第11話
レオンにとっての最大の恐怖は、マフィアに追われて野垂れ死にすることでも、ましてや自分が殺されてしまうことでもない。元々自分に関係のなかったルチアが死んでしまうことだ。
死ぬなら自分一人で死のうと思っていた。そうすれば、誰かの心の中にいつまでも残ってしまうことはない。悲しみの記憶として、誰かの中に居座り続けることはなかっただろう。
だが今は、自分が死ぬどころか、かつて倒れていた自分を助けてくれた少女が、身代わりになって銃に撃たれ死線を彷徨っている。
どこで間違えたのだろう、とレオンはルチアの身体に回した手に力を込めた。
何度も何度も、自分を罵る。
お前が早くに死ななかったから彼女が傷付いたんだ。
全部お前のせいだ、レオン。
心が弱った自分を、後悔と憎悪から生まれた自分が追い詰める。
こんなはずじゃなかった。
こんなはずじゃ。
何も言えずに黙っていると、ルチアがそっと首を横に振った。
「レオンさんは……何も悪く、ありません……悪いのは、私です」
そう言って、ルチアは力なく笑う。儚く、今にも壊れてしまいそうなガラス細工のように、綺麗で弱々しい笑顔であった。
レオンは悔しそうに目を伏せた。
何故彼女は、こんなにも綺麗に笑えるのだろう。自分の人生が、もうじき終わろうとしているのに。
ルチアは痛みに表情を歪め、右手をレオンの前に上げようとする。レオンもまた、右の手で彼女の血塗れの手を握った。
彼女は、右手にそっと力を入れた。
「私……レオンさんには、後悔してほしく、ありません……貴方は決して、悪い人じゃない…そう、でしょう?」
彼女の問いに、レオンは嘲笑う。くだらない問いをする彼女を、無力な自分を。
「お前は何も知らないから、そんなことが言えるんだよ」
レオンはあえて、それ以上は口にしなかった。
今、彼の両手は無垢な少女の清い血で染まっている。
だがレオンには、両手が何人もの血の記憶が混ざって薄汚れた血に染まっていると思っていた。
かつてはマフィアの構成員だったレオンは、銃で人を殺したことがある。それも数人のレベルではない。命令さえ出てしまえば、レオンはターゲットの知らぬ場所から、引き金を引いて幾多もの相手の命を滅ぼしていた。
『血の掟』を破ったことを知ったとき、レオンは既にまともな生き方をすることを諦めていた。身寄りのない自分に逃げる場所などないし、そもそも日陰で生きていた自分がまともな生き方を知らなかった為だ。それに、まだ大人にすらなっていない自分が、大人である構成員達に殺されてしまうのは仕方のないことだと思っていたからだ。
レオンは何人もの人間を殺している。それも、自分が殺したかったからではなく、上の立場の人間から命ぜられたから仕方なく殺めているだけであった。この行為の善し悪しすら、昔は考えようとしていなかった。
これでは、自分は大人達に都合良く利用されるだけの駒だ。
そんな情けない自分の本性を、ルチアに打ち明けることはできない。彼女には、日陰者の生活を知らぬままでいて欲しいとレオンは思った。
「そう、ですか」と、ルチアは小さく答えた。
「だけど、私は…貴方のことを、嫌いにはなりません」
「……嫌いになってくれれば、よかっただろ。そうすりゃ、お前だって」
幸せになれたはずだ。
声には出さなかったが、確かにレオンはそう考えていた。
ルチアは、音もなく首を振る。
「嫌いになんて……なれない、ですよ。だって」
────、────。
思わず耳を疑いたくなるような言葉だった。
聞こえなかったわけではなかったが、レオンに贈られるには身に余るくらい、大切な言葉だ。
口にすることすら、勿体無いと思った。
最後に、とルチアが目を閉じかけた。慌てそうになるレオンだったが、彼女は瞼を持ち上げた。
彼女の右の頬を、一粒の涙が伝う。
「この街……ヴェネチアが、私にとっての…大事な場所でした。どうか……私が、この世界から消えてしまっても……この街を、好きでいてくれますか?」
────涙が、地面に音もなく落ちる。
レオンは、何か大切なものを託されるような、厳格な雰囲気の中にいると錯覚した。例えるならば、そう、結婚式の誓いの言葉のようだった。
愛を誓う代わりに、約束を交わす。それに課せられた重みは、きっとどちらも変わらないであろう。
レオンは迷わず、分かったよと答えた。
「お前と出会ったこの街のこと、絶対嫌いになんかならない。お前がいなくなったって……」
俺は。
独りでいたって。
言葉を最後まで紡げないまま、レオンは嗚咽を漏らし始める。
ルチアはまた、儚い笑みを浮かべた。
「よかった、です……嬉し、い…で、す」
段々と言葉が途切れる回数が多くなってきて、レオンは咽び泣くのを耐えようとする。彼女の命の灯が燃え尽きようとしている。
彼女の最期だけでも、笑顔でいよう。
もう彼女は助からない。ならば今この瞬間、精一杯の幸せを、見えない花束に変えて。
彼女に手向けよう。
それが彼女への、最初で最後の恩返しになるはずだ。
────だから、笑おう。
レオンは笑う。
涙でぐしょぐしょに濡れた顔で笑う。
「……レオン、さん…」
ガラス細工のような笑顔で、ルチアは目の前にいる彼の名を呼んだ。
彼女の目には、今何が見えているのだろうか。それは彼女にしか分からないことだった。
「わた、し……あな、たに…」
ふれたい。
血に塗れた小さな口で、彼女は音もなくそう懇願する。彼女は声を出したつもりだったのだろう。だが、レオンには何も聞こえなかった。
彼女は、天使のような笑顔を見せた。静かで華やかな、誰も見たことがなかったかもしれないくらいに。
美しく、壊れた笑顔だった。
「……それが、お前の最期の望みか」
レオンは血塗れの右手で、ルチアの力ない右手を握りなおす。彼女の細く可愛らしい指に、自分の指をそっと絡める。
まだ、温かい。彼女の温度だ。
その温度が愛おしく思える。失いたくない、と思った。
そして、彼は目を閉じた。紅く濡れた唇に、自分の唇を近付ける。
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