第13話

 二週間ぶりに吸った空気は、晴れ晴れとした快晴の元で、やけに潮の匂いが漂っていた。

 刑務所の門の前で待っていた男は、レオンが来るのを確認すると、明るげに手を振ってくれた。

 釈放ということになったレオンは、ホルダーに入れた銃なども返してもらい、刑務所から走り出て男の元に急いだ。

 修道院への道中、男は事情を説明してくれた。

 まず、ルチアと男が住んでいた修道院の司祭は気のいい人で、頑張る若者が好きな明るい男性だという。特に彼は、ルチアのような健気に働く人間がお気に入りだったということで、ルチアが助けたレオンが刑務所に入れられたことが気に食わなかったらしい。司祭は、レオンがマフィアの一員であったことは、ルチアからあらかじめ聞いていたらしい。それでも、司祭は「神はあらゆる罪を許してくれるであろう」と言い、他の者にはレオンの身の上は明かさないでいる。

 司祭やその他の人々が色々と交渉を重ね、署名なども集めた結果、レオンは無罪の上釈放になった、ということだ。

(なんて突拍子もない話なんだ……)

 そう思うもの、心の奥底では嬉しく思っていた。いつまでもあんな狭苦しい部屋にいるのは、あまりにも閉塞的で気が滅入りそうであったからだ。

 男が歩きながら、温かな微笑を浮かべる。

「ルチアのことは、僕も残念だったよ。でも僕、君が悪いなんて微塵も思ってないよ」

「……え?」

 予想とはかけ離れた言葉だった。

 ルチアが死んでしまったとき、レオンは悲しみの他にも、この男に責められてしまう恐怖を感じていた。

 彼はルチアの幼なじみで、兄妹のような関係だった。そして彼女に想いを寄せていた時期もあった。

 そんな彼に優しい言葉をかけられるとは、レオンは思ってもみなかった。同時に、なんて優しい人なのだろうと思った。

「ルチアは、人を助けて天国に上ったのさ。僕や他の人を助けるのと同じ要領で、君のことも助けたんだ。現に、君は今も生きているじゃないか。ルチアのおかげで、君はこの世で生きていられているんだと、僕は思うよ」

 男の笑いもまた、華やかで温かいものだった。

 レオンはこれほどにまで、誰かに救われたことはなかったと思った。いつでも自分はいいように使われて、あっという間に捨てられてしまうような人生を送っていると思っていた。生きている価値などないと考えていた。

 だが、今は違う。ルチアが助けてくれたから、この男や、修道院の司祭、その周りの人々までもが、レオンのことを助けようと奮闘してくれたのだ。

 これほどにまで喜ばしいことは、他にはないと思った。

「おっと。そろそろ時間かな」

 男が思い出したかのように、周りを見回し始めた。レオンは何のことだか分からず、黙って首を傾げた。

「いいものがみられるよ。ついてきて」

 突然、男が街を走り始めた。レオンは状況の理解ができないまま、走る男の足跡を追って駆け出す。


 男が修道院へ行く前の寄り道ということで、とある展望台に登った。レオンもそれについていく。何故展望台なのだろうと思ったが、きっと何か綺麗な景色でも見られるのだろうと思った。

 最上階に近くなった辺りで、男は景色の見える開けた場所に出た。展望台には多くの観光客がいる。

「これがいいものだよ」

 男がレオンに、外の景色を見るように勧める。

 窓はなく、天井と床、ベランダ以外には、景色を阻害するようなものはない。潮風が快適に吹き抜けていって、妙に心地よかった。

 レオンがベランダの外の景色を見渡す。すると、何が見えるだろうか。


 ────綺麗な景色というには、言葉足らずであった。


 街中に海の水が浸入し、建物や人が水に浸かっている。初めは街に水が入り込んでいることに少し危機感を感じたが、それよりも目に入る光景に目が釘付けになる。

 教会や大聖堂などの建物や、青く晴れた空の青、大空から降ってくる日光が水面に映りこみ、人々と風が作り出す波紋が、なんとも壮麗な情景を生み出していた。

 男がレオンの横から景色を眺め、景色に夢中になっているレオンにそっと声をかける。

「あんな風に街の中に海水が入り込む現象を、アクア・アルタっていうんだ」

「アクア・アルタ?」

 レオンには聞き覚えのない言葉であった。こくりと黙ってうなずいて、男は説明する。

「アクア・アルタは『満潮』って意味なんだ。ヴェネチアでしか起こらない現象で、生活に支障が出ることもあるけれど、大抵はそんなたいそうなことは起こらないよ」

「でも……すごい。こんなに綺麗な景色、生まれて初めて見ました」

 そのくらいしか、レオンは感想を述べることができなかった。あまりにも海が美しすぎて、黒ずんだ心が洗われるような感覚に酔いしれて、この場所から眺める景色に見とれている。

 そして、街に流れ込む海水が、全てを洗い流してくれるような気がした。

 黒く染まり冷えた心だけじゃない。悔い、憎悪、喪失感といった負の感情、人々の恐怖、ルチアが流したあの涙でさえも。

 その全てを、この海がさらっていくように思えた。

男は「気に入ってくれてよかった」と、安心したような口調で笑う。

「僕は展望台の下で待ってるよ。しばらくしたら降りておいで」

 そういい残し、男はもと来た階段を下りていた。

 レオンは一人になっても、景色をずっと眺めていた。

 ルチアと来られたら、もっと綺麗だったんだろうな────。

「なんて……な」

 独り言とともに、レオンは乾いた笑いを浮かべた。その笑みはもう、誰のことも嘲笑ってなどいなかった。

 レオンは景色を見ていた方とは逆の方に足を運ぶ。反対側には、水平線が伸びている海があった。そちらの方も、負けないくらいに綺麗だった。

 彼はホルダーから、できるだけ周りの人には見つからないように拳銃を取り出した。相変わらず弾は入っていないが、レオンにとってそれはもうどうでもいいことであった。

 レオンはふっと笑い、拳銃を展望台の外へ、できるだけ海の深いところに届くように投げ捨てた。

 誰かを殺す為に使っていた、自分の恐怖を抑え付ける為に持っていた拳銃だった。

だが、もう誰かを殺す必要も、自分の恐怖を抑える必要もなくなった。だから、もう自分には必要ない。これからは、ルチアと出会ったあの修道院で暮らすことになるのだから。

レオンは海から目を離し、展望台を下りる階段を降っていく。

 まだレオンは、神などという曖昧な存在を信じてはいない。多分、完全に信じきることは一生できないかもしれない。

 だが、それでもいいと思った。何かを完全にやりきるなんて、そんなことは難しい。

 だから、レオンは身近なものから信じることにした。



 罪を背負い冷え切った青年を救った、天使のような温かな少女との記憶を。

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Aqua Alta 月詠来夏 @Alchelia6420

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