An Elephants

 ノーマークだった黒のビショップが自陣に滑り込んできた。

 ゴロを取りそびれた外野手のように、盤上のポーンは呆然と立ち尽くしている。

「知ってるか? ビショップは象を模した駒なんだぜ。侮っちゃいけない」

 したり顔でコーヒーを飲む先輩を無視して、私は唇を噛む。戦略を練り直さねばならない。

 天井のナトリウムランプが室内を不気味な橙色に染め上げている。私はオレンジのクイーンを手前へ引き戻す。これが最善手か? と自問自答する。そうに決まってる、と私が答える。本当に? 間違いなく。

「象は古来より記憶力がいいことで知られる」と先輩は象の話を続けたいらしい。私は展開を予想する。ルークで攻めに来るか、ナイトで守りに転じるか? 象の話は今どうでもいい。


 象飼いの民族についての昔話が始まる。

 彼らはクレーターのほとりに集落を構えていた。隕石によって生じた、事実人工的ならざるそのえぐれた地面の底に、彼らは宗教的ダイナミズムを思い描いていたという。

 ときにクレーターは雨季の受け皿として機能した。湖となったのち溢れた雨水は周辺の枯れ川を蛇行して大地を流れた。

 ここでクレーターの湖畔にて無数の象を従え、周囲の緑を愛でながら平和に暮らす彼らの言語表象について触れる。

 「彼らは数量を表す語彙を持っていなかったんだな。もっともこれは未開民族のオリジナル言語にはしばしば見られる特徴らしい。数や量を抽象する概念がなかったわけだ」

 自らが率いる象の群れが全部で何頭いるかとか、またそれぞれの大小といった情報を、彼らは数量として把握していなかった。そんなことがありえるのか?ありえるだろう。


 横殴りの風が吹きつける、ある雨季の夜のことである。

 一頭の小象がぬかるみに足を取られ、クレーターに落ちてしまう。野生の象は元来泳ぎが得意であるが、濁流に飲まれたのではやはりひとたまりもない。小象は抗う間もなく豪雨の荒波に押し流され、人も象もみな寝静まった夜中のうちに、跡形もなく消えてしまっていた。

 さて。

 「小象が消えたことに真っ先に気付いたのは?」

 「親の象でしょう?」簡単なクイズだ、と私は思う。「記憶力がいいので我が子を覚えていた。住民はそもそも頭数が分からないので消失に気付くはずがなかった」

 「ざんねーん!」と先輩はオレンジの歯を見せて笑う。同時にもう一つの黒のビショップが盤上を素早く駆ける。

 あっ、と声を上げるより早くオレンジのクイーンが奪われる。奥に控える黒のルークの銃口は、まっすぐにこちらのキングへと向けられていた。


 雨風が止んだ明け方に目を覚ました一人の住民は、即座に小象の失踪を悟った。続けて起きてきた住民達も、誰から聞かされるわけでもなく直感的にそれを知った。彼らは一頭一頭の象の顔立ちを、人のそれと同じように記憶していたのである。

 やがて住民総出で小象の捜索が始まった。湖畔に残された象たちは朝露に潤んだ草花を食んでいた。

 「結論から言えば、小象の行方は分からず終いだった」

 やむを得ず捜索を打ち切り、とぼとぼと集落に戻ってきた人々はクレーターを見て事の経緯を理解した。その水面は色とりどりの花弁や木の実に覆われていた。象たちは暗く濁った湖面に蓋をして、その周りで一斉に慟哭の涙を流していた。

 「原住民族には呪術師がつきものでな。まぁ、僧侶みたいなもんだ」

 象たちが開いた葬儀に遅れて人が参列する格好となった。象も人も一緒になって、

 「全員で小象の早逝を悼んだんだとさ」

 めでたしめでたしでチェックメイト、と先輩が昔話を締め括る。オレンジのキングはビショップに囲まれていた。

 私はため息をつく。


 「この街の政治中枢のトップは、実は高度機械知性体が務めてるんじゃないかって話、お前知ってるか?」

 先輩はすっかり冷めてしまったコピ・コピ・コピ・コピ・コピ・ルアクを啜る。マグカップはオレンジ色に見えるが、実際はそれが何色なのか、私には分からない。

「当たり前じゃないですか。いまどき下層住民にだって知ってる奴はいるでしょう」と私はチェス盤を片付けながら言う。先輩の背後にはキャスター付きの箱が置かれている。生後間もない象がその中で眠っているらしい。

「持ち駒として盤上に置かれるポーンは八個だが、これらはそれぞれ独立している」

「またあの蛇の話ですか?」

「俺が勝ったら話を聞く。そういう約束だっただろ?」

 軽はずみだった、と私は反省する。研究局の中で私よりチェスが上手い人間がいるとは思わなかったのだ。

「扱いやすくて助かるよ」


 トキタ先輩がヤモリや蛇を用いて行ったという実験の話は、正直面白く聞かせてもらった。机の上には過去のレポートの束が広げられた。

「『当該ヤモリの尾は食感・風味ともに鶏肉のそれに近く』……って、何食べてるんですか!?」

「それは俺じゃねえ!」

 象を選んだのは高度な知性を持つ哺乳類だったからだという。単純明快な理由だからこそ、かえって興味がそそられた。

「脳の体積だけ見れば余裕で人間よりでかいんだぜ」あとは種としての繁殖や系統化が比較的容易だから、と先輩は続けた。

 マグカップを持ったまま立ち上がると、パイプ椅子が軋んだが象が目覚めた様子はない。本当に、そこにいるのか?

 先輩がドアノブに手をかける。そこで私はふと思い立って尋ねる。

「ところで、私が副主任として選ばれたのはなぜですか?」

「同じ理由さ」

 高度な知性を持っているから選んだ、と言われれば悪い気はしない。

「じゃ、おあとよろしく」

 ナトリウムランプの光が届かぬ暗闇に沈むように先輩は消えた。

 研究室には眠る象と私とレポートの山が残された。

 レポートの上には文鎮代わりにビショップが置かれている。

 ゆっくりとドアが閉まる。

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