♡2 いってらっしゃい/『シンコンさんて誰ですか』不意打ちキスにご用心
朝。仕事に行こうと玄関の戸を開けたところ、
「ぐえっ」首根っこを掴まれた。
食い込む襟元に指を入れて酸素を確保すると、僕は振り向く。
「なんです、かな子さん」
「なんですとは、なんです!」
プンプンしている妻の姿があった。腰に手を当て仁王立ちです。
「ヒロくん、もう行っちゃうつもりですか」
?
僕の困惑顔を見た妻は、大きなため息をつく。やれやれと首を振り、
「まったく。このままいってらっしゃいは新婚さんが怒ります」
と言い出した。
「シンコンさん?」
台湾の方ですか? と思った僕が悪いのか。
妻はフグのようにぷぅと頬を膨らませて、さらに、
「新婚さんが泣きます!」
と、こぶしを振り上げて訴えてくる。
にぶい僕はぽかんでして。妻はますます怒ります。
「ヒロくん。いってらっしゃいの新婚さんは何するの?」
「何するの?」
「もうっ。分からない人ね!」
じれったそうに足を踏み鳴らす。一体どうすればいいのやら。
カチカチ進む時間を気にしながら、ひたすら黙っていると、
「このままいってらっしゃいは、新婚ぽくない!」
どかんと彼女の怒りが爆発した。
「そうですか」と「どうどう」なだめながら問うと、
「そうですよ」と鼻息荒い。
もしかして、新婚さんとは僕たちのことか?
結婚五年。突然、今頃になって妻に新婚気分が訪れたようです。
……なぜ、いま? それは、ともかく。
「それじゃあ、新婚ぽいことをします?」
なんとなく空気を読んで提案すると、不機嫌だった彼女の表情がぱぁと陽が差したように明るくなった。
「しましょう、しましょう」
手をパチンと打ち鳴らし、クルクルその場で二回転。
「ではでは。いってらっしゃいのチュウしましょうね」
そう言って目を閉じる。ちょっと上向き加減の彼女に顔を寄せ、僕は期待に応えたわけですが。
「……ヒロくん」
暗い声。それから、両手を口にやり、
「お口にしないでください。びっくりしました」
怒られた。
「……間違えましたか?」
「想定と違いました。おでこがよかったです」
僕はちょっと口ごもる。それから、やり直しを提案した。
けれど、彼女は目を細めて僕を見上げると、
「もういいです。気分が新婚さんじゃなくなりました」
みるみる怖い顔になっていく。相当の見当違いをやらかしたようで。
朝っぱらから気落ちする。がくり。
「それは、本当にすみませんでした」
ぺこりと頭を下げる。
ついでに玄関にかかる時計にちらりと目をやる。
……うん、そろそろ行かないと遅れますね。
「かな子さん。お詫びにケーキを買って帰りますから、機嫌を直してください」
「ケーキ?」
「はい、ケーキ」
「キンタロウ屋のショートケーキですか」
妻の目がきらんとする。
「そう……ですね。ご希望ならそうしますよ」
「ご希望です」
「じゃあ、それで」
キンタロウ屋のショートケーキなるものを買うことになった。でも、僕はキンタロウ屋がどこにあるのかさえ知らないとくる。だから。
「あの、もし売り切れだった場合は、別の店で買ってきてもいいですか」
「売り切れなんですか?」
やっと回復気味だった妻の表情が、どんどん陰る。
焦ったが、ごまかしは嫌いなので、
「もしもの場合は覚悟してください」と伝えた。
すると、彼女は激しく落ち込み、よよよっとふらつきだす。
「もしもの場合です。きっと買えます」
ふらふらしている彼女を支えて励ますと、
「そうですね。期待してます」
肩を落としながら、あまり期待していないようすをみせた。
僕はそんな姿を見ていると、しょんぼりしてくるので、ちゅっとおでこにキスしちゃいまして。
「なんです、これは」
にらまれる。
「ごめんなさい」
怯える僕に彼女は、
「仕方ない子ですねぇ、ヒロくんは」とため息。
「まぁ、いいでしょう。無事に帰ってきてくださいね」
「はい。ケーキ忘れずに買いますからね」
「はいはい」
そうして、ずいっと背を押された。
危うく玄関の戸に顔面打ちするところだった。
「ヒロくん」
「はい」
呼ばれたので振り返り――
「ほらね、びっくりするでしょう」
いたずらっ子な妻の顔。僕は口を右手で押さえて、
「はい、不意打ちだと驚きます」
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