第6話

 翌日。

 結局、レオンはあの夜から二週間の間、修道院にお世話になることになった。汚れたスーツを着たままでは衛生上よろしくないと思ったのか、ルチアはレオンに代わりの服を貸してくれた。

 漆黒に染められた、修道士の衣装だった。レオンが着てみたところ、サイズには全く問題はなく、むしろ身体にピッタリと合っていた。

 だが、レオンは前述の通り無宗教だ。何の神も信じない自分が、神を信じる者の制服を身に纏うのは、完全には納得しきれなかった。とはいえ、今の彼には着られる物が限られている。服がないよりマシなので、レオンは仕方なく衣装に身を包む。

 レオンはルチアの仕事の手伝いをしている。元々レオンは仕事の飲み込みが早い方だ。部屋の掃除を何度か任されたが、ほとんどは数時間ほどで終わらせた。

 今は別の部屋の掃除をしていて、身の丈以上の大きさの窓を一人で黙々と拭き続けている。

 ルチアはレオンの着ていた汚れたスーツを洗濯している。だが、乾くのには時間がかかるという。乾燥機はあるが上の立場の者が使っているし、新人の自分には使う許可が降りていないのだとか。

 レオンがマフィアに所属していた頃も、組織内の上下関係は厳しかった。使える機械も限られていて、構成員の中でも下の階級に所属していたレオンは、特に行動にすらも制限が掛けられていた。

 今となっては、そんな日々が懐かしく思えた。

 それと同時に、マフィアから逃げ回っていた数日前のことも思い起こされた。

 あの時は、本当に何も考えられなかった。逃げることさえできればいいとばかり思っていた。

 だが、今でも考えられない。今この場所でどう過ごすかということも、修道院を離れた後はどこに行こうかということも。

 ────今の自分が、どの方向へ進もうとしていることすらも。


 バン、と肩を強く叩かれる。

「痛っ……!?」

 ぼうっとしていた意識が戻った。レオンは肩を叩いた主に目を向けた。

 不服そうな目付きをして腕を組んでいる男が、レオンのことをじっと睨んでいた。

 見た目は二十代後半くらいだ。黒髪はそれほど長くはなく、漆黒の瞳を持っている。今のレオンと同じ、黒い修道士の服を着ていた。

「えっと……何か?」

「何か、じゃないよ。君のことずっと呼んでいたんだぞ。全く、最近の若い奴は融通がきかないね」

 お前だって若いだろ、とレオンは反論しそうになったが、すみません、とだけ答えておいた。

 レオンが窓辺からそっと降りると、男は腕を組むのをやめて、少し優しそうな顔付きになった。

「君って確か、ルチアが連れてきた子だよね?」

 唐突にルチアの名前が出てきて、レオンは若干心の焦りを感じた。

「……そうですけど」

「やはりそうか。……あの子もお人好しだな」

 男は薄く苦笑いをした。

 この男は、ルチアのことをよく知っているのだろうか。彼女は修道院に入り始めたばかりの新人だ。彼女のことをよく知る人はいないだろうと、レオンは勝手に考えていた。思えば、これはとんでもなく失礼なことだった。

 男の言葉に、レオンは少し共感を覚える。

「あいつが……お人好し……納得できるかな」

「だろ?ルチアは昔っからそうなんだよ。困ってる奴がいたら、自分の損得は関係無しに、誰でも助けちゃうんだ。僕だってそうだったよ」

「えっ?あなたはあいつの知り合いか何かですか?」

 男は、何を今更そんなことを聞くんだ、と言うような顔をして「そうだとも」と答えた。

「ルチアは僕の幼なじみだけど、僕は妹だと思ってるよ。誰とでもすぐに打ち解けるし、困っていたら助けになろうとする。そんな彼女に惹かれていた時期もあったけどね……こんな立場だから、彼女に想いを伝えることもできないのさ」

 諦めた口調で、男は儚げに笑った。

 修道士や修道女といった聖職者は、神と結婚しているとよく言われている。それはつまり、神以外に想いを寄せてはならないということだ。

 男の言葉を理解しきれず、目まぐるしい速度で、レオンは神が何なのかを模索し始める。

 神とは、一体何者なのだろうか。

 人類に自分の存在を信じさせて、心の拠り所にさせて、そして自分の存在で人々の心を縛る。

 神とは、一体何なのか────。

 それを、レオンはまだ知らない。

「……ああ、ごめんな。君にこんな話しても意味が無い。それに、興味ないだろ?」

 現実に引き戻されて、レオンは頬をひっぱたかれたような顔をした。

「……別に」

 顔に表れてしまった感情を隠そうと、彼は素っ気ない態度で男から目を逸らした。

 神なんていない。何者かどうかを考えたところで、何の意味もない。何も変わらない。

 考えたって、何も。

「……そういえば、君、この辺りじゃ見ない顔だよね」

 はっ、と胸を貫かれた。目を少し見開いて、レオンは男に目を向け直す。

 今まで恐れていたことが、起きる予感がした。

「どこから来たの?」

「……ナポリです」

 正直に答えるしかなかった。嘘をついたところで、余計にこじれてしまうだけだ。

 男は「ナポリねぇ」と少し訝しげな顔をした。

「まさか、君────」

 正体を見破られると思って、レオンは唇を強く噛み締める。

「レオンさーん!」

 場の空気に合わないくらい明るい声が、部屋の中に入ってきた。

 声のおかげだろうか。レオンの胸の痛みが少しだけ和らぐ。

「ルチア……」

 男が声の主の名を呼ぶ。

 先程までの状況を知らなかったルチアは、部屋に漂う空気を感じ取って硬直した。

「……何か、ありました……?」

「あ、あぁ、ごめんなルチア!何もないよ。僕は仕事に戻るね」

 男はルチアにそう誤魔化すと、レオンの方は見向きもせずに部屋からそそくさと出て行った。

 レオンは何も言えなかった。

「…………」

 状況を把握できないまま、ルチアはレオンにそっと近付いた。彼はどこか遠くを見るような目付きをしている。

「レオンさん……」

「……お前か」

 さっきの男に向けたものと何ら変わらない態度で、レオンは自分を持ち直す。

 ルチアの透き通る青い双眸を見たからか、心が徐々に安らいでいくのを感じた。見えない針に胸を貫かれた痛みも、自分の正体が見破られてしまうかもしれない焦りも、何もかも忘れられるような気がした。

「さっき、あの人と何か話してたんですか?」

「……何もない。お前は気にするな」

「なら……いいんですけど……」

 ルチアは納得のいかない様子で、そうたどたどしく答える。

 何もないわけがなかった。だがレオンには、自分の弱みをルチアに見せたくなかった思いが確かにあった。

 ルチアの生活を壊してはならない。彼女の平和な暮らしを、自分の非日常を持ち込むことによって失わせてはいけない。

 レオンは、自分を守ることはもちろん、彼女の生活も守ろうと思っていた。

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