Carbonara

 「前略 


 小包の中身はご確認頂けましたか? 忘れ物がありましたのでお届けしました。次からは気をつけてください。一度なくしてしまったものが必ず返ってくるとは限らないのですから。


 このテキスト一枚くらいなら、きっとあなたは三秒もかからずに読んでしまわれるのでしょう。読まれるのに時間がかからないと思うと、こうして手紙を綴る今、いくらか気持ちが楽になるのが不思議です。

 トキタ君、思えばあなたはつくづく不思議な人でした。

 去年から私がアカデミーの事務員として働いていることを、あなたはご存知なかったのだと思います。先日ご来校の際、受付に座る私を見てあなたは目を丸くしてらっしゃいましたもんね。一限目の授業が始まった頃にあなたがいらっしゃって、お昼の休憩を終えて私が戻ってきたとき、まだあなたの車は校門前に停まっているのが見えました。どなたか教授にご用で来られたのでしょう。どんな話をされていたのか私には見当もつきませんが、随分長いあいだ話し込まれていたのですね。


 私とあなたがまだ新米の研究員だったあの頃のことを、私が夕食にパスタを茹でたあの夜のことを、あなたは今でも覚えているでしょうか?

 あの日もあなたは帰宅早々、白衣姿のまま寒いベランダへ出て、階下を眺めながら上機嫌で煙草を吸っていましたね。仕事が上手くいった日も、思うように捗らなかった日も、あなたはそのルーティーン・ワークを欠かしませんでした。

 偶数日の食事当番だった私は台所に立ち、その後ろ姿を眺めていました。パスタが茹で上がるまで、いつも暇をせずに済んだものです。職場と自宅で、同じ背中がまるで違って見えるのが面白かったんです。

 鍋ふたつを火にかけてお湯を沸かし、右でパスタを茹で、左でパスタソースを温めました。あれは市販のレトルトで、カルボナーラのパスタソースでした。あなたのお気に入りでしたよね。

 そういえば最近、大昔の企業が作っていたレトルト食品に関するデータのコピーがどこかから出てきたそうで、当時の味を忠実に再現した「ボンカレー・ゴールド」というカレーソースが新商品として売られているのを目にしました。私は今、アカデミーから歩いて五分ほどのところにある(天然のノウゼンカズラが植えられた中庭付きの)マンションに住んでいるのですが、すぐ近所でも見かけましたのでもし気になったら探してみてください。私は普段買わないので味は保証できませんが、パスタソースの品揃えも豊富だったと思いますので、おすすめしておきます。

 当時もパスタならば、ましてカルボナーラならば私が自分で作ると言うとあなたはいつも嫌がり、奇数日のメシがまずくなる、と言っては顔をしかめてしてらっしゃいましたね。そう言って気を遣ってくれているものと好意的に理解していましたが、実際はどうだったんでしょう。出世なされてお忙しいのでしょうけれど、今でも料理はしていますか?


 私が茹で上がったパスタを二枚の皿に取り分けているとき、ベランダから戻ってきたあなたは台所へ来て、冷蔵庫の中の缶ビールを探していました。家でお酒を飲むのはあなただけでしたが、あなたはいつも私に飲むか? と尋ねました。飲まない、と私が答え、パッケージングされたパスタソースをトングで掴んで鍋からすくい上げたとき、横にいたあなたが言いました。

 「それ、面白い」

「何が?」と訊くとあなたは得意げな笑みを浮かべて、パッケージの隅に書かれていた文章を読み上げました。「『ハサミを使用すれば、より開けやすくなります。』」

「何が?」

「それ。その袋が」

「じゃなくて」

「その一行が書いてある上の、そこの切れ込みを中心に手で裂いて開けられるようにそのパッケージはデザインされている。しかし確かにハサミというガジェットを使用することで、より開けやすくなると考えられる」

 言われてみれば確かに! と言ってあなたは本当に嬉しそうに笑っていました。疲れていた私もつられて笑いました。二年目のクリスマスイブの夜のことです。


 蛇の開発実験が成功し、渋滞に巻き込まれたように足踏みを続けるしかなかった私達の研究が突然前へ前へと進みはじめ、文字通り手を取り合って喜んだのが三年目の春でしたね。私があの家でお酒を飲んだのは、二人で祝杯をあげたあの日が最初で最後の機会でした。あなたはあの多頭の――」


 ***


 テキスト一枚と謳っておきながら、当然のように二枚目に続いているので俺は読むのをやめる。渋滞に巻き込まれたように? それはお前の手紙だ。

 ビールを喉に流し込み、後味の悪さを消す。ビールはいつでも最高。手元に缶を置き、冷えた指先でそのまま鼻の付け根をぎゅっと押さえる。左目がまだゴロゴロしている。絶対変なデータを入れられたせいだ。

 この義眼が親切にも郵送で返ってきたのは嬉しい誤算だったと俺は素直に喜べる。後日また取りに行ってあいつらに会う手間が省けたのだから。

 言われるまでもない。なくしてしまったものは基本的に返ってこないことのほうが多い。しかし最初から「なくしていなかったとしたら」話は別だ。すでに欲しかった情報は手に入れている。というか目に入っている。いやまだ読んでねえけどさ。


 ハサミを置き、俺は両手でボンカレー・ゴールドの封を切る。至って普通のカレーの匂いがする。当たり前だ。カルボナーラの匂いがしたら困る。ご飯をすでに炊いてしまっているのだから。同じ過去からの贈り物だが、えらい違いだ。くだらない昔話はビールの肴にもならない。

 すでに消去したが、左目の中には手紙とは別に「ボンカレー.jpg」というチラシのデータも入れられていた。つくづく余計なことをするのが好きな女だ。そういえば、さらにそれとは別にもうひとつやたらサイズのでかいファイルが入っていたが、その中身は食後にあらためるとしよう。どうせゴミだ。致命的に食欲が失せる可能性がある。人の義眼にギガ単位のデータ入れるなっての。

 可能性といえば、手紙の内容にしたってそうだ。もしあのしょうもないテキストを俺が先に読んでいたら、俺はこのカレーを買わなかったかもしれない。己の強運に感謝。カレーに感謝。そして、命に感謝?

 いただきます。

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