♡48 最後のお弁当/『別れるもん』彼女はシクシク泣いた

 廊下を進み、角まで行ったところで、つかんでいた手を離した。彼女の手ではなくて、ずっと手首をつかんでいたのだが、それでも悪いことをしたような気分になって、朝倉先輩に申し訳ないと思った。


「あの、すみません。引っ張っちゃって」

「いいよー」


 にこにこしている。僕に会えて嬉しいんだろうかと図に乗ってしまい、すぐに弁当にありつけるのが嬉しいんだろうなと思い直した。今から中庭にいくのも面倒に感じて、僕は上に行く階段に座り、弁当をひざに置いて広げた。先輩もすぐ隣に座る。とても近くて、腕に体温を感じた。


「小山くん、かくれんぼ好きなの?」

「え?」

「だって、いっつも、かな子、探してばかりだもん。どうしていなくなるの」

「その」会いたくないから。


 でも、純粋な目をしてこちらを見てくる彼女に、そんなひどいことは言えなかった。それに「会いたくない」はうそだ。本当は「会いたい」。それでも、逃げてしまうのは怖いからだ。僕は朝倉先輩が怖い。彼女の親しげな声や微笑みに惹かれている自分がいることに気づきたくなかった。


「先輩、これ食べてもいいですけど」

 と僕は弁当を差し出す。

「わーい」とぱくつき始める朝倉先輩。

 僕の残しを平気で平らげる彼女。汚いとか思わないのだろうか。


「あの、これで最後ですから」


 ほとんど空になったあたりで、僕は言った。

 先輩は口に運びかけていた箸を止めて、視線を上げる。

 僕はちょっと迷ってから、


「先輩は彼氏がいるじゃないですか。お弁当を横取りする人かもしれないですけど、彼氏は彼氏なんだし。僕と会っていると嫌がりませんか?」


「たくちゃん?」


「ええ。たくちゃん先輩ですよ。正直、僕、あの人苦手なんです。だから、怒らすようなマネして、からまれたくないし」


「ひどいこと、されたの?」

「そうじゃなくて」


 僕はしばし考え、

「あの、先輩は彼とつき合ってるんだから、もっと……こう、なんていうんですか。遠慮せずに言いたいこと言った方がいいような気がしますけど。弁当食べるなって」


「言ってるよ。でも、聞いてくれないの」

「だけど」


 と言いかけて、二人のことなんだから、何も言うまいと思いなおした。

 かわりに、


「僕の弁当は、これで最後ですからね」と念押しした。

「やだもん」と先輩。口を尖らせている。

「いやでもダメですよ。僕がいやなんだから」

「小山くん、いやなの?」

「いやですよ。これ、僕の弁当ですよ。朝倉先輩が食べると、僕、お昼ないじゃないですか」


 ハッとする先輩。

 いまこの瞬間に、重大な『お昼奪い取り』の事実に気づいたらしい。


「そうか! かな子が満腹になると、小山くんが腹ぺこさんになるのか」

「そうですよ。だから最後にしてください」

「うぅ、ごめんなさいです。でも、かな子は小山くんとお弁当を食べたいのです」

「僕はいやです」

「いや?」

「はい」


 先輩の目に、じわっと涙が浮かんできた。


「しくしく。悲しいよ。小山くんとお話して仲良くしたいの」

「で、でも」


 さすがに、涙には動揺した。万が一にもウソ泣きの可能性があるので、しっかり観察する冷静さはあったが、観察すればするほど、身がよじれるほど胸を打ってくる涙目だ。すぐさま土下座したくなるが、ぐっとこらえて言いたいことは言おうと、早口で僕はまくしたてた。


「先輩は、たくちゃんさんがいるでしょ? なんで僕なんですか」

「だって、たくちゃんといても楽しくないもん」

「じゃあ、別れればいいじゃないですか」


 なんで付き合ってるんだ。

 好きだからじゃないのか。


 でも、この僕の考えはあまりにもお気楽だったらしい。

 どうやら、「付き合う」にもいろいろあるようなのだ。

 朝倉先輩は、「うぅ」とさらに涙をこぼし始め、

「小山くんは、かな子に優しいはずでしょう」と言ってくる。


 ああ、もう。イライラしてきた。何が腹立つのかは分からない。先輩の態度かもしれないし、泣かせてしまっている自分か、それとも彼氏の飯田先輩が原因かもしれない。


「僕は優しくないですよ。もうクラスにも会いに来ないでください」

「ひどいよ。なんで冷たくするの? かな子が嫌いなの?」

「き、嫌いじゃなくて、困るんですよ。恥ずかしいから」

「どうして? かな子は恥ずかしい子なの?」

「だ、だから」


 うまく言えない。何を伝えたいのかも、なんだか分らなくなってしまった。僕はどうしたいんだろう。先輩といると楽しい。僕だって楽しいんだ。


 でも、でも……


「先輩は素敵ですよ。美人でキラキラしてるし。でも、僕は暗いしダサいし……ほら、この間もたくちゃん先輩が、僕のことブ男って言ってたでしょ。だから、朝倉先輩といると恥ずかしいんですよ。その……惨めで」


 口にして、さらに惨めになってきた。釣り合わないという感情だろうか。

 しかし、それもなんだか、つけ上がっている感情のようにも思えるが。たぶん、本当に惨めだと感じている理由は、堂々とできない自分自身が情けないからだろう。先輩のせいにしてしまっているけど、これは自分の問題なんだ。


 ため息が出る。朝倉先輩みたいな人が、どうして自分なんかといっしょにいたがるのか不思議でならない。よほど料理の味がお好みだったに違いない。胃袋をつかんでしまったんだ。


 うかつだった。軽率に食事を与えてはいけないのだ。あとで困ったことになるって肝に銘じておくべきだった。野良猫だって山猿だって、タヌキやカラスだって、そうだ。餌付けは安易にしてはならない。気を付けるべきなんだ。


 僕はうなだれて、ひざを抱えた。

 朝倉先輩は涙がひっこんだようで、最後まで弁当を完食すると、

「ごちそうさまでした」とお利口にも手を合わす。


「小山くん。もう教室にはいかないよ。ごめんね」

「そうしてください」


「うん、そうするね。でもね、いっしょにお弁当は食べようよ。ね? かな子も、たくちゃんに食べられないようにするから、いっしょに二人で食べようよ」


「いやです」

「ど、どうしてよ」

「言ったじゃないですか。先輩は彼氏がいるからですよ」

「彼氏がいたら、小山くんとお弁当食べちゃダメなの?」

「僕はそう思いますよ」


 返事があると思った会話が続かなくなったので、顔を向けると、朝倉先輩はまた泣きそうになっていた。


「彼氏いないもん」

「いるじゃないですか」

「誰?」

「たくちゃんさん」


 間があいた。先輩は眉間にしわを寄せ、うぅとうなり出す。


「じゃあ、彼氏がいなくなったらいいのね?」

「え?」

「たくちゃんが彼氏なんでしょ? でも、彼氏じゃないならいいんでしょ」

「別れるんですか?」


 出来ますか? との意味も含めてしまう。どうも別れそうにない二人なんだ。でも、朝倉先輩は、「別れるもん」と言って、大きくうなづき、


「でも、どうやったら別れられると思う?」

「えっと」


 そんなこと訊かれても。僕は困ってしまい、そんな僕に朝倉先輩まで困ったらしく、まゆ毛が、へにゃりと下がってしまった。

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