そして別の人生へ
セキュリティに囲まれない人生もまた
「寺原、世話になったな、いろいろありがとう」
牛尾が寺原の元を訪れて、別れの挨拶をした。
牛尾は実は、退社する決意を固めたのだった。今日は、お世話になった人たちへの、最後の挨拶回りだ。寺原は、ちょっと目を潤ませながら
「いや、こちらこそ、本当のお世話になりました。先日の査察では、残念ながら絡んでいただけなかったですが、牛尾さんがいうことがきちんとできていたら、指摘なくパスできたはずだったのに、そういう人をきちんと評価できない会社に、自分も愛想をつかせてます。でも、生活があると、踏み切れないです。牛尾さんの勇気には本当に尊敬します」
「おいおい、なに買いかぶってんだよ。お前がしっかりやってるからいま、保ってるんだぞ。俺が絡んだからといって、何も変わってないさ。第一な、会社に愛想つかせて辞めるんじゃない。逆だよ、自分に愛想つかせたんだよ。これ以上みんなに迷惑はかけらんないからな」
「何いってるんですか。牛尾さんに限って、そんなことありえませんよ」
ちょっとだけ間をおいて、牛尾は語り始めた。
「実はな、このところ本当にダメなんだよ、あらゆることが。この前な、やっちまってな。フリーのメールサービスがあるだろ?ログインできなくなってな」
「乗っ取られたんですか」
「きっかけはそうさ。2年前かな、自分のメインメールアドレスに、そのフリーサービスから『新しい端末からログイン』というメールが来てさ。みると、明らかに俺じゃない誰かが、ログインしている。つまり、パスワードが破られたんだ。まぁ、それでも実害はないと思ってたんだが、ある程度、リアルな自分とリンクする使い方してたんで、もちろんパスワードは変更したけどさ、あわせて2段階認証にしたんだ」
「へ〜、牛尾さんでも、2段階認証ってやってなかったんですね、ちょっとイッガーイです」
「前に言ったろ、リスクベースだって。このフリーメールは、リスク顕在化しても受容、と判断してたんだ。でも、まぁ、破られちまった俺が言っても説得力がないな。
でさ、その2段階認証の連絡先は、常識で2つ用意するよな。そこはまはやったよ、さすがに。でもな、そのあとそこでチョンぼっちまってな。通常使う自宅置きッパのPCは、信頼ハードとして登録して、これで2段階認証が不要にしてあった。なもので、普段2段階目、うけとることがなかったんだ。で、その受け取る方法は、デフォルトが携帯へのSMS、そして、バックアップが今のPCからなんだ」
「まぁオーソドックスじゃないですか?」
「そうかもな。でもさ、人間って程度の差こそあれ、ぜったい『喉元過ぎれば熱さ忘れる』だよな。2段階認証設定当初は、しばらくのあいだ、はっきりと意識していたけど、だんだん意識が薄れていく。そして、一年後、携帯の機種変をしちまったんだ、それが2段階認証の受け口だということ、すっかり忘れちまっててな」
「はぁ〜、ありがちかもしれませんね、、、」
「でもまぁ、バックアップがあったんだから、そこまでになんか起こっていれば、すぐに、プライマリの認証情報受信手段が機能していないことに気づけたはずなんだけどな。そしてバックアップからはいって、その上で設定直せたはずなんだ。でも、今回はそれに気づかないままになっちゃってた。そんで、運命の数日前だよ。PCがいきなりこけたんだ。酒飲みながらやっててさ、酒こぼしちまって。。」
「ひぇ〜、やっちまったんですね」
「まぁ、普通の電化製品なんてさ、それでも水洗いして乾燥させれば、戻るんだけどな。パソコンもいままで、なんども酒こぼしてるけど、水洗いで1週間くらい乾かして復活させてたよ。酒だと、そのままだと糖分がついちゃって絶対アウトだけどな。洗えばよかろう、と。でも、今回はダメだったよ」
「ぜっく、、、です」
「そもそも、普段使いの信頼ハードに登録しちまったPCで、二段階のバックアップに設定、はないよなぁ、、我ながら」
「で、どうされたんですか?」
「サポートに問い合わせたよ。でもさ、あのサービスってさ、登録の時に身分確認が入らないんだよな、知ってるよな」
「えぇ」
「ということは、登録の時に入力したデータの、どれか複数が一致していること、それが条件になる。どんなに俺が、怪しくないというリアルな証拠をもっていても、そういう問題じゃないってことだよ」
「でも、そのためにリマインダーがあるじゃないですか」
「ははは。あれってな、実は結構なセキュリティリスクなんだぜ。例えばさ、パスワードクラックで、ブルートフォース、つまり総当たり攻撃ってあるだろ?それに比べてさ、リマインダーの総当たり、どっちが楽だと思う?文字数的にさ」
「あ。。。っ、でも、リマインダーでパスワード再発行の場合、受け取りでもう一段階ありますよね」
「ま、そこは個人の考え方だろうな。それとさ、もし身近で本気で破ろうとする人間がいたとするだろ?そしたら、もう、リマインダーなんて、結構しんどいぜ。なものでさ、おれは、あのサービスは事実上使ってないんだ。設定しないと登録できないんで、とにかくキーボード、めちゃくちゃにたたいて『OK』おしだだけなのさ」
「ひえー、ですね」
「まぁ、ヤキがまわってる、ってことさ。今後はもっと増えてくるだろう、こういうチョンボがさ。一事が万事、本業でも判断ミスが続いててな」
「牛尾さんレベルは高すぎるんですよ、一般レベルからみたら、まだまだ全然、雲の上の存在ですよ」
「いやな、もういいんだ。今回の一件で、俺は神様が『一旦人生、リセットしなさい』って諭しているんだ、って、受け止めたんだよ」
「でも、どうされるんですか?」
「ん?もうコンピュータに煩わされないところに隠遁して、細々と、日々に感謝しながら暮らそうと思ってる」
「そうですか、、、もったいないなぁ、、、でも、牛尾さんがご自身で決めたことですもん、その決断が今取りうる最良なんだ、って理解します。本当にお元気でいてくださいね。連絡先は教えてくださいよ」
「あぁ、メールはもう見れないけどな、ハハハ」
と笑いながら踵を返し、振り返らずに手を振りながら牛尾は去って言った。
寺原は、前に牛尾がつぶやいていた言葉を思い出した。
「GOOD LOSERたれ」
どう考えても、神藤より牛尾の方が本部長にふさわしい。でも、なぜかそうならないのが会社組織の不思議。でも、牛尾は、結果として自分が劣っていたのであれば、それを謙虚に受け止めるべきだ、ってサバサバと語っていた。
「でも、なかなか、理想通りには行かないんだよな」
とも。
とうとう、悟りの境地にたどり着いたのかな、と寺原は後ろ姿を見送りながら願うのだった。
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