失くした記憶と赤い三日月

 男は真っ白な天井を見上げていた。


 もう一年近くもの間、見続けている天井だ。


 男はこの天井が嫌いだった。




 真っ白で、汚れ一つなくて。


 まるで自分を見ているようだったから。


 時間を感じさせない静止した空気がより自身の焦りを際立たせる。


 そうして視線を中空に彷徨わせていると足元の方にある扉からノックの音がした。


 どうぞ、と男が許可を出す前に扉が開く。




「やぁ、ウォルトくん。調子はどうかなぁ?」




 ウォルトと呼ばれた男は、はぁと溜息を一つ零す。




「俺としてはだな、誰だ?ヴィクターだ、どうぞ。こういったやり取りが出来るような関係性でいたいと常々思っているんだが」




 嫌味を存分に込めたそんな台詞でもこの男には響かない事くらい分かっているが一応言っておかねばならないだろう。




「ははぁ。そういう事でしたらやり直しましょうかねぇ?」




 どこか馬鹿にしたような口調で銀色の髪を掻き上げながら尋ねる。


 口元こそ笑みを浮かべてはいるが、キツネのように細められた青い目は笑ってなどいない。




「もういい、勝手にしろ」




 ウォルトが諦めたように吐き捨てるとそんな台詞を予想していたかのようにヴィクターの口はさらに歪む。




「おお、そう言ってもらえると思っていましたよぉ。まぁ"入院"している間は仕方がないってものですよぉ」




 その言葉を聞いてウォルターは眉をひそめる。


 ウォルトにとってはこの"入院"こそが焦燥感の根源であったのだから。




 一年前、ウォルトが目覚めた時には既にこの部屋にいた。


 身体中に包帯をグルグル巻きにされた状態で。


 それから眼の前のやけに軽薄なキツネ男の"適切な"処置でどうにか違和感なく身体が動かせるようになったのが半年ほど前の事だ。


 それからはこれといった身体の不調もなく過ごしていた。




「なぁ、俺はいつ退院できるんだ?」




 ウォルトが口にしたのはもう何度目になるか分からない質問だった。




「まぁまぁ、そんなに焦らないで下さいよぉ。そもそもここを出てどうするっていうんですかぁ?」




 ヴィクターは口元に笑みを浮かべたまま尋ねる。




 どうする?そんなものーー




「決まっているだろう? 失くしたものを探しに行くんだ」




 ヴィクターの眉毛が一瞬ピクリと動いたように見えた。




「失くしたもの? 貴方の取れかけていた腕は確かにくっつけたはずでしたよねぇ」




「茶化すな。記憶に決まっているだろう」




 ウォルトは救出されて目覚めた時、何も覚えていなかった。


 なぜ怪我をしてここにいるのか。自分は誰なのか。


 幸い、世界の常識や言語などは脳にしがみついていたがその他の記憶は何もなく、ウォルトの存在は空白そのものだった。




「それも含めて検査が長引くのは仕方がないでしょう? ゲート事故だけでも珍しいのにあんな大事故……さらにその中で唯一の生還者なんですからねぇ」




 ゲート。または転送機とも言われるものだ。


 それは遺跡から発掘された古代の秘宝だったらしい。


 ウォルトはその詳細までは知らなかったが、ヴィクターとの今までの会話から"それ"が今いる国では当たり前の移動手段だという事くらいは知っていた。




 ーーヴィクターから聞かされた事故の概要はこうだ




 その日、ここスターティア王国に七カ国の代表者が集まった。


 王国が発掘、運用し、莫大な利益を生むことから百年ものあいだ国外秘としていた転送機をついに各国にも拠出する、という俄には信じがたい通達が周辺各国になされ、その詳細を話し合うためだった。




 機密に関わることや安全上の理由から各国一名のみ参加が許された。


 転送機は王国以外の国にとって喉から手が出るほど欲しいものであったため、その横暴のような条件に対して文句を言い出せる国はなかった。




 各国は人選に頭を悩ませ、結果としてスターティア王国に隣接する四カ国は武に秀でた者を、離れた国は知に優れた者を派遣するような形になった。




 これは国と国との微妙な関係を如実に表しているようだった。




 話し合いの場である王城へはゲートを使って移動しなければならないため、参加する国が全て集まってからの移動になった。


 ゲートは透明な半球形の巨大な空間になっており、そこには各国代表の七人が準備を整え集まっていた。


 少し離れた所には転送機を操作する者がおり、全員の用意が完了したとみるといつものように操作盤を指で何度か押し、最後に横のレバーを引いた。


 部屋中に青白い燐光が漂いはじめ、まさに転送されるという段になってそれは起こった。




 "暴走"




 もはやそうとしかいえない状況だった。


 突如として燐光は稲光に変わり、壁のランプは異常を知らせるかのように赤く明滅していた。


 王城行きのゲートは凄いものだ、と関心していた代表者達も操作担当者の慌てぶりをみて異常な事が起きていることに気付いた。


 操作担当者が慌てて転送機まで駆け寄り、透明な扉を開け放ち叫ぶ。




 ーー逃げてくれ




 しかしその声が誰かの耳に届く事はなく、轟音と共に部屋が白く染まった。


 光が収まった後、そこに残されていたのは操作担当者だけだった。




 正確にいえば、物言わぬ操作担当者の下半身だけだった。






 と、事件のあらましを思い出した所でウォルトは身震いした。


 よく生き残ったものだ。




 そんなウォルトを見透かすかのようにヴィクターがいう。




「ええ、よく助かりましたよぉ。あの時のあなたはボロボログチョグチョでねぇ」




「グチョグ……」




 ウォルトはその時の自分を想像して気分が悪くなってくる。




「なんというか転送中の亜空間に咀嚼されてそのまま吐き出されたような感じで……」




「あー、もういい。まぁ亜空間?とやらに好き嫌いがあったから飲み込まれずに助かったって訳だな」




 ヴィクターの説明を聞いていると折角治った身体中が痛くなりそうなので話を強引に終わらせる。




「いやぁ、それは私の腕があったからこそ助かったと思って欲しいんですけどねぇ」




 ニタニタと笑みを湛えて自賛するヴィクター。


 軽薄にして変人。だが腕は確かなのは事実だ。




「はいはい、その節はどうもありがとうございました。お礼にドアをノックしないで入っていい権利をやるよ」




「えぇ、その件に関しては元よりそのつもりなんですけどねぇ。あぁ、そんなことより……」




 ヴィクターは脇に抱えていた紙の束をウォルトに差し出す。




「ん、これはなんだ?」




「まぁ見て下さいよぉ。の……ね?」




 どうせまたからかっているのだろうと思いながら手渡された紙束に目を通す。




「これは……!」




「えぇ、ようやく彼女の情報が手に入りましたよぉ」




 ヴィクターのその言葉に反応して机の上に視線を這わせるウォルト。


 その先には一枚の絵があった。


 お世辞にも上手いとは言えないが、なんとか特徴だけは分かるような線で女性が描かれていた。




「ほらぁ、ちゃんと成果が出たじゃないですかぁ」




 成果。


 ウォルトはここに入院してからずっと様々な検査を受け続けてきた。


 血や髪を抜いて調べるのはもちろん、色々な国の料理を腹いっぱいを超えて尚食べさせられたり、見たこともないような楽器で聞いたこともないような音楽を一日中聞かされたり……。


 その中に思いつく限りの絵を描くという検査があり、腕が痛くなっても止めさせてもらえずひたすらに描かされたのだ。




 最初は二十枚に一枚だけに書かれていた。


 誰も気づかないようなさり気なさで。




 次に同じ検査をした時、ウォルトは自身の中でひっかかりのようなものを感じた。


 それから何度も絵を描かされるうちにハッキリと浮かび上がるようになったその女性はひたすらに美しかった。


 描かれた絵に引かれる線は素人のそれであって、周囲の人が見ればひどく崩れたものに見えたかもしれない。




 それでもウォルトの心を、記憶を震わせるのには充分すぎた。


 検査の回数が十を超える頃には、既に心の中で明確に彼女をイメージ出来るようになっていた。


 その心の中の彼女を丁寧に、ただ丁寧に模写したものが机に置かれた一枚の絵だ。




「誰かは分からないが間違いなく俺に関係のある人だからな」




 そう言いながらウォルトは持っている紙に視線を戻した。


 その手は心なしか震えているようにも見えた。




「シェリー・メアリベート……か」




 紙に書いてある情報を反芻するように呟くウォルトにヴィクターが尋ねる。




「どうです、何か思い出せましたかぁ?」




 ウォルトは黙って首を横に振る。




「何も思い出せない。ただ記憶の底の何かが反応しているような気は……するような」




「ほほぅ、それはそれは。時間をかけて調べさせた甲斐がありますねぇ」




 何故か勝ち誇ったような笑みを浮かべるヴィクターにいつもなら苛立ちを覚えるが今日は違う。




「ありがとう、ヴィクター」




「うわぁ……なんだかその態度は気持ち悪いですねぇ」




「じゃ撤回」




「あぁん、もう一度言って下さいよぉ。貴方の素直な態度は久しぶりに見ましたぁ……ってあれ?聞いてないですねぇ」




 ヴィクターが何かを言っているがウォルトにとって、もうそんな事はどうでもいい。


 今はただただ彼女の情報を貪り読む。


 紙には名前の他にも居住地、家族構成や立場などが事細かく記されていたのだ。




 その様子を見たヴィクターはそっと部屋を出て行く。




 口元に真っ赤な三日月を浮かべながら。

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