第7話

 早くも二週間が経過した。

 ルチアの手伝いをこなしていた日々もあっという間に過ぎていって、レオンが修道院で暮らす時も終わりを告げる頃になる。潮風がほのかに香る、天気のいい日であった。

 レオンは大体回復して、一人でなんとか動ける状態になった。ルチアから小遣い程度ではあるものの、多少の金を貰うこともできた。ルチアから、彼女と出会った時に着ていた黒スーツを返してもらう。薄めのスーツに身を通すと、着慣れた布地の感触が肌に触れるのを感じた。腰には弾の切れた拳銃をぶら下げておく。使い物にならないとはいえど、やはり捨てることはできないと思った。

 ルチアに修道服を返すと、彼女は少し残念そうな顔をした。


「……時が経つのって、あっという間ですよね」

 修道院の門まで見送りに来たルチアが、出て行こうとするレオンの歩みを止めた。

 今日は雲一つない快晴だ。空の太陽がレオン達をぎらぎらと照りつけている。まるで太陽が、人々を焼け焦がそうとしている勢いであった。

 思えば、もう二週間が経ったのか。レオンは改めて、時の流れの速さを実感した。

 マフィアに追われ、自分が倒れて、ルチアによって修道院に運ばれてきて、療養のために二週間修道院に滞在して。

 そんな日々を、レオンは幻のように考えていた。

 あれだけ平和に過ごせたのは、本当に久しぶりだったから。

「なんだよ、寂しいのか?お前」

 レオンはわざとルチアをからかう。誰かにこうして気楽に物を言えることも、きっとしばらくなくなると思ったからだ。

 もちろん、ルチアはむっと頬を膨らませる。

「そっ、そんなわけないじゃないですか!というかレオンさん、あなた私のこと一度も名前で呼んでくれたことありませんよね!?」

 急に身の覚えのないことを言われる。大声で詰め寄られて、レオンは少したじろいだ。

 修道院の通りを歩く人々は、自分達の話や用事に夢中でほとんど気付いてはいなかった。

 ────カツンカツンカツン────。

「…………そ、そうだったか?あまり意識してなかったんだが」

「そうですよー!レオンさん、モテないタイプでしょう?」

「なんでそうなるんだよ……」

 モテるとかモテないとか、レオンにとってそういうことはどうでもよかった。

 だが、こうしてルチアとくだらない話をしていることも、平和な証拠であるとレオンは思うようになってきた。

 二週間の間、ルチアとは他愛のない話ばかりをしていた。好きな食べ物の話、犬派か猫派かの話、ヴェネチアのおすすめの観光名所の話。とにかく様々なものだった。

 自分がマフィアから逃げ回っていた頃は、誰かとこうしてくだらない話をできるほど余裕がなかった。思えば不幸中の幸いだった、とレオンは息をつく。

「とりあえず、俺はもう行くぞ。ここにいつまでもいたら、またあの連中が追ってくるからな」

 早く、彼女に元の生活に戻ってもらわなくては。そう考えて、レオンは踵を返した。ルチアの返事を待つことなく歩き出す。

 一人で、通りを歩く人々の群れに飛び込んだ。こうして人の中に混じれば、たとえマフィアの連中に見つかろうともそう簡単には追っては来まい。彼らは人目につく所で罪を犯しはしないはずだ。犯せば最後、彼らの存在が世に晒されるからだ。

 鬱陶しいざわめきの中を、ただ一人でレオンは歩く。いや、歩いているというよりは、流されているように見えた。

 行く宛もない。帰る場所もない。ただ、追われているから逃げ続けるだけ。安全でいられる場所がどこなのかさえ、レオンは知らない。

 目標がないから、自動的に流されてしまうのだ。

「……さん……」

 怪我もしていないのに足を引きずるように歩いている中で、自分に向けられた誰かの声が聞こえた。

 横目でその主を見つけようとすると。

「レオンさん!」

 突然、何が起こったのか分からなかった。レオンは頭が真っ白になりそうになる。

 視界に突然現れたのはルチアだった。レオンの横を、あたかも当然のように歩いていた。

「お前っ、ついてくるなよ!?」

 レオンは思わず怒鳴りつけると、ルチアは不服そうな顔をする。「何故怒られなければいけないの?」と言いたげな顔とも捉えられた。

「レオンさんがヴェネチアを出るまでついて行こうと思いまして」

 ニヤリと笑うシスターの少女は、口元に白い指先を持ってきてそう答えた。

 ついてくるな、と最初から念を押せばよかった、とレオンは片手で頭を抱える。

「そういう問題じゃ────」

「だってレオンさん、ヴェネチアの地図とか持っていないでしょう?だから案内しようと思ったのですよ〜」

 お気楽に喋るルチアが、今のレオンからすればとても羨ましく思えた。自分はこれでも組織に追われている身だというのに、彼女はそれをまるで知らないようだ。レオンの事情をあれだけ聞いておいて、彼女は笑っている。

 彼女を巻き込みたくないから修道院を出て行ったのに、これでは意味が無い。

「……早く帰った方がいい。俺といる所を追ってくる奴らに見られたら、お前だって狙われるんだぞ」

 うるさい人混みの中にいるのをいいことに、レオンはルチアにはっきりと忠告する。人声に紛れているおかげで、追ってくる者達にはレオンの声は届きにくいだろう。

 ルチアはきょとんとして、レオンの顔を眺める。

「えっ?まさか今、追ってきてるんですか?」

「今はまだ見つかってない。だから、今のうちに早く────」

 ルチアに帰れと諭す前に、レオンははっと息をのんだ。

 ────カツンカツンカツン────。

 何度も追われたからこそ知っている感覚がレオンを襲う。雑踏に紛れて聞こえる靴音。他人になりすまして近付く殺気。


 『奴ら』が、確かに近付いているのが分かった。


「……どうしました?」

 ルチアが不安そうな顔付きでレオンに声をかける。

 レオンはホルダーに入った拳銃に触れる。

 これ以上彼女を巻き込んではならない。

 逃げるなら────

「お前は早く逃げろ……奴らに目を付けられる前に」

 独りだ。

 レオンは拳銃から手を離して、人混みを掻き分けて走り出す。

 突然の彼の行動に、ルチアは唖然となった。彼の名を呼ぼうとするが、喉で言葉が突っかかる。

 ここで呼んだら、あの人が困ってしまう。

 そう思って、人混みから抜けて来た道を戻ろうとすると。

「待て!!逃がすな!!」

 知らない男の怒鳴り声が耳の中を通り抜けて、ルチアは声のした方に振り返った。

 気付けば、密集していた人々はばらばらに散らばった。皆驚いたような、興味津々そうな表情をしている。

 そして通りの真ん中を、パレードが占領しているのと同じように、黒服の男達が数人程走り抜けていく。

 まさか、あの人達は────

「マフィア……?」

 ルチアが直にマフィアを見るのは人生初だった。今まで写真や資料などで目にしたことはある。写真の中で銃を構えるマフィアを目にした時、ルチアは途端に恐ろしくなった。彼らが自分の目の前にいたら、きっと自分は動けなくなってしまうだろう。

 そのマフィアが、写真の中ではなく現実で、先程まで隣にいた彼を追い詰めようとしているのだ。

 怖い。

 恐い。

 ルチアの身体が、無意識に震える。立ち止まって動けなくなる。口を抑えずにはいられなくなる。恐怖で血の気が引いていくのを感じた。

(レオンさん……あんな人達に、ずっと追われて……)

 今まで能天気に暮らしていた自分が馬鹿みたいに思えてしまった。

 ルチアが修道院で平和な暮らしをしていた時に、レオンはかつて仲間だった組織に身を追われていたのだ。

 そして今も、自分がまた平和な暮らしに戻った時に、彼はまた追われる暮らしに戻るのだ。

 ルチアは震える身体を抱きしめた。

 レオンさんを助けたい。だけど、どうしたらいいの。私にはそこまでできる力がない。もしかしたら私が死んでしまうかもしれない。だけど。

 ────絶対に、後悔はしたくない。

 ルチアはしばらく、その場から動くことができなかった。

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