第2話

 青年────レオンがイタリアのヴェネチアに来たのは、三日前のことだ。

 ヴェネチアは、イタリアの北部に位置する観光都市である。南部のナポリと比べたら治安は良いとしか言えない。理由を一つ挙げるとすれば、マフィアなどの犯罪組織が少ないからだろう。

 「水の都」とも呼ばれているヴェネチアは、神聖な街とも呼ばれている。レオンは元の職業柄、神様とか宗教だとか、そういう非現実的なものを信じることができない性格である。神聖な街、と言われるとどこか胡散臭い。だが彼は、この街が不思議と居心地がいいと思えていた。

 マフィアが少ない。それだけが、今の彼の支えであった。

 そんなヴェネチアの、少しだけ見慣れてきた景色を見回しながら、レオンは今日どうやって生きていくべきか考えていた。

 レオンは茶髪茶目で、髪は所々跳ねている。袖を肘の上まで捲り上げ、全体的に着崩された黒いスーツは、土や砂でどろどろに汚れていた。元々は黒いネクタイを持っていたのに、どこかでなくしてしまった為に、薄汚れた白シャツだけが黒スーツの間から覗いている。スーツと同じ素材でできた黒ズボンのベルトには、ホルダーに入った拳銃がぶら下がっている。

 助けようか助けまいか、思わず迷ってしまいそうな程に鋭く尖った目付きをしているので、誰もレオンに近付きはしない。

 今持っている小銭も残りわずか。食料も底を尽いている。飲料水もない。海水は身体に悪いだろう。

 結論から言ってしまえば、レオンはもう長くはない。もう三日以上も飲み食いしていないのだ。この状態では、いくら体力に自信がある者でも野垂れ死ぬ。

 ……このご時世じゃ、国や地域によれば有り得ない話だろう。そんな国に生まれたらよかったな、と一瞬、くだらないタラレバが、レオンの頭をよぎった。

「はぁー……俺、もうすぐ死ぬのか……」

 レオンは賑わうヴェネチアの人混みの中をとぼとぼと歩きながら、小さく口にした。

 十六歳の青年は悲観的に言うものの、別に今日死ぬと決まったわけじゃない。うまくやり過ごせば生き残るくらいできるはずだ。パン一つ物乞いしてみればどうだろうか。ついでに飲料水も貰ってしまえば、一石二鳥だ。

 ────あぁ、ダメだ。レオンは鬱陶しい何かを振り払うように、激しく首を振った。いくら観光地に人は大勢いるとはいえ、そんなお人好しなんていない。

 そもそも、彼は追われている身なのだ。目立つようなことは、かえって自分の身を危険に晒すだけだろう。

 ────一瞬、レオンの視界が眩んだ。

「っ……!!」

 眩暈だ。自分の身体はそろそろ限界らしいと、レオンは静かに悟る。

 とりあえず、こんな大勢の人間がいるところで倒れるのはまずい。せめて、人が少ない裏路地に行こう────。

 レオンはなんとか意識を保ちながら人混みを抜けて、建物が密集した為に自然にできてしまった裏路地に、流れ込むように移動する。

 裏路地に入った途端、少しばかり安心したのか、レオンの身体は糸が切れたように力が抜けて、その場に倒れてしまう。痛みが身体を駆け巡った。

「くっ……ダメか……」

 やはり飲み食い無しでは生きられなかった。それはそうだ。昔から知っていたはずだ。いや、そもそもこれは生物の鉄則だ。

 再び視界が眩み、意識も朦朧とし始める。居眠りするときと似たような感覚だ。

 意識を失ったら、俺は死ぬのか?死んだら、誰がこの俺を見つけてくれるんだ?意識を保とうとする代わりに、そんな問いを自分にぶつけ、レオンは穢れた地面に目を向けた。

 死ぬことに変わりはない。誰も見つけてくれない。見つけたとしても、そいつはきっと彼を追い回す奴だ。彼らはきっと、地獄までレオンを追い詰めて来るに違いない。

 ────やっぱり、俺は最期まで救われないのか。

「……死にたく……なんか、ない……」

 意識が吹き飛ぶ瞬間。レオンは遺言のつもりで、そう呟いた。

 その呟きは誰にも届かない。当然の如くそう思っていた。

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