Beloved

 四十歳の誕生日を、私は結局娘と二人で過ごすことにした。

 研究局勤務の夫は私よりも一回り年下の働き盛りで、家に帰ってくるのは週に一回か、多くても二、三回だ。誕生日も同じ九月で日にちもほとんど違わないので、この十二歳差は広がらないかわり縮まることもなく、ずっと固定されたままでいる。

 高齢出産だった私は娘を授かったときすでにアラフォーで、妊娠中に三十六歳になった。あの日は夫も一緒だった。

 身重の私を気遣って夫が台所に立ち、夕食に野菜炒めを作ってくれた。もやしは水っぽく、人参は生焼けで、キャベツは焦がしているところもあった。そこに塩と胡椒をかけて最終的に無理矢理ご飯が食べられるように仕上げた、いかにも男性が作った料理といった出来栄えだった。この腐った足の小指をぶつ切りにしたような青黒い肉は何の肉かと私が尋ねると夫は実験の成果物だと答えた。絶対胎教に悪いから食べたくないと言って揉めたのが、今となっては懐かしい。夫はモーツァルトをかけながら食べれば胎教の問題はクリアできると言い張っていた。君は本当に科学者か。


 娘が三歳になった去年、初めて近所の公園へ連れて行った。娘と同い年くらいの子どもたちが大勢遊んでいたが、付き添いのお母さん達は全員私より、というか、どう見ても夫と同年代だった。

 どうにも馴染めそうになかったし、彼女らも私とは親しくなれない、という空気を出していたので、以来私は公園に行かなくなった。

 サナも私に似たらしく、引っ込み思案であまり社交的とはいえない性格なので、友達はまだいないようだった。娘が公園に行きたがることはなかったので、私はその点はほっとしていた。しかし年頃の娘を公園で友達と遊ばせてあげないことが、教育上どういう影響を与えるのか、そこに不安がないと言えば嘘になる。

 夫が帰ってきた日に相談したこともあるが、杞憂にもほどがある、などと言っては他人事のように笑われるばかりで、理解は得られないのだなぁと私は納得し、以後夫にこの話はしないと決めた。


 今日も夫は仕事で帰らない。サナを自転車の後ろに乗せて、お昼は少し遠くまで買い物へ行くことにした。特別ケーキなどは買わないつもりだけれど、ちょっとくらい豪華な食事にしてもいいはずだ。ドームの中の気候は相変わらずで快適そのもので、清々しい陽気の中でペダルを漕ぐ。

「ママ」「何ー?」

「公園、探してるの?」

 私は驚いて、思わず自転車を止める。

「公園探してないよ。どうして? 公園行きたい?」

 娘は私の背中の陰でもじもじとして答えない。

 顔を伏せていて、表情も見えない。

「今から公園行く? いいよ、どうする? ねぇ」


 目的のデパートの裏手近くまで来て、私は再び自転車を止めた。

 森だ。

 何、この森?

 立入禁止の柵が置かれているが、少し押せば入れそうだ。工事中でもなさそうだし、人の気配もなさそうに見える。空き地だろうか。

「公園があります」と私は笑うのを我慢して言う。

「うん」

「公園がありますね」

「公園」

「入ってみよっか」

「うん」


 ***


 今度はサンドイッチを持って来ようと思うほど良い森だ。

 楕円形の湖の周りに木々が蝋燭のように並び、その間に詰め物のように藪が生い茂っている。親子二人で散策するにはちょうどいい広さだ。ここは一体何だろう。

 ただの空き地にしては美しすぎるけれど、手入れが行き届いた庭、という感じでもない。私は平らな草むらを見つけて腰を下ろす。サナは斑点模様の猫と遊んでいる。もし私有地だとしたら所有者に許可を貰おう。どうしてもまたここに来たい。

 「おーい」と突然背後から声がして、私はぎょっとして振り返る。

 レジ袋を提げた夫が微笑んでいる。「何してんだよ、こんなとこで?」


 聞けばここは研究局管轄のビオトープなのだそうだ。言われてみれば夫の職場はすぐ近くにある。この区画内で生態系を完結させて野生動物を保護している、とのこと。夫はよくここで昼食を摂るらしく、今日も一人でサンドイッチを持って来たところ、見覚えのある自転車が停まっているのを見つけたらしい。

「びっくりした?」夫は笑っている。

「全然」と私は言う。

「パパ、見て」とサナが嬉しそうに猫を持ち上げてみせる。

「それはイリオモテヤマネコだ」

 九月の太陽が南中し、親子三人を照らす。誕生日おめでとう、と言って夫はサンドイッチを私達に差し出そうとする。


 藪を掻き分けて子どもが現れる。私達が彼を見たのと同時に、その浅黒い肌の色をした風変わりな顔立ちの男の子も私達のほうを見て硬直している。

「こんにちは」と声をかけたのは夫だ。

「ここの管理人の方ですか?」と訊く少年の声には警戒心が滲んでいる。

「まあね」

 少年の後ろにもうひとり、女の子が立っているのに気づく。

「こんにちは」と私が挨拶をする。

「こんにちは!」少女の声は明るい。「いいなぁー、ピクニックですか?」

「君達も食べるかい。味はそこそこいいと思うよ」

「ご飯の前に、手を洗える場所はある? サナさっきイリオモテヤマネコ触ったから、手を洗わないと」

 夫が立ち上がるより先に少女の声が響いた。

「私が一緒に行きます。ねぇー、サナちゃん」

「ねぇー」と満面の笑みを返すサナはなぜか一瞬で打ち解けている。


 森のどこかから蝉の声が聞こえる。「あれはクマゼミ」

 あれは? と湖に佇む鳥を指差す。「インドクジャク」

 我々とともに残された少年はしばらく気まずそうにしていたが、やがて夫のそばに座って言う。

「ここ、勝手に入って、すんませんした」

「いいよ別に。人が増えたら困るけどね、君達二人なら大丈夫」

 表情に目立った変化はないが、緊張がほぐれたように見える。

「君達は猫を探してるの?」

「いや、まぁ、猫も見たいんですけど、その……」と少年は言い淀む。「例外的なもの、を探してるっていうか」

「例外的なもの」と私が言い、「僕達みたいな?」と夫が続けた。


 サンダくーん、と声がしたほうを見ると、サナと女の子が走ってくるのが見える。名前を叫ばれた少年は照れて聞こえないふりをしていたが、やがて億劫そうに手を振り返した。

 待ちわびたランチタイムだ。

「サンドイッチってどれくらい持って来たの? 全員分ある?」

「一人ふたつかな。五枚切りの食パン切って十個作ったから」

「え、作った?」

「そうそう。僕が作ったんだよ、文字通り」

 ふと、木の幹に奇妙な青い生物がへばりついているのが見えた。

「あれは?」と私が指差す。

 夫が答える。「美味しいよ」

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