。だけど私は、強い女でいたかった。子供のようなワガママで、引き止めたりはしたくなかった。

 だから「そうですね」とだけ返事をした。先輩とはそれっきりだ。

 私立の男子校に進学した先輩を、追いかける事は出来なかった。


 卒業式の日に貰った第二ボタンは、二人で撮った写真と一緒に、引き出しの一番奥でひっそりと眠っていた。

 先輩の引き出しの中にも、見た目だけは真面目な二人が残っていればいいのにな、と思った。


 ――平成最後の夏に思い出す、平成最初の夏のお話。

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最初の夏 水城しほ @mizukishiho

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