魂の重さはどれほどか

「あああああああああああぁぁぁぁぁ」




 駄目だ、そっちに行ったら駄目だ。


 ああ、また奴隷が噛まれ食われる。




 エノスはどうにもならないままそれを目にするたびに自分の無力さを感じる。




 ちょっとくらい他の人より剣が使えた。


 それもその事を自覚してから一週間かそこらだ。




 調子に乗っていた。




 エノスの現状はその一言で全て表す事が出来るだろう。




 過去に戻れるならば。


 あの護衛三人組と諍いなどは起こさなかった。


 いやそもそもあの時、無理にでもモデクレスさんを説得して……




「モデクレスさんっ!」




 エノスは叫ぶのと同時に手を伸ばし、なんとかモデクレスの襟首を掴んで引き倒す事に成功した。


 その瞬間、モデクレスの頭があったところを血塗られた腕が通り過ぎた。




 何とか致命の攻撃を回避したことでエノスは少し冷静になっていた。




 このマウェッタと言われる魔物は所謂クマに似た動物らしい。


 見た目は二足歩行するクマといって差し支えないのだが、動きの方はどうだ。


 仲間と仲間で連携をとりあって死角をなくしてしまっている。




 馬車を狙って包囲して来ている事から車輪に付けたベルの音が逆効果になったんだろうと思われた。




 奴らの気配を近くに感じた瞬間、馬車から飛び降りて即座に"奴ら"と交戦し始めたエノスだったが逃げ道を作る事すら出来ず、完全に包囲されてしまった。


 足が止まってしまった馬車の周囲からゆっくり現れる影を見てエヴェドが「マウェッタだ!!」と叫んだ声が耳から離れない。




 この一週間で少しはエヴェドに歩み寄れた気がしていたエノスだったが、あれだけ寡黙だった彼があんな大声を出すというのが信じられなかった。




 まぁ起こっていた状況はもっと信じられなかったのだが。




 このマウェッタというのは魔獣に相当するもののようだ。


 この旅で色々な事をモデクレスから学んだ。


 魔獣というのは一般的な動物と比べて知識が高いらしい。


 そして獰猛で……でも結局の所、一番違うのは人間を食うこと。


 さらに言えば大好物で、見つければすぐに遮二無二襲いかかってくる、と聞かされていた。




「違うのかよぉぉぉぉ!!」




 そんな叫び声をあげながら魔獣の胸を刺し貫くエノス。


 無情が声になって口から出てしまうのも仕方ないというものだ。


 その言葉の通り、遮二無二襲いかかって来てくれたらまだやりようはあった。




 エノス一人が飛び出して囮をしながら向かってきた敵を倒しつつ馬車を逃がすのだ。


 むしろ一人なら倒し切ることも出来たかもしれない。




 しかし目の前の魔獣達はどうだ?


 徒党を組んで包囲し、エノスが強敵だと知るやいなや距離を取ってエノスから一番遠い奴隷に狙いを定めるのだ。




 最初に食われたのはいつも野営を始めると一番に竈を作り上げる彼だ。


 その次に食われたのはみんなで順番に見張りをしているというのにこっそり舟を漕いでいた彼だ。


 それから裁縫が得意な彼女、指を切ってしまい料理は苦手なんだと舌を出しながらも上達しようと頑張っていた彼女。




 みんな、みんな、食われていく。




 名前も知らない、そもそも名前のない奴隷たちだったがエノスが一緒に過ごした時間は間違いなく彼等と触れ合って共に息をしていた時間だ。


 奴隷だからといって無駄に命を散らしていいわけがない……




「だろおぉぉぉぉ!!」




 エノスは気合を込め横に並んで攻めてきたマウェッタを同時に斬り裂いた。




 自分の周りの敵が減るのと同時に圧力が減ったエノスは自分の身体を確かめるが、傷という傷を負ってはいない。


 それが逆に情けなくて辛かった。


 つまりは決定的に間に合っていないのだ。


 助けるという所にまで手が届いていないのだ。




 エノスを絶望が支配しようとするが、今はなんとしても自分の足で立たなくてはいけない。


 ある意味でを込めた声で呼びかける。




「モデクレスさん、このままでは全滅します!」




「……っくぅ……。はぁはぁ……うぅぅぅ……」




 モデクレスとてそんな事は分かっていた。


 この窮地で少しでも可能性があるのなら……誰かを犠牲にしなければならないことも。


 それは誰だ?




「あぁぁぁぁぁぁぁ。私だ! 私を喰らえ、バケモノめ!」




「なっ! モデクレスさん!!」




 モデクレスの叫び声で火が着いたのかモデクレスへ向けての敵意が増した。


 その近くで守りながら戦うエノスは増えた圧力をどうにか腕力でもって均衡を保っていた。




 そんな一瞬の均衡を突いたかのように死角から現れたマウェッタがその腕、という死を振るう。


 エノスが剣を引いても前からの攻撃がモデクレスを襲い、かといって何もしなくてもモデクレスは切り裂かれる。


 どうにもならない状況が出来上がってしまった。




 かくして死角から飛び出してきたマウェッタは何者にも邪魔されずにその爪で辺りに血を撒き散らした。




「あ……あぁ……」




 エノスは後ろのマウェッタが腕を振り切って無防備になった瞬間に前のマウェッタの腕をどうにかいなし、心臓を突くと、剣を抜いた反動で振り返りながら後ろのマウェッタの首を斬り落とした。


 死角から攻撃したはずの仲間の首が飛んだのを見ていたマウェッタはしばし動揺して攻撃が少し緩くなったようだった。




 その少しの猶予を使って倒れいてる男に目を落としたエノス。


 瞳が捉えたものは信じられない光景だった。




 ーーエ……ヴェド?




 あの死角からの一瞬でエノスの防御が間に合わないと悟ったエヴェドはモデクレスを突き飛ばして自らを盾にしたのだと思われた。




「あ……あぁ……エヴェ……」




「ロアアアアアアアァァンヌッ!!」




 エノスがエヴェドを黄泉から呼び戻そうと叫ぶ声はかき消された。


 モデクレスのあまりの声量に。


 その声は一瞬ではあるがエヴェド……いや、ロアンヌを黄泉から呼び戻すことが出来たらしい。




「モデ……スさん……は生……きて……」




 たったそれだけだが確かに伝えると自分の役割を果たしきったと感じたのかモデクレス付の奴隷、ロアンヌは生を燃やしきった。




 霞んだ瞳を一拭いで乾かしきったエノスはモデクレスに突きつける。




「モデクレスさん、あなたは生き残ってもらう。それしか……」




 それしかないじゃないか……エノスがエヴェドと呼んで仲良くなろうとして、そして仲良くなれたと思っていた男の命を無駄にしない為には。




「俺が突破口を作ります。元の道を戻っても仕方がないのでランサ国の方へ!近くの人達はモデクレスさんを引っ張って付いてきてくれ」




 モデクレスの周りにいる奴隷たちはエノスの言葉を聞いて頷いた。だが……一方でモデクレスは完全に生気がなくなった顔をしている。




 突如として森にパンっと乾いた音が響いた。


 エノスがデモクレスの頬を張った音だ。




「モデクレスさん! しっかりしろ! ロアンヌの死を……無駄に……無駄にするな!」




 そのエノスの叫び声にようやく炎を瞳に灯したモデクレスが帰ってきた。




 馬車の後ろ側で物資を投げつけたりする事で、どうにか自分達の死を回避し続けていた奴隷たちも少しづつ近づいてきた。




 エノスは悩んだ……さすがにこの人数では。


 そんなエノスの考えを見透かすように奴隷たちはいう。




「ちょうど盾になりたい気分なんだ」「俺もだ」


「私なんてこの大きな胸があるからきっとクマの爪も跳ね返しちゃうわよ!」




 こんな場所で場違いなほど明るい声が響く。


 エノスの決意は固まった。




「もう行ってくれよ。これ以上時間をかけたら怖くなっちまう。行け……行けよーーー!」




 奴隷の一人が叫んだその叫びが引き金になったように包囲していたマウェッタがまた攻勢を強める。


 失敗すれば全員が腹の中だ。


 皆の覚悟を無駄にしないためにエノスは走る。エノスは叫ぶ。


 狙うのは一番大きいマウェッタが構えている地点。ここを一点突破だ。


 向こうも分かっていて逃げ道となる場所にボスみたいなやつを配置しているんだろう。




 だけど……こんなところで死ねないんだよ!




 エノスの叫びは声になったか。


 最上段から力任せにボスマウェッタの脳天に剣を叩き下ろす。


 対する相手も腕を捨てるつもりなのか頭の上で交差させて剣を通さんとする。


 振り下ろした剣は肉を斬り裂きはした。したが頭の上で止まってしまいそれ以上は進んでいかない。




 それは意地と意地のぶつかり合いだった。


 均衡していたのは一瞬か一秒か。




 それは突然決着した。


 拮抗していた盾と矛の天秤がわずかに矛に傾いたのだ。


 それはエノスがエヴェドと呼んだ彼の魂の重さ分ほどか。


 一度傾いてしまえばもう戻ることはない。




 エノスは進み始めた剣を振り切り、ボスマウェッタを力任せに縦一線。斬り裂いた。


 ボスの身体がゆったり左右に分かれて倒れていくがそれを待っている時間などない。


 強引にボスの身体の間をすり抜ける。


 ヌルっとした感覚を感じながらもどうにか通り抜けることが出来た。


 ボスが倒されたことに唖然としているのかマウェッタ達の動きが止まった。




 これなら皆が助かるか?と甘い考えた頭を過った瞬間、マウェッタ達の目に憎悪の炎が灯った。




 エノスはモデクレスと、付いてきた奴隷たちを先に行かせ後方まで戻った。


 そこでは殿でモデクレスの為に盾になると言った三人にマウェッタが群がろうとしていた。




 それを目にしてしまったエノスは助けに行かないといけない、と足を踏み出した。


 そんなエノスの腕を握るものがあった。


 振り返るとそれは血に塗れたマナだった。




 怖かっただろうにエノスの所まで引き返してきて震える手でエノスを止めたのだった。


 エノスを見つめると首を横に振り、ダメという一言をかける。




 エノスだって分かっていた。


 絶対にあの三人が助からなかった事くらい分かっていた。


 でも何かしなければならないと思ったのだ。




 それなのに小さなマナの手が自分を止めてくれたことで……ホッとしてしまった。


 助けに行かなくてもいいんだ、という言い訳を作り出してしまった。




 その小さな棘に気付かないまま、いや気付かない振りをしながら先に行ったモデクレス達に合流する。


 合流した場所は既に包囲の外だったので、マウェッタが襲ってくるとしても散発的なものになるだろうという位置だった。




 エノスが合流するとモデクレスは真っ先に尋ねてくる。




「三人は? あの三人はどうなった?」




「モデクレスさん……」




 モデクレスはその言葉だけで察したようだった。




「そうかぁ……ジェイク……リンリン……ユウジィィィィ……」




 感情移入したら売れなくなるから名前を付けないって最初の野営の日にこっそり言ってたじゃないか。


 そういやその次の日には奴隷に冷たくするのは温かい環境に慣れさせない為って言ってたっけか。


 みんな自分は名前もなくなったって思ってたってのに。


 このオヤジ……本人には内緒で全員に名前を付けてやがったのかよ……バカだなぁ……ほんとバカだ。




 エノスはモデクレスのとてつなく深い愛の一端を感じとってしまった。


 一行はマウェッタが追って来ないことを良いことにしばらく泣き続けたのだった。


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