第20話下 崩壊と再構築、忘却の記憶は突如として一つの運命を呼び寄せる
20話 下 崩壊と再構築、忘却の記憶は突如として一つの運命を呼び寄せる(著者/ソルティア)
その景色は朧げであった。曖昧で、不鮮明で、それでいてぼやけていた。そこにあるのはただ純粋な白と、一人の――少女らしき存在。ただそれすらも朧げで、風もないのになびく銀の長髪と、渉過しそうな程に渉明な衣服――けれどその奥の存在を認識させることはなく、極めて不自然――がせいぜい確認できるものであった。
「また、来たのね」
少女が話しかけるその先には、この景色の中において、対局の、ともすれば不純物ともいえる存在がいた。黒い髪に、暗闇を見つめ続けたような深淵の黒い瞳の少年である。少年の名は――姫神蓮。ではその少女は誰かと言えば、蓮にも見覚えのある人物であった。
「鈴……」
坂上鈴、即ち蓮の恋人である。だといのに、その鈴はまるで自分を鈴だとも思っていないように、蓮に話しかけたのである。蓮は、言葉を失った。
「ここに来るということが、あなたはわかっているの?」
そしてこの会話もまた、蓮を絶句させるに足るものであった。
即ちこれは――
少女は目を細めたような仕草をした後で、嘆息した。
「やっぱりあなたは、分かっていない」と鈴、「本来ここは何びとたりともくるべき場所ではない。六度目の臨死体験は、あなたを確実に死に近づけている」
この会話は、以前――三度目の臨死体験の時に交わした会話とまるで酷似していた。
「鈴……だよね?」
蓮は堪らず訪ねた。そうして尋ねてから、とてつもない公開に襲われた。即ち、予想してしまったのである。できてしまったのである。少女鈴が、否、鈴に見える人物が、なんと名乗るかを。
「私はメーネ。精霊の塔のメーネ」
「嘘だ……」
「またチェスをしに来たようだけれど、残念。あなたの目的は――叶わない」
「嘘だと言ってよ……」
「塔は、崩壊を始めたわ。そうして再構築を始める」と少女、「他でもない、願いを叶える力を執行して、全ての理を正す為に」
見れば、塔と呼ばれていた空間は崩壊を始めており、至るとことで幾何学模様の魔法陣が、その存在を主張するかのように、幻想的なそれを超え、むしろ戦慄を思わせるほどに輝いていた。轟音が鳴り響くでも、地響きが鳴り響くでもなく、また瓦礫が降り注ぐでもない。文字通り、空間が崩壊を始めているのである。だというのに少女も、蓮も、特段何か変化があるでもなく、崩壊を始めているはずの地面の上で立ち尽くしていた。否、既に床は無い。二人は、空中に立っているようであった。
「塔の再構築、以前にもあったわ」
蓮は、「嘘だ」と幾度と無く呟き、膝から崩れ落ちた。一件見えない床が、そこにはあるようだった。
蓮は少女の言葉を、半ば上の空で聞き流していた。
「嘘だと言ってくれ……鈴」
しかし、少女は話を続ける。そこには、二人は互いに会話をしているようで、その実互いに独り言を言っているだけのようにすら見えた。
「魂の精霊との契約、残念だけど、それは不可能なのよ」と少女、「そういえば、願いを叶える力があるのは――他言無用だったわね」
蓮の目には、どこからどう見ても鈴の姿をした、けれど人格も、口調も全くの別人――メーネが写っており、それが一層の絶望が彼に押し寄せた。
「まあいいわ。塔は、その自らの力を自らに執行し、そうして再起動を始める」と少女、「向こう数百年はきっとその力も消失されるはずだもの、何も不都合はないわ」
蓮は、終ぞ沈黙を描いた。
「だから、もう来てはいけない」
「待ってくれ――鈴」
しかし、それを少女が聞き入れる事は無く――
「さようなら、蓮――君」
蓮の視界と、意識が暗転した。
「ただいま」
一人の少女が、少年を背負って玄関の戸を開けた。狐耳が特徴的な少女――サラである。後ろに背負っているのは蓮だ。
共働きの両親は未だ職場らしく、靴はない。だというのに、一足、多いのである。
「お客さんかな?」
そういえば施錠はしていなかったな、とサラは思い返した。
「おぉ、帰ったか」
聞き覚えのある声だった。岡村以蔵であった。
「岡村さん」
サラはちょっとバツの悪そうに、居間へと入っていった。
「ここで待ってれば会えると思ってね」
それは不法侵入とかいう奴なのでは、とサラも少し思うが、しかし気にしない。
「それより、ちょっと待っててくれる?」とサラ、「蓮をベッドに寝かしてくるから」
「どうしたんだい?ボロボロじゃないか」
「ちょっとね」
それっきり、サラは居間を後にし、蓮の部屋に行った。
「話すしか、無いのかなぁ」
本棚で囲まれた蓮の部屋は、正しく研究熱心な彼の姿そのものであった。
綺麗に畳まれたベッドに蓮を寝かせると、サラはそう独り言ちた。蓮は文字通りボロボロであった。服は煤で汚れ、髪も乱れ、ズボンは所々が擦れ、敗れかかっていた。むき出しの腕には擦り傷が生々しく血を流している。
血を消毒し、ガーゼで覆ったら、後はサラにできることは無い。残念ながら、見守る他ないのである。
と、以蔵が戸を三度、ノックした。
「入って、いいかい?」
サラは、「うん」と短く返事した。
「さっきのあれのせい、なんだろう?」
サラは、腹を括るしかないらしかった。
「お前も、気がついていたんだろう?」
頭上の街頭は、やはり老朽化故らしく、だいぶ暗くなった今も、チカっ、チカっと明滅を繰り返していた。
氷矢は、忘れていた記憶を思いだした。それは、ガルフリートにも当然わかっていた事であった。
「そりゃぁな」
と言うのも、忘れていたのはガルフリートも同じであり、であれば当然気づかない筈が無い。そも、今日の氷矢は、やたらと大人しかったのであるから、雰囲気的なものからして気がつかない方が無理な話であった。
「夢の内容も、思い出したんだ」
「ここ最近兄弟が頻繁に見た、っていうアレか?」
氷矢は、頷いた。
「そう。アレも――全部忘れていた記憶だった、らしい」
「記憶の檻――所詮は檻でしかないですから、外からその内容を夢として、見ていたのでしょう」
氷矢は振り返った。声の主は、予想していた人物のそれでは無かったのだ。
「まさか、アンタが御三家の人間だとはね」
その視線の先に居たのは、間違いなく声の正体であった。
「こんにちは、氷矢君」
その声の正体は他でもない、刈谷里香であった。そうしてその隣には、見覚えのない――否、面影だけは知っている、少女のような少年が立っていた。
日は、完全に落ちたらしかった。
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