第8話

 昼下がりの光り輝く街で響くのは、複数人の荒い息の音だった。

 一人の青年が群を抜いて街を駆ける。その後ろを複数の男が追いかけている。

 レオンは思い出した。二週間前の夜に追われていたあの日のことを。

 あのときとほとんど同じ状況だ。異なる点があるとすれば、周りに人が多少いることだ。だがほとんどの人は、自分にターゲットが変わってしまうのを恐れて、見て見ぬふりをする。当然助けてくれるわけがない。

 レオンは走りながら泣きたくなった。いっそ大声で叫んでやりたかった。しかし叫びはしない。歯を食いしばって逃げる。逃げる。

 叫んでも誰にも届かない。誰も自分を助けてはくれない。ルチアがあのとき自分を助けてくれたのは、ただの偶然だ。自分が信じているわけでもない運命の女神が、気まぐれで助けてくれただけかもしれない。

 今は自分を追ってくる男達から逃れるのみだ。彼らに捕まれば、レオンは今度こそ殺される。非人道的な拷問の果てに、誰が見ても吐き気を誘うような惨殺体になって死ぬのだ。それだけは絶対に嫌だった。

「はぁ、はぁ、は……あ」

 無意識に逃げていたせいだろうか。いつの間にか路地裏へと入り込んでしまっていた。非常にまずい、とレオンは走りながらさらに焦る。

 路地裏は、猫や鼠が隠れるにはうってつけの場所だ。同じように、人間もある程度隠れることができる。ゴミ箱やボイラーなどの陰に隠れればやり過ごせることが多い。

 だが逆に、路地裏で追い詰められてしまったら最後。建物の壁と敵に囲まれて逃げる場所のなくなった者は、その場で惨たらしく殺される。路地裏に人の目は届きにくい。だから隠れることも容易ければ、殺されてしまうことも少なくないのだ。

 レオンは入り組んだ迷路のような路地裏を駆けていく。なんとか追ってくる彼らを撒ければそれで助かるのだが、鬱陶しいことに男達は未だにレオンを追いかけてくる。諦めの悪い奴らだ、とレオンは走りながら舌打ちをする。

 そして、運命の女神はとうとう、哀れな青年を見放した。

「あぁ……」

 レオンの前には、建物の壁が高くそびえ立っている。

 ────行き止まりだ。

「そん、な……」

 レオンの脚はがくんと力をなくして、バランスを失った身体は崩れ落ちる。目の前に立ち塞がる壁を見上げることもできない。

 こんなところで。

 こんなところで、自分が終わってしまうのか?

 口を閉じることもできなくて、レオンは小さく呻いた。

「ここまでだな、レオン」

 頭上から降ってきた声に、レオンはびくんと肩を震わせる。

 後ろをそっと振り返ると、自分を追ってきていた男達が冷ややかな微笑を浮かべていた。彼らは拳銃やナイフを、その手で弄んでいる。

 きっとその武器達と同じように、自分も弄ぶような感覚で命を奪われるのだ。それが、レオンにはたまらなく悔しく思えた。

「……俺を、殺すのか」

 ホルダーの拳銃に手を伸ばして、レオンは男達を睨み付ける。何故か涙は流れなかった。殺されてしまう恐怖のせいで、レオンの心はひどく荒んでいた。

 男達の中の一人の男が、レオンにゆっくりと近付いた。

「そりゃあ、殺さないわけがないだろう。オレ達マフィアは、服従と沈黙を死守しなきゃならない。組織の掟を守るのは絶対だと、小さい頃に教えてやっただろ?レオン」

「俺に近付くなッ!!」

 近付いてくる男に恐怖と憎悪が同時に湧いて出る。レオンはホルダーから銃を乱暴に引き抜いて、腰が抜けたまま銃を男に向けた。顔は赤く火照り、歯を食いしばって、荒く鼻息を吐き出す。ただでさえ鋭い目付きをさらに尖らせる。憎しみで恐怖を覆い隠したように、その目に恐怖の色はない。

 だが男は怖がりもせず、逆に立ち止まってレオンを嘲笑った。

「ハハッ……お前も随分と馬鹿になったな。オレ達、その銃にはもう一発も弾がないこと、知ってんだぜ?お前だって分かってるだろ?」

 もちろん、レオンは弾がないことを忘れてはいない。単に威嚇するために銃を出しただけだ。現にレオンが構えている銃は、安全装置だけは外されている。

 こうでもしなければ、レオンは恐怖を隠すことができない。今目の前にいる彼らに、恐怖心をさらけ出したくない。

 レオンが黙っていると、男は無表情になる。

「なぁ、レオン。おとなしく殺されたらどうだ?そうすりゃもう追われることはないし、死後の世界に行けて楽になるんじゃねぇのか?」

「うるさい……死後の世界なんかないだろ。神は信じてないくせに、なんで死後の世界は信じてるんだよ!?」

 おかしいだろ、とレオンは小さく呟いた。銃を構える手が、小刻みに震え始める。

 男はまた、冷ややかに笑う。レオンの弁解を全て否定するような、無慈悲な笑いだった。

「ああ。確かに、神なんていないさ。神がいたら、お前やオレ達みたいな、日陰で暮らすような奴らなんて生まれなかった。貧しくて飢え死ぬ奴だって、戦争で命を無駄に散らす奴だっていなかっただろうよ。なのに、日陰者がいて、飢え死ぬ奴がいて、戦争で大勢の人間が死ぬ。救ってくれる奴なんていない」

 だけどな、と男は一度言葉を切った。

「死後の世界はある。あるって信じ込んでる。それが天国なのか地獄なのか、オレ達人間には一生分からない。だけど、何かを信じていなきゃやってられないだろ。信じるものをなくした人間ほど、無力な奴はいないからな」

 男の言葉が、レオンの胸にぐさりと突き刺さった。

 信じるものをなくしたら、人間は途端に無力になる。その通りだと思った。今の自分には、信じられるものがない。仲間も、周りの人々も、世界も、自分でさえも。

 何も信じられない。

 だから。

「だから、俺は死ぬのか」

 諦めるかのような口調で、レオンはそう呟いた。銃の引き金に伸ばした指から、力が抜けていくのを感じた。

 男はニヤリと口の両端を上げる。

「そうなるかもな。……もう諦めろ。お前は」

 ここで終わりだ。

 レオンは思わず、弾の切れた銃を手から離す。重力に逆らえず、銃はカタンと音を立てて地面に投げ出される。

 放心して、身体中から力が抜けていくのを感じた。腕がだらりと落ちて、目が恐怖の色に染まっていく。恐怖が憎悪を覆い隠していく。

 チャンスを逃すまいと、男は後ろに控えさせていた構成員達に合図を送るが。

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