暁天は未だ遠く
エノスが宿の店主に晩メシの数を減らすように言いにいった所「もう作り始めてるから無理だ」という有り難いお言葉を頂戴し、肩を落としてモデクレスの所に戻ったその夜。
宿では晩メシの時間が始まった。
宿は入り口を閉めていたが、10程あるテーブルは全て埋まっていた。
席を埋める殆どがモデクレスの"奴隷"だ。
例外はモデクレスとエノスくらいのものだった。
顔を知っている程度とはいえ知り合いが居たほうがいいだろうという配慮からモデクレス付の奴隷はマナが務める事になったらしい。
モデクレス付の奴隷、とは言ってもせいぜい空いたグラスにワインを注ぐ程度のものだったが。
「意外……かね?」
エノスがテーブルを埋める奴隷達をチラチラ見ている事に気付いたのだろうモデクレスが尋ねる。
「そう、ですね。実際に奴隷というものを見たことがなかったのですが……なんというか大事にされているように見えます」
「ああ、そう言ってくれると奴隷商人として鼻が高い」
モデクレスは機嫌が良さそうに滅紫のワインを飲み干した。
「…ぷはぁ。でもね、勘違いしないで欲しい。奴隷商人みんながみんな奴隷にこういう扱いをさせているわけではないよ?」
エノスは言われたことの意味を考え末に答えを出す。
「それではここにいる奴隷さん達が特別……?それともモデクレスさんが……かな」
「うーん、そうだな。どっちも、かな?」
モデクレスがそう言ったのと同時に晩メシが運ばれてくる。
と、同時に食堂内を香ばしい香りが包み込む。
これは店主のシャーンが言っていた通りここの料理は期待できそうだ、とエノスは思った。
運んでいる人はみんなマナがしているのと同じ金属の首輪をしていた。
さらに観察していると、どうやら奴隷のテーブルとこちらのテーブルでは流石に料理の質、量は違うようだった。
と、ここでモデクレスが立ち上がり手を叩いて皆の注目を集めた。
「さて、お前達。今日は何故か三人分の料理が余っている。奴隷用ではなく、護衛用の料理だ。全部のテーブルに少しずつ分けるから大事に食べるように」
そんなモデクレスの言葉を聞いて奴隷達はとてつもなく幸せそうな顔を浮かべていた。
エノスはなんだか釈然としないような気持ちを抱えたまま、食事に向かうのだった。
「さて」
とそんなエノスを見ていたか見ていなかったか、モデクレスが話し始めた。
「さっきの続きだけれどもね。私が扱っている奴隷は言わば"上物"なんだよ。みんなちゃんと教育を受けていて、容姿だってある程度以上のものを持っている。そんな奴隷を選んでいるからね」
そう言われたエノスは不躾にも周りのテーブルの様子を伺った。
確かにモデクレスが言うように食事を綺麗に食べている奴隷達の様子を見るに高い知性を感じさせられる。
「なるほど……でもそれならなぜ……」
「なぜ……か。その続きを口にするかい?人には色々な事情があるものだよ。エノス、君もその事は十分に分かっているんじゃないか?と私は推測するけれどね」
見抜かれていた。
それはそうか、とエノスは自分を顧みる。
護衛になりたいと訪ねてきたのはほんの少し前に冒険者登録したという青年で既に護衛と事を構えていたうえ、格好を見れば剣帯もなく、パンツに鞘を突っ込んだまま……
これで何も事情がないと言われる方が逆に疑わしい。
エノスも剣の腕がなかったら奴隷同然の扱いを受けたままではなかったか?と自分に問いかける。
「そうですね。他人の事情には深く入り込みすぎない方がいいかもしれません」
暗に自分にも聞かないでくれよ、といったエノスの言葉だったが、モデクレスはその言葉を正しく受け止めたようだった。
「もちろんだとも。私は目的地までちゃんと護衛をして貰えたらそれで十分だからね。さぁ君も一杯やるといい」
そういってエノスの前に空のグラスを差し出すとマナがテーブルの横にすっと立ち、グラスに滅紫を注いだ。
一口飲むだけで分かる。これはいいワインだ。
自分が国に戻って一息つけたらこのワインをガンツォにもたらふく飲ませてやろう、そんな事を考えるエノスだった。
マナは、と見るとひたすら給仕の仕事をしていたので、もしかしたら隠し事をした罰で晩御飯抜きというような状況になっているのではないかと心配だったが、先程料理を運んでいた奴隷と共に後で食べるのだよ、とモデクレスに聞かされたことで安心したエノスだった。
「それより……マナは隠し事をしていたのかね?」
心配した事によって逆にモデクレスにそんな疑問をもたれてしまった。
後で冗談だと分かってホッとしたエノスを横目で見ながらくすくすと笑うマナがそこにいて。
"生まれて"病院しか知らなかったようなエノスはなんだか暖かいようなくすぐったいような気持ちに包まれていたのだった。
そんなエノスはその裏で起こっている地獄の事など知らない。知る由もない。
いや、少しでも"勘"が働けば気づけたのかもしれない。
突然割れてしまったエノスのグラスを片付けるマナに気を向けていなければ、もしかしたら。
ーーーーーーーー
ピチャ……ピチャ……何かが床に滴る音がする。
どうも粘り気のある音のようだ。
「さアさア……そろそろ喋りたくなってきただろオ? ゲヘヘ」
「誰が……喋……るかよ。この糞豹や…ろう……」
部屋の隅っこで震えている兵士三人にも確かに聞こえた。
それは糞豹野郎という言葉に怒りを爆発させる音だった。
「おイおイ……糞豹てえのは俺様の事かア?」
「あぁ……なるほ……ど。オツム……の方も……弱……いのか」
その瞬間黒い影が通り過ぎた。
べチャリ……
「ぐおぉぉぉ……ぉぉ……」
床に落ちたのは腕……だったものだ。
「俺様はなあ…… パンテルって種族だア……お前のツルツルの頭で覚えられるかア?」
「あ……あぁ……悪かっ……たよ」
それを聞いたパンテルの戦士はニィと嗤う。心が折れた、と確信したからだ。
しかし、続く言葉を聞いて残しておける理性は……なかった。
「ーー豹様……に」
「グババババァァ! よっぽど早死したいと見えるなア」
腕を失ったガンツォという大男はこの死神のような男が探している人物に最初から心当たりがあった。
それもそのはず、昼頃にその人物がこの店にきて以来誰も訪ねては来ていなかったのだから。
訳アリそうな奴の次に来たのがこの死神だ。
なんて日だ、などと頭を抱えたくなる。
あぁ、さっき落ちた腕で二本目だった。
頭を抱える腕はもうなかったのか。
遠くなる意識でガンツォは思う。
冒険者をやってていい線行ってたオレでもこの様だ……あんななまくらいくら振ってもこいつは傷つきゃしねぇだろう、と。
消えかける意識でガンツォは祈る。
次に会った時は一端の冒険者になってるのかなぁと見送った背中に向けて。
せめて、こいつに出会わないように。無事に逃げ延びられるように……祈る腕がなくとも祈るのだ。
そこでは地獄が続いていた。決して終わることのない地獄が。
終わる事があるとすればそれは……。
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