諦年

鹿爪 拓

諦年

 私は、自分は何を置いてきてしまったのだろう。そう考えるときがある。

 当時、都市部のはずれにある公共料金の委託管理会社に勤務していた私は、数か月前に退職届を出していた。そしてあの日、最後の引き継ぎを終えた。ほんの少し自分の仕事も残っていたが、大半は辞めるに従って生まれたものだった。

 最後だからといって特に何を思うでもなかった。同じように勤務時間内では収まりきらない仕事を残業で片づけ、「最後に男同士で」と押してくる面倒な上司からの酒をやんわり断ったことは覚えている。二度と会うこともないだろう面倒な人間と、面倒なことをするつもりもなかった。

 夏もやっと終わり始めたと思うような、夕暮れの道だった。まだじっとり暑い。薄く曇り具合の空が染まるなか、最寄り駅への道を辿り、そのまま通り過ぎ、しばらく歩く。会社に入ってから、ずっと通っていた喫茶店があった。上司とは違って最後にはしたくないほどに、いい店だった。

 少し重たい手押しのドアを開けると、学校の廊下のように長い板を床・壁・天井と全面に張った、濃い茶色の空間があった。小ぶりな丸テーブルが奥に向かって5つ、それぞれ暖色の小さなスポットライトが当てられている。どこからか焙煎したコーヒーの甘い香りが漂っていた。

 店内はいつも通りの無人だった。この時間帯は何故か、自分を含めても客は大体もう1人いるかいないか程度だった。

 いつものように一番奥の席に座った。

 来客の気配を感じて、店の奥から顔馴染みになった無精ひげのマスターが、冷蔵庫から水とおしぼりを、そして灰皿をセットで持ってきてくれた。メニューはもう出されない。頼まずとも「いつものコーヒー」が出てくるほど、ここには通っていた。

「常連がいなくなっちまうな。ただでさえ寂しい店だってのに」

 マスターはため息交じりに言った。髭に白と黒が混じった髭の彼は、言いながら水と冷えたおしぼりを出した。先週あたり、あいさつ代わりに現状を伝えたのだった。私が早くも汗をかき始めているコップの水を手に取って飲んだ。マスターが言った。

「まあ、あんたの線が少しずつ細くなっていったのは俺も見てきた。さすがに今日は若干、顔色は良い方だがな」

 特に返事をする必要も無かったと見える。そう言った彼がカウンターへ戻っていくのを見て、私はおしぼりでベタつく首を拭いた。小さなライトに当てられた自分の顔は、どう他人に映っているのだろうと思いながら。

 薄暗い影の向こうから、私のコーヒー豆を挽く音がする。決まって2人分の豆だ。また私と話をするのだろう。誰もいない日は、2人でそうすることが習わしだった。マスターの幼い娘の話、話したところで解決はしない職場の愚痴、そんななんでもない話をいつも交わしていた。たまにはサービスもしてくれた。その中でも、チーズケーキが美味しかったことを覚えている。

 しかしあの日は、仕事の全てを終えた日で、体中のすべてを絞り出すように終わらせて会社を出た。もはや口を開くのも億劫だった。

 でも、そんな日々も終わった。今後の生活の問題――決まらない転職先や、あまり余裕のない貯蓄額などの問題――もあったが、当面はダラダラとやっていけると安心して、マスターが動かす食器の音を聞きながら、ライトが柔らかく照らすコップの水を見るともなく見ていた。腰を前にずらし、背もたれに埋まるような格好になって見ていた。


 マスターが私のコーヒーを持ってくるよりも先に、ドアが開いた。制服姿の少女が1人、携帯電話で委員会がどうとか文化祭の出し物がどうとかと話しながら入ってきて、私の隣のテーブルに腰を下ろした。静かな店内に、まだ大人になりきっていない彼女の声が響く。マスターと話をする時を少し先延ばしにできることに少し安心しながらも、なんとなく場違いな印象を彼女に抱いていた。

 しばらくしてマスターがカウンターから出てきて、私のテーブルにホットコーヒーを置いた。客がもう1人いるから、マスターの分のコーヒーカップは無かった。それから少女に水とおしぼりを出した。

 マスターがまたカウンターに入って30秒もしなかったあたりで、少女は通話を終えた。緊張している感覚こそなかったものの、なんとなくほっとしたような心持ちになる。疲れて重い腕を動かして煙草を取ってくわえ、点火した(この店は全席喫煙。入口にも大きくそう書いてある)。口に含んだ後、ゆっくり吸って、煙を吐き出した。その際少女を横目に見たが、ここで見たような覚えは無い。実際初の来店か、それに近いようでメニューを何度も見返していた。私は視線を戻して水を飲んだ。

 彼女は学生らしく、奇麗だった。光る黒いポニーテールの髪を照明の影に溶けこませ、薄く陽に灼けた肌、一重瞼の目と、線のいい鼻筋が特に映えていた。膨らんだ学生用の鞄には何が詰め込まれているかはわからないが、少なくとも放課後、家に帰らず遊びに出るような感じには見えなかった。

 その後もしばらく気付かれないよう横目に見ては、艶のある革靴や、放課後までちゃんとハリの残っている制服を確かめた。

 不快だった。

 それが自分の失った、過去の時間の象徴のように感じたのだった。その感情に気付いた私は、しばらく向こうを見ないようにして煙草を灰にし続けた。

 1本吸い終えて、ドアの外には雨が降り出した。夕日が一番赤いときで、その色で雨を染めていた。彼女のテーブルの上には放り出された長財布。その脇には彼女が注文したカフェオレが穏やかに湯気を昇らせていた。

 彼女はカフェオレも雨もそっちのけで、なにやら携帯電話をいじっている。

 そんな姿が、私には不快だった。

 ただ浪費するばかりの時間。いつか終わってしまうだろうとは、ぼんやりと解っているはずなのに、それでもなお浪費する事こそが使命とさえ言わんばかりに、漫然と日々を送り続ける。それを気にかけるでもなく見せびらかす彼女が不快であり、そして同じような日々を送っていた過去の自分を見せつけられているようで、不快だった。

 2本目の煙草に火を点けた私は、そんな姿を振り払おうというつもりで、テーブルに求人誌を広げて読み始めた。せせこましく区切られた多くの広告が、これでもかと自分たちの職場を宣伝している。字が小さい。どこもかしこも似たようなことしか書いていない。知りたい内容は書いてあっても、読みたい内容は欠片もない。脳裏には「どこへ行っても同じだ」という声。

 だから結局、苛立ちへ余計に拍車をかけることになった。介護・人材派遣・飲食・小売り。どこも人手が足りないらしい。やりがいは○○。手取りか総支給額かもわからない月給。機械的に目を通していきながらも、自分が直面している現実と、無駄にした過去とを合わせて持ってきたような少女が隣に座っている、この状況を意識しないわけにはいかなかった。


――このうすぼんやりとした店内と、隣に座る彼女と、せせこましい小間切れの求人広告と、そして自分と。一体何の当てつけなのか。未来すらもわからず、忘れられない過去の後悔があった。どうせ今後も、毎日8時間プラス数時間を耐え、どうにもならない日々を生きていくだろうと、未来を思い浮かばせるこの状況が当てつけでなくて何だというのか。


 浮かんでくるものが何であれ、考えることがバカバカしくなった私は求人広告を放り出し、この場違いな客が帰るまではと居眠りをすることに決め、出来る限り深く背中を沈めて目を閉じた。

 その後、どれほどの時間が経過したかは判断がつかない。ふと何か柔らかな香りがして、のんびり目を開けて見ると、いつのまにか隣のテーブルにいた少女が私のテーブルで何かをしているようだった。少女は自分の後ろ姿で私の視界をさえぎっていて、何をしているのか全く分からない。しかし財布など貴重品はテーブルの上には出していなかったし、先ほどの苛立ちとこれは別。もはや後ろ姿であっても、視界を隠されるほどの近さに役得を感じないわけでは無く、状況的にも薄く目を開けて成り行きを見守っているしかなかった。

 とはいえ、行動自体は数秒で終わってしまった。彼女が座席に戻った後、狸寝入りで動かせない頭と狭い視界でテーブルを確認すると、ライターがなくなっていた。

 それに気付くやいなや、となりからカチッと点火する音が聞こえ、ほどなくして少女の咳き込みと、嗅ぎ慣れた自分の吸っている煙草の匂いが流れてきた。

 何が起こっているのかは理解できていた。彼女に煙草と、ライターを拝借されたのだ。ただ、その理由が私には理解できなかった。単に気まぐれが引き起こした、偶然の出来事であるとしか、考えられなかった。

 あの10代らしいキメの細かい肌をした手と、艶のある黒髪に匂いが付いたとして、自分に何の障害となるのか。どうでもいい。しかしそんなどうでもいい事こそ、いつしかの自分が浪費してきた時間の一部ではないのか。むしろ、今たまたま店の前を警官が通りかかって彼女を補導してくれはしないものか。彼女の望みが何であれ、それが納得いかない形で結末を迎えることを祈っていた。自分で生み出した当てつけの八つ当たり先として。

 しばらくして彼女の咳は落ち着き、吸い方を心得たようだった。さらにしばらくして、静かに私のテーブルにライターが戻された。制服の袖から出る若い手と細い指が見えた。


 念のため数分してから私は目をちゃんと開いて姿勢を正し、ぬるくなったコーヒーを一口飲んだ。甘味と苦みのバランスが取れた、自分の好きな味だった。適当に放り投げた求人広告はそのままで、どうせ読む気も起きないからと、適当に折り曲げてカバンに戻した時、隣の少女は席を立ち、店を出ていった。

 私は入社・退社時に交わした会社の契約内容の写しを適当に眺めながら、改めてコーヒーを飲み始めた。そのうち、八つ当たりとかなんとかいう感情は薄まって、さっぱりなくなった。


 そうしてこれまでになくダラダラとカフェで好きなだけ時間を潰していると、カップが空になった。最後の1杯だろうからとお代わりをマスターに注文すると、しばらくしてカップ2杯分は必ずあるだろうというような、特大のマグカップにコーヒーを淹れて持ってきて、苦笑した。

 そんな時、彼から言われた。

「あんた、隣に座ってたあのコがどうしてたかわかるか?」

「わかりませんね。しばらく寝て、起きたらちょうど出ていくところだったんで。……何かあったんですか?」すべては言わなかった。

「あのコな、泣いたみたいに目を腫らしてたんだ。だから、隣にいたなら何をしてたか知ってるかと思ってな」そう言ってマグカップを置いた。

「さあ、多感な時期ですからね。色々あるのでは?」今度こそ本当に、どうでもよかった。

「青春ってのは、いろいろあるもんさ。そうしていろんなもん抱えて、抱えきれなくなったもんを全部諦めて捨てた結果、オトナになっちまう」

 そう言って、マスターはまたカウンターへと戻って行った。しばらく眠ったこともあって、雑談するくらいの気力は戻ってきたのだが。


 何かを置いてきてしまった。その感覚は解る。しかし、


――わからない、自分が何を置いてきてしまったのか。

――あるいは、諦めたものを、改めて拾いなおすなんてことが可能なのだろうか?

――わからない。


 しばらくはまた、浪費の日々を繰り返すことになる。その間に私は、何を諦めたのか、思い出すことが出来るのだろうか。うすぼんやりとした不安が横たわる。



 考えが固まって、煙草を吸おうと箱を取ると、中の隙間に整った文字のメモが差されていた。

『1本貰います。 ごめんなさい。 ありがとう。』

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諦年 鹿爪 拓 @cube-apple

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