犬が死んだ話

@Pz5

犬が死んだ話

 犬が死んだ——


 我が家の飼い犬で、ウェルシュコーギーだった。


 小春日和に、散歩の前に少し日向ぼっこをさせようと表に出した。喜んで水を飲み、食べる量が減っていた餌を、その日は久しぶりに目一杯食べ、欠伸をした。その後はリードを着け、門を越えて道路に出ると、食が細くなっている割にはふよふよとした体を太陽がなんとか温めたマンホールの上に寝そべらせ、再び大きく欠伸をしていた。


 のんびりと。

 ゆっくりと。


 最近では、犬なのに耳が遠くなったのか、こちらが散歩道具を準備する音にも反応せず、マンホールに溜まった熱をお腹に集める様に寝転がっていた。

 自力では拭えなくなった目脂を除いてやると、大分白内障の進んだ目で薄曇りの太陽を見つめて、また一つ大きく欠伸をした。


 大きく。

 ゆっくりと。

 のんびりと開かれた口——


 吐血——


 マンホールの上に広がる赤。


 咳き込み、頭も地面につける。

 再び血を吐くと、そのままこと切れた。


 うららかな小春日和であった。

 相変わらす、幸せそうな顔で笑っていた。

 

 小型犬—の割には少し大きかった—としては17年は長生きな方だと思う。寧ろ、中型犬でもそれだけの長寿を得られる方が少ない。

 天寿、だったのだろう。

 この手の体系によくあるヘルニアや高齢による持病もなく、のんびりと生きて、良い頭を自分の食い意地を満たす為だけに全力で用いた、その寂しがり屋は逝った——。



 ペットの死はこれが初めてではない。

 以前にはもっと壮絶な別れも経験した。


 妹が拾ってきて、捨てる訳にもいかず飼っていた猫がいた。

 しかも三匹。

 もともと野良な事もあり、中々懐かなかったが、その中でも特に人を嫌うアメリカンショートヘアの様な柄の、鍵しっぽの猫がいた。

 彼等は、我家の犬—ハンゾウ—の「後輩」だった。

 だから、散歩のとき等は大変で、喧嘩しない様にいつも気を使った。


 その三匹は、ゲージの掃除の為に少し外に出した際、近所の男児が大声で遊んだ為に、驚いて逃げ出してしまった。

 その日も、小春日和だった。


 元々野良だから大丈夫だろうとは思ったが、それでも二晩目には心配になった。

 三日目に全員戻って来た。

 それで安心して、風呂に入れ、餌や水を与えた。

 三匹の中で、最も人を警戒するアメリカンショートヘアの様な柄の猫—これは「プゥちゃん」だとか「ケイスケ」だとか、各人思い思いに呼んでいたが、何故かその全てに反応した—は、理由は解らないが、私にだけは懐いた。

 人間嫌いな気質が共通したのかもしれない。

 とにかく、このミザントロープな灰色の猫の世話だけは、私の専属だったので、ブラッシングまでした。

 そのとき、小さな怪我を見つけたが、もう血も止まっていたので、無視した。


 失踪から戻った三日目、私が学校から戻り、いつもの様に彼に餌をやろうと猫達のいるところに行くと、その灰色の子だけゲージの外に置かれ、タオルケットを敷いた段ボール箱の中にいた。

 酷く苦しそうな息づかいで、そのときだけは、普段は相手にもしない母の腕にもしがみついていた。


—夕方から様子がおかしいの。

—直ぐ病院に連れて行くから、支度できるまで明子が看てて。


 母にそう言われ、タオルケットに巻き、抱える様に抱いた。

 母が獣医に電話をし終え、車の用意が整うと、直ぐに私も彼を抱えたまま乗り込んだ。

 車の中で、フゥツ、フゥツ、と何かを吐き出すのを堪える様な息づかいに変わった。


 救急扱いにしてくれたのか、動物病院に着くと、そのまま診察室まで案内され、彼を診察台の上に置こうとした途端、目を大きく見開き、堪えていた物を出す様に大きく咳き込んだ。


 緑色の液体。

 胆汁。


 それが、私の腕や診察台を染める。

 そして、そのままこと切れた。


 猫パルボと云う致死性の高い、しかも即効性の病だそうで、失踪していた間にもらって来たらしい。

 他の二匹も、次の日に後を追った。

 そのとき着ていたダッフルコートは、人から貰ったお気に入りなのもあったが、それ以上に何とも言い表し難い理由で、10年近く取ってある。

 あの日以来、袖を通す事も無いが、今でも目に入る位置に吊るしてある。


 それに比べれば、ハンゾウは実にのんびりとした、まったく緩やかな死だ。

 目も耳もダメになって来ており、動きも酷く遅くなっていた。

 正直に言えば、死臭を覚える様なときもあり、覚悟はできていた。

 だから、死が迎えに来るまで、愉しくいさせてやろうと、散歩の後にはお風呂に入れ、昨晩買った好物のジャーキーを上げようと思っていた。

 正にその日に、そいつは実にのんびりと死んだ。

 ハンゾウらしい、気の抜けた別れ方だ。


+++


 「大日向さん、ワンちゃんなくなったんですって——?」

 同情心なのか好奇心なのか判断のつかない、無理矢理上げた口の端に絡む様な音で、会社の同僚—といっても先輩だが—、平野庸子(ひらのようこ)は私に声を掛けて来た。

 「ええ、先週——」

 「そう。解るわ。私にもチワワがいてね、うちの子がいなくなっちゃったらと思うと、もう辛くて辛くて、大変よね?」

 ちょうど昼食をとりながら、携帯チャットで友人の丘上マリエとハンゾウの話をしていたので、何とか返すことができたが、すぐにその返事に重なる様に平野は続けて来た。

 私の反応は彼女の期待通りだったようで、もう、彼女の中ででき上がった会話が、彼女の期待する結末に向かって始まっているらしい。


 悪い人ではないのだが、率直な感情では、私はこの平野庸子と言う人物が苦手だ。

 今日も、ネットだか雑誌だかで仕入れたのか、気を抜けば町中どこでも目に入ってくる様な顔を自分の上に貼付けて、目元を大きく見せるメイクに縁取られた、目の輪郭をはっきりさせるカラーコンタクト越しに、私を視てくる。

 「はぁ——」

 私は、心理的にも物理的にも距離を取りたい事もあって、少しだけ返事を溜めた。

 ハンゾウが死んで辛い、という実感が無かったのもある。

 「辛い——といいますか——」

 「うん」

 やはり、間合いを置いてくれない。

 「まだ——、実感ですかね、それが、無いんです」

 「えー?」

 どうも、私は彼女の期待したのとは違う答えをしたらしい。

 喉が詰まる。

 「—そう、辛いのね。わかるわ」

 平野の軌道修正は素早かった。

 「いえ、辛い、といいますか」

 「うんうん」

 ——何だろう?

  やはり、近い。

 「もう、だいぶ歳を取ってましたし、白内障もすすんでいましたから——」

 「そう、大変だったわね」

 「いえ、寧ろ、病気もなくて、こちらも、そろそろ危ないかな、と思っていたので、覚悟ができていた、といいますか——」

 「あら、そうなの?」

 また、喉が詰まる。少し、息継ぎが欲しい。

 「ええ、何と言いますか、だから、まだ実感が無いんです」

 「まあ、そおなの——」


 なんとか合間を入れさせずにハンゾウの死の感想を伝えると、私の反応が彼女の脚本に反したのか、ようやく合間をくれた。

 「ん——」

 彼女が言葉を次ぎそうになったその途端、私の手から携帯がこぼれ落ちる。


 「あ、すみません」

 「あら。ま——」


 間合いは取れたが、それでも自分は何か考えているのだぞ、と言うアピールの音は発している。

 私は、これまでにも、学校や大学等でこの手のアピール合戦にさらされて大分しんどい思いをしてきたのだが、もしかすると私が異常なだけで、普通はこういった「私はあなたの事を気にかけてます」というメッセージを含んだ定型文の応酬を「会話」と呼ぶのかもしれない。

 その意味では、平野は実に巧くそれに適応して来たのだろう。

 実際、仕事の内実は良く分らないが、部署内での彼女は巧く立ち回っていると思う。

 「そうなの。無理はしないでね?」


 彼女の脚本を読み込む事にあてるべき貴重な時間を、彼女の考察に使ってしまった愚かな私に対し、平野は私の予想外の言葉を掛けて来た。

 「無理——?」

 思わず声が出てしまう。

 「ええ、突然の別れでパニクってるのね。解るわ。私も昔彼が突然——」

 どうやら彼女は私にも解らない私の事を理解したらしい。

 私には相変わらず平野の事が解らない。


 そもそも、彼女は何故私に声を掛けて来たのだろう?

 普段から、私はこの職場内でもそれほど強い人間関係は作っていない。意図してそうしている訳ではないが、直ぐに疲れてしまうので、極力仕事以外で体力を使いたくないのだ。

 そういえば、そろそろ職場内で人事異動等がある時期なのだったか。

 平野は、そういう既にでき上がった物に迎合して、巧く対応できている自分が好きな様に感じられるときがある。もしかすると、それに関連して、部署内のポイントを稼ぎたいのかも知れない。

 そういうのが面倒な私にはよく解らないが、そういう求められた役割に応えられているのが、彼女にとっては安心できるのかもしれない。

 そういう風に生きられたら、その方が楽なのかも知れない。

 何も考えず、世間の評価に合わせて、家畜の様に——

 「——でね、それから私思ったの。けっきょく世の中ってそういうモノでしょ?だからね——」


 だから——

 —だから、何なのだろう——?

 喉が詰まる。


++


 気が付いたら夕方になっていた。

 そして、最寄りの駅の、いつものドラッグストアの、いつものペット用品売場の前に立っていた。

 高齢犬用の棚に目をやる。

 —そういえば、前回餌を買ったのは先月のこれくらいの時期だったから、そろそろ次の餌を——


 買う必要なんて無い。

 もう、それを食べるものはいないのだ。


 いつものジャーキーが目に入る。

 いい加減高齢だったから、薄味の方が良いだろうと、一度試しに高齢犬用のをあげたことがある。ハンゾウは少し食べて、そのまま残してしまい、それを使い切らないまま、改めて買い足したりもした、いつものジャーキー。


 「最期に、上げられなかったなぁ——」


 思わず声に出てしまった。

 また、喉が詰まる。

 —なんだっけ。——

 そうだ、トリートメントが切れていたからここに来たのだった。


 会計を済ませ、家に着き、塀のドアを開ける前に周囲を見渡す。

 散歩を催促する突進に備える。ここで注意しないと、思い切り脚にしがみつかれ、ストッキングがダメになる。

 今まで何足ダメにされた事か。

 それでも、嬉しそうな顔をしてくるので、キツくは怒れない。


 —よし、今日は表に出ていない。


 —何をしているのだろう。——


 今日はおろか、昨日も明日も、明後日も、ずっと出ている訳が無いのだ。

 習慣は、なかなか抜けない。


 玄関に辿り着くと、先ずは荷物を下し、ついゆっくり扉を開てしまう。

 飛び出してくる事も無い。


 先ずは手荷物を玄関内にいれ、次に自分の体をゆっくりと入れる。


 「ただいま」


 玄関に入ると、飛び出し防止用の柵が閉まっていた。


 靴を脱いだら、先に靴棚に上げる。

 使い古しのミュールを上げた自分が悪いのだが、あいつは靴をオモチャと勘違いしているので、奪われないようにしないといけない。


 「痛った——」

 脱ぐ際に、少し足先を打つけてしまった。


 そして、奥から走って来ないのを確認して、柵を開ける。


 ——何をしているのだろう?——


 「あら、お帰りなさい」

 母が応えた。

 「お母さん、ハンゾウはもういないんだから、柵はしなくて良いんだよ」

 私は、中に入ると、買って来たトリートメントを置く為に、浴室に向かう。

 「あら、そうだった」

 袋の中身を分別しようとするが、私のモノしか入っていない。

 「もう、そうだよ。確りしてよね」

 トリートメントを袋から出して置く。

 ハンゾウ用品の棚には、未だ歯磨きようのオモチャが残っている。

 「つい、癖でね。しないと落ち着かないのよ」

 遠くから母の声がする。


 それは、解る。

 「もう——」

 脚が、縺れる。

 「あれ?」

 —ハンゾウの体当たりでもくらったのだろうか——


 私は、そのまま倒れた。


 ——あ、まずい——

 目の前には、脱衣場の柱が有った——


+++


 白い蛍光灯がはめ込まれ、白いカーテンが伸びた白いカーテンレールに設えられた、白い天井が視界に広がった。


 「痛った——」


 頭の右側が痛み、思わず手回す。

 「あ、痛った、え?何?あ、痛い!」


 右腕と頭が更に痛んだ。


 「あ、これか——」

 右腕には、点滴用の針が刺さっており、頭にはネットがはめられていた。

 どうやら、点滴の管が絡まり、血管の中にまで届いている針が動いたらしい。


 ヴヴヴヴ


 ベッド脇の携帯電話が鳴り、待ち受け画面にはマリエからのメッセージ通知が並んでいた。


+++


 陽光が力を得つつある午後。

 どこからか蠟梅の匂いもする。

 コートの中で上がった体温を感じて散歩をしていると、まだまだ冷たい風が気持ちいい。

 実に優雅な午後だ。

 入院中でさえ無ければ。


 どうも転んで頭を打った後、丸一日近く意識が無かったらしい。

 意識が戻ってから受けた説明では、たんこぶができた程度で他に外傷も無いが、打った場所が場所なので、検査も含めて後2・3日は入院、との事らしい。


 おおげさな、とも思ったが頭の怪我は怖いので、言うに任せる形にした。

 まだ私の中でも整理がついていないハンゾウの件で、また岡野庸子から話しかけられるかもしれない、という憂鬱もこれで先延ばしにされたし、何より、私自身が入院となれば、その方が話しやすい。


 とは言え、病院の中は中で、皮膚上で繁殖する「招かれざる客」を追い払う力も失せた人間の臭いや、それを誤摩化すための、より鼻を突くアルコールの臭いで充満しており、それはそれで気が滅入るが。


 せっかくの太陽との時間を、そんな瑣末な事でいっぱいにしていると、ふと、目の先のベンチに男が一人座っているのが見えた。

 やや長い黒く艶やかな髪に、血色のいい肌、本を持ちながら組まれた腕もしっかりしている。

 その男は、麗しいとも言える容姿や降り注ぐ光に不似合いな、入院患者用のマークを、ウールトレンチコートの襟に付けながら、どこか物憂げに、どことも無く漆黒の瞳を向けていた。


 —何だろう?怪我じゃなさそうだけど——


 病や老い、死の臭いの充満する場所には似つかわしく無い程の存在感を持った、その男がそこにいる事に違和感を覚え、思わずそちらに視線を固定してしまった。


 長い睫毛に覆われた黒い瞳の位置が動く。

 こちらに。


 —あ———

 目が、逢ってしまった。

 思わず会釈をしてしまう。


 すると、その男は憂いを帯びた瞳はそのままに、口角だけを上げて笑うと、組んでいた手を上げた。


 「どうも。丁度暇でして、少し——お話でもいかがですか?」

 低く、ゆっくりとした抑揚の音の波が耳朶を打つ。

 話しかけるには少し戸惑う距離だったが、その男の声は良く通った。


 「あ、え?私?」

 衰えとはほど遠い、張りのある、やはり病とも縁遠そうな声に、余計に戸惑い少し慌ててしまった。


 「ええ。どうぞ、こちらに」


 男は、こちらが考えを纏める時間を待ったのか、少ししてから、再び口元の笑顔を向けて、彼が座っているベンチの空いてる方を手で示した。


 「あ、はい」

 病室から廊下にまで充満する死の臭いに辟易していた私は、思わずその誘いに乗った。

 まあ、ここは病院からも良く見える場所だし、この人も入院患者のようだから、大丈夫だろう。


 「どうも」

 「どうぞ」

 そう思いながら、男との間に一人分のスペースを開けて、同じベンチに腰掛けた。



 「そうかぁ、検査入院で。入院中にしては随分と軽快に見えたのですが、なるほど」

 黒羽淳(くろはじゅん)と名乗った男は、病練の向こうに有る空を見みながら、そう言った。


 「いやぁ、こんな天気の良い日に、ただぼーっとしてるしか無いのか、と思っていたところに丁度、大日向さんが見えましてね。つい、声を掛けてしまいました」

 「え?でも、確か本を読んでましたよね?」

 「あぁ、これね」

 そう言って黒羽は読みかけの本を取り出した。

 逆光でタイトルが見えない。

 「面白いけれど、ダメなんだ———」


 少し間を開けて、またしても口だけで笑った。

 —ダメ?——


 「そう、ダメ」

 瞳だけをこちらに向け、黒髪の間から、そう笑いかけた。


 「え?あ、声に出てましたか?」

 「ふふ。内容が上滑りしてしまってね。良い事は書いてあるのだけれど、入って来ないんだ」

 本をもてあそびながら、そう呟く。

 声こそ届いているが、果たして私に向けた言葉なのか、判断できなかった。


 「ええっと、黒羽さんは、何故こちらに入院されているのですか?」

 そう問われ、黒羽は何か気付いた様に、本を置きながらこちらに顔を向けた。

 相変わらずタイトルはわからなかった。

 「ああ、僕はね、生きてる事その物——」

 —え?——

 ここで、ひと呼吸置かれた。


 「生きてる事自体が、病なんですよ」

 —どう云う事だろう。この人はおかしいのだろうか?——


 「そう、僕はおかしいんだ」

 そう、再び笑いかける。

 「あ、え?えぇっとぉ——その、あの」

 —見透かされてる?——

 「言葉にしてもらった方が、わかり易いかな」

 「んぁ、その、えっと、『生きてる事』が原因で入院されてるのですか?」

 それを聞き、また笑いかける。


 「ちゃんと言葉通りに受け止めてくれたのは、大日向さん、貴方が初めてですよ。ここ、に限らないけど、医者も周囲の人も、みんな他に何かあるからそう思うんだって、そう決めつけてくるので、いや、まったく、ね」

 —何だろう、解る様な、解らない様な——


 「いわゆる、欝なのですか?」

 「まあ、そうだね。それもそこそこに重いね」

 昼下がりの太陽の下、彼はのんびりと笑顔で、そう応えた。

 「とてもそうには見えませんが——」

 「良く言われるよ。まあ、欝自体は二次的なモノで、他にストレスの原因か何かがあるんだろう、とは医者も言っているからね。ただ、その原因が判らない。だから、『生きてる事』その物が病なんだ」

 「はあ、なるほど」

 私が曖昧に返事を返すと、さらに明るい調子で黒羽は続けた。


 「でも、まあ、流石に自傷や自殺未遂があるとね、入院させないといけないよね」


 —何故、この人はこんなにもあっけらかんとしているのだろう?自分の命なのに——

 「自分の命——だからかな。よく解らないんだ」

 「解らない?」

 この人の距離感に、段々馴れて来た。

 「そう、解らない」

 そこで一旦区切ると、黒羽は片手を自分の顎の高さに上げて、すこし動かすと、人差し指を伸ばした。

 「と言うより命自体が良く解らないから、生についても良く解らない」

 —命——

 「そう。命。例えば、今、僕がここで何かを殺したとしよう——ええっと——」

 そう言って黒羽は周囲を見渡した。


 「参ったなぁ、夏ならそこら中に、蝶だとかなんだとか、もう厭になる程いるのに——」

 そして、また手を顎の高さまで持ってくる。

 癖なのだろうか。


 「ううん、大日向さん、貴方の周りで、最近なにか死がありました?最近でなくてもいいけど、何か印象に残っている死が」


 —また、凄い事を聞いてくる。——


 「つい最近、うちの犬が死にましたが」

 とっさだったので、思わずハンゾウの事を伝えてしまった。


 「ああ、それは、その、変な言い方だけれど、良い例になるね」

 —本当に、厭な言い方だ。——

 「ああ、ごめんね。でも、まあ、実感を伴った方が解りやすいから、ごめんね」

 —人が良いのか悪いのか、よくわからない人だ。——

 「それで、その犬——ええっと——」

 「ハンゾウです」

 「そう、ハンゾウ君、良い名前だね。で、そのハンゾウ君の『死』の後、貴方に何か変化は有ったかい?」

 これから「生」や「死」を語ろうとする羽黒の口からハンゾウの名前を聞くのは、生暖かい鉛を胃から腸にかけてねじ込まれる様な、厭な感じがした。

 喉が詰まる。

 「変化——ですか——?」

 詰まる喉を押さえて、なんとか声を絞り出す。

 「そう、変化」


 「無い訳ではないですが——その、何と言うか、表現が難しいです」

 「そうだね、感傷は有っても、ハンゾウ君の死後も、貴方や貴方の周りの日常は、何も無く進んでいるよね?」

 何も無い、と言う訳ではないが—現に私はこうして入院と言う日常から切り離された状態にいる—、それでも「私の日常」が進んでいるのは、間違いない。

 それでも、納得はいかない。

 納得はいかないが、何か反論できるような物も無かった。


 「そう——、何も—、無いんだ——」


 羽黒は、ゆっくりと、良く響く、周波数すら実感できるような音を出した。

 その音はそのまま続く。


 「そして、ハンゾウ君の死が、何も齎さない様に、僕の死も、何も齎さないんだ」

 ——「死」が、何も齎さない?——

 「そう、何も、齎さない」

 ここは強く、断言された。

 「ハンゾウ君の死が、ただ、心肺や認識、或は臓器の活動や組織の維持再生を停止して、ただの物質に『戻った』のと同じ様に——」

 —ただの物質——

 ハンゾウのふさふさした毛並みを思い出す。


 「そう、ただのタンパク質やカルシウム、水分の塊だ」

 —ただの、物——

 抱えてやると、呼吸の度にお腹を膨らませ、飛びつかれると感じた体温。

 「でも、ハンゾウは、確かに私たちの家族として——楽しんだり、喜んだり——」


 「確かに、その時々で感情の起伏があり、それが僕たちを楽しませ、慰め、或は悲しませる事もある、でも、それはただの価値判断だ」

 —価値判断——?

 「その判断を下している主体も、つまり貴方や僕も『ただの物』になりはてる——と言うより、既にこうやって喋っている『僕』や『貴方』も、ただのタンパク質や水分、カルシウムの塊でしかなく、僕の喉から発せられている『声』も空気の振動によって貴方の鼓膜を振るわし、脳内の電気信号に変換されたノイズでしかない」


 —ただの、ノイズ——

 マンホールの上に横たわるハンゾウや、腕の中の猫が出てくる。


 「そう、無数の塵の、土塊と変わらない、この宇宙の雑音——」


 —ただの、雑音——

 嬉しそうに駆け寄り、ストッキングを破いてしまうハンゾウも、他に懐かなかったのに、私のブラッシングだけは気持ち良さそうに受けてた猫の姿が。


 「それを、ただ露にするのが『死』なのかも知れない——」

 —ただの、ただの、ただの——

 「全く無意味な——」

 —無意味な——

 「『死』」

 —死——


 「もうそこに還ってしまったハンゾウ君や、ここにいる肉塊の僕は勿論、この宇宙もまた、その『無意味』へと向かって行く、最初から無かった様に——」

 こちらを見ていた羽黒は、視線を地面に移した。


 「いや、最初から『無い』のかも知れない」


 そう言うと、笑い声、に聞こえる何か空気を漏らす様な音を発する。


 「『無い』モノがあっては困るね。まったく。無意味なんだ——」

 羽黒の表情は、艶やかな黒髪と逆光に包まれ、読み取れない。


 「その無意味で、いずれ土や塵に還るモノが、エントロピーの増大に抗う為に、他の『命』を奪い、エネルギーを補い、放出する。パンの為に額に汗をする。エネルギーを得る為に、エネルギーを放出する——」

 また、「笑い声」と私が認識している空気の振動が発生する。

 「この苦痛に満ちた世界に立ち向かい、威光を示すべき根拠の神は、既に僕たち自身で殺してしまい、ただ活動を停止する為に活動した挙句の、無意味な『死』——」

 —「死」は無意味——


 「その無意味に向かう為だけに苦痛を受ける『生』——」


  そこまで言うと、羽黒はこちらに顔を上げ、また彼の口から出る「雑音」を、心地の良い、ゆっくりとした周波数の「声」へと変える。


 「ね?こんな世界に『生きている』と、それだけで僕は地獄にいる様でしょ?」

 また、口だけで笑っている。


 「ああ、厭な思いをさせてごめんね。僕自身の話でも良いのだけれど、それだと伝わらないと思って」

 —貴方一人の病の説明をするのに、そんな臨場感なんか求めなくても良いのに——

 「そうだね、ごめんね」

 黒羽は笑って謝った。


 「でも、結局『生』と言うのは、ある状態とべつの状態の何かが、それぞれの『軌道』をもってぶつかった処に生じる結節点でしか無いのだと思う。ある関数と別の関数がそれぞれ関係なしにぶつかって、生じたノイズ、それが『生』なのだとしたら、何とも虚しくてね」

 そういうと、黒羽また空を見上げる。

 吸い込まれそうな、何も無い空を。


 「自分自身の『生』も『死』も無意味な上に、生きている間は苦しみを受け続ける。この世の中は、その苦しみに見合う程魅力的ではないし、実に下らないどうでもいい事ばかりで動いている。同じ無意味なら、そんなモノに合わせて生きてやるのも莫迦らしいし、まだ死んだ方がマシだな——と、ね——」

 そう、空に呟く。

 その雑音が響くには、あまりにも空は空虚過ぎた。


 ふと、疑問が生じる。

 「それに答えが出たら、黒羽さんは楽になるの?」

 こちらを振り返ると、意外だと言わんばかりの顔を向ける。

 「ううん——どうだろうね?」

 また、笑顔になる。


 「色々探したりしたけれど、それが解っても楽にはならないかもしれないと思ってる。もし、その『生』と『死』が織りなす関数空間が美しいのだとしても、寧ろ美しければ美しい程、まだこの無意味な地獄が続くのなら、答えを得る事自体も無意味になって、余計に虚しくなってしまうからね——」

 そう言って、立ち上がった。

 小春日和の青空は、既に赤みを加え始めていた。


 「これも、僕にはダメだった様でね——」

 黒羽がこちらに振り返る。

 彼から伸びる黒い影が、私の胸まで伸びて来た。

 「貴方に上げるよ」

 弄んでいた本を、こちらに差出す。


 「あ、ありがとうございます」

 —私は、お礼を言う必要があるのだろうか?——


 「こちらこそ、相手をしてくれて有難うね」

 黒に包まれた中、やはり口だけで笑った。


 そのまま黒羽は病練の入り口へと向かう。

 手渡された本のタイトルは、ミルトンの『失楽園』だった。


+++


 先週までと打って変わって、今週は強い寒波に見舞われた。

 そんな中でも、霜を掻き分け、梅の莟が芽吹き始めていた。


 検査結果を受け取りに病院へ来たが、大きな病院の常か、2時間以上待たされると告げられた。母は前回私が倒れたときにそれを学習したのか、かなり厚めの本を持参していた。私はそんな付添人を置いて、前回同様、病院の庭を散歩する事にした。

 今回は念のためにと渡された杖があり、不慣れなせいで歩きにくいが、その分、景色はゆっくりと見られた。


 あれ以来、黒羽に言われた事が頭の中で引っかかっている。

 ハンゾウや猫達の死は、あるいはこれから経線するであろう両親や身近な人の死も、果ては経験こそできないが私自身の死も、無意味なのだろうか?

 寒風の中、香りを放つ蠟梅や、常緑樹、これから芽吹き花を咲かせる為に、弱められた太陽光を一身に受ける木々、これらの世界も皆、無意味なのだろうか?

 無意味なのだとしたら、老いや病で体が不自由になっていく中、そこで生きる私は何なのだろうか?


 この思いは、マリエにもぶつけて見た。

 —「無意味なんかじゃないよ。こうやって明子と話してるだけで私は楽しいし、それだけで充分だと思うよ」—

 そう言ってはくれた。けれど、では、その楽しんでいるマリエの存在も無意味なのだとしたら、どうしたら良いのだろう?


 この宇宙がどんなに美しくても、無意味。

 宇宙の中にある私の存在もまた無意味。

 私に関わってくれる人達も無意味。

 この苦しみも悲しみも無意味。

 楽しみも嬉しさも無意味。

 生死どちらも無意味。


 思考が無限後退していく。


 —ここは——寒い———。


 足元の陽光に照らされてキラキラと反射する砂利で、視界がいっぱいになった。

 その砂利に陰が差す。

 その陰の先、前回と同じベンチに、一人の男が座っていた。

 太陽を背にしているのに、逆光で影に呑まれる事もなく、ゆったりと落ち着いた様子に見える。

 グレーのダッフルコートに付いた入院患者の印に似つかわしくない豊かな黒髪を持つ男は、片腕で、体に立てかけた杖を抱えるように支えながら読んでいた本から、顔を上げた。


 「ん?やぁ、どうも——」

 そう云って笑いかけた男は、黒羽ではなかった。

 顔こそ整っているが、年齢のよく分らない、平日の昼間から公園で猫や犬と遊んでいる、何で生計を立てているのかよくわからない人。そんな感じがする男だった。

 「えっと、僕の顔——変かな?」


 —この人も自分を「僕」と呼ぶのか——


 「あれ?」

 男は、再び声を発した。

 「あ、すみません。知り合いかと思ってしまいまして——」

 「ああ、なるほど。その人も、入院中?」

 黒羽の入院期間を私は聞かなかった。

 「だと思います」

 あれだけ「重症」なら、そう簡単に退院する事はないだろうから、入院中だろう。


 「『だと思う』——ね」

 そう言って男は、目だけで笑った。

 深淵から戻ってきたような、柔和な笑顔だった。


 「あ、君も、杖があるのか」

 私が不慣れな杖に体重を預けている事に気付いた男は、読んでいた本に栞を挿んで閉じると、そういって自分の隣を掌で指し示した。

 「よければこちらをどうぞ。まだ、こちらの方が日向だから、多少は楽だと思うよ」

 のんびりとした話し方だ。

 「あ、どうも」

 黒羽同様、低く良く通る声だが、どこか空気の揺れ方が落ち着く印象を受け、促されるままベンチに腰掛けた。

 前回とは逆の位置になり、男の顔が太陽に照らし出された。


 「ちょうど良かった。どうも、本の内容が入らない感じになって来てね——」

 そう言って、やや厚みのある文庫本を弄ぶ。今回もタイトルが見えない。

 「ああ、ごめんね。僕はユキタケと云います。ユキタケタカ。漢字が読みにくくてね、こう書くのだけれど」

 男が指し示した入院証には「雪岳多伽」と書かれていた。

 確かに、なかなか見ない字だが、読めない訳ではない。


 「ええっと、君は——?」

 「あ、すみません。大日向明子と云います」

 「ありがとう」

 そういうと、雪岳はまた微笑んだ。


 「大日向さんは、今日は何故病院に?」

 「前回、検査入院をしまして、その詳しい結果を受け取りに」

 病院での初対面の挨拶は、天気の話以上に、病状の紹介がお決まりなのかもしれない。

 「あぁ、なるほどね」

 「雪岳さんは、なぜここに?」

 「ん?僕かい?僕はね——」

 雪岳はここで軽く宙をみた後、少し笑って、再び顔をこちらに向けた。


 「僕は、もう直ぐ死ぬんだ——」


 実に明るい、何でも無い事のように自分の死を告げた。

 —この人も、まるでひと事みたいに——


 「筋萎縮性側索硬化症と云ってね、他は問題無いのだけど、筋肉が脳の命令を受け付けなくて、段々やせて行って、最期は心臓や横隔膜を動かす筋肉も動かなくなって死ぬ難病、らしいよ」

 「え?じゃあ、動けなくなっちゃうのですか?」

 「うん。動けなくなるし、口も動かせなくなるから、会話も難しくなるね」

 —それは、厭だ。——

 「大日向さんは『ジョニーは戦場へ行った』という映画を知ってる?」

 「いえ、知らないです」

 「まあ、知らないよね、映画の内容はね、ジョニーっていう男の子が一次大戦の塹壕に行って、砲撃を受けちゃう。で、顔も手足も吹飛ばされてしまうのだけど、奇跡的に生きてる。夢の中では自由なのに、起きると何もできなくて、でも意識だけはしっかり有る。そう言う映画なんだけど——」

 —なんて厭な設定だろう——

 また、喉が詰まる。

 「そのジョニーみたいになった後、暫くすると、呼吸もできなくなるか、心臓が動かせなくなるかして、死んじゃう」

 本当になんでもない、他人事のように話す。

 「あの、それって、雪岳さん本人の話、ですよね?」

 「うん、僕の事だね。腕の力もだいぶ落ちたし、もう、脚が大分言う事をきかなくてね」

 そう言って、肩で杖を揺する。

 「なんで、そんなに冷静なんですか?」

 「まあ、流石に数年単位で付合う病気だからね。最初は、なんで自分がって思ったし、受け入れる事もできなかったよ」

 —矢張り、そうなのか——

 「十万人に一人の難病らしいのだけれど、そんなのに当たる位なら宝くじにあたれば良いのに、とも思ったよ。でも、実は宝くじの確率って百万分の一とからしくて、難病にかかるリスクの方が十倍以上高いって分ったときは、逆に笑っちゃった」

 その時の事を思い出したのか、雪岳はここでも笑い出した。


 「ああ、ごめんね。突然笑い出したりして。いや、でも、最初は本当に落ち込んだよ。落ち込んだと言うか、受け入れられなくてね。それまで考えていた『将来』が根こそぎダメになったから、それに堪えられなかった」


 —そう言えば、ハンゾウにも、お気に入りのジャーキーを上げられなかったな——


 「これからの自分が、ただ動かない肉塊になって、無能になるばっかりの無意味な自分だからね、これまでの人生も無意味なんだって、そう思ったら、今直ぐ死んだ方が『正しい』判断なのでは、って」


 —無意味——?

 そうだ。この世界が無意味なら、私もこの人も、ハンゾウも、ネコも、みんな無意味に——


 「その『死』も無意味なのにね。でそれに我慢ならないから、逃げたかっただけなのにね」


 「あ——」


 「うん?」

 思わず、声を上げてしまった私に対し、雪岳が問いかける。

 「何かあったかな?」

 「あ、いえ、その、無意味、と言う事に関して、このまえここで、黒羽さん、と言う人と話してて——」

 黒羽の名を出すと、雪岳の頬が少しだけ揺れた。


 「あー、彼ね。うん、黒羽君」

 そう言うと、雪岳はやや青味の入ったダークブラウンの瞳を横に流した。


 「お知り合い?」

 「まぁ、彼とは、少し、ね。酷い事言われたでしょう?」

 瞳の位置をこちらに戻すと、雪岳はまた微笑みかけた。


 「酷い——と言うか、その——怖い——と言うか——」

 まだ、何を言われたのか、ちゃんとした理解さえしていなかった。


 「まあ、大体分るよ。多分、同じ様な事を言い合ったから」

 —そうなのか——

 「それで、その、無意味、と言うのが、ずっと引っかかっていて」

 「ああ、なるほどね。うん。僕も散々考えた」

 そういって、今度は瞳を斜め上に流すと、彼はゆっくりと考えた事を話始めた。


 「ヤダよね。自分が生きてる事や頑張る事、苦しんでいる事が無意味だなんて、全部無駄だって言われているみたいだからね。まして、僕はこれからドンドン無能になっていくのが決まっているのだから、本当に堪えられない」

 私でさえ戸惑うのだ、まして難病を抱えた雪岳本人なら、余計にそうだろう。


 「でもね、その後散々苦しんで、思ったんだ。あ、別に無意味で良いんだって」

 「無意味で良い?」

 —何故?彼も私も、それで苦しんでいるのに——


 「そう。全て無意味だから、逆に自分で好き勝手に価値を与えて良いんだって」

 「え?無意味なら、無価値じゃないのですか?」

 無意味なら、何をどれだけやっても、なんにもならないのではないか?


 「そんな事は無いよ?価値は関係性の間に生じるモノだから、生きて、感じているモノの中に幾らでも好きなだけ、付けて良いんだ」

 そう言って、空の一点を指差した。

 「例えば、ほら、あの雲。あの雲があんな形なのは、気圧や気温なんかの対流圏の関係でああなっているのだけれど、それは全部原因であって、雲がそうなっている意味は無いんだ」

 「この宇宙も——私も——」

 「そうだね。でも、ほら、あの雲。奇麗だなぁとか思わない?」

 —奇麗?——

 「思わないかな?まあ、個人の好きずきだけど、でも、ほら、今日は特に風が早いから、みるみる形が変わって行く。無意味なのに、僕はそれを面白がってる」


 「はぁ——」

 —この人も、頭がおかしいのかもしれない——


 「まぁ、そうだよね。あ、後あれ、ほら、そこの梅の木。莟が出始めてるでしょ。こんなに寒いのに」

 そう言って今度は別の所を指差す

 「あの莟を見て、『病気に耐えている自分』を重ねる人もいるし、『これから春を告げるたより』と受け取る人もいる。なのに、『あれは受粉する為の準備で種の繁栄こそ動植物の意味だ』なんて決めつけられたら、それ以外の自由が無くなっちゃう。それじゃぁつまらない」


 —まあ、確かに「子供を生むのが種族の役割だ」なんて言われたら、人間も家畜の様にしてしまうのが一番効率が良い——

 「無意味だから、良い?」

 この私の問いかけに、雪岳は嬉しそうに応えた。

 「うん。僕が難病なのも偶然かも知れないし、神が与えた試練や前世の因果かも知れない。でも、難病や無能になって行く、と言うのは何かの原因から生じた結果の状態であって、それ自体に意味は無いんだ」

 「でも、意味が無いのだったら、なんで、そんな苦しい思いを——」

 —無意味なのに苦しまなくてはならないんて——


 「そうだね。だから、その意味から自由になったら、苦しみからも自由になったんだ。自分で勝手に価値を与えて良いなら、この苦しみにも辛さににも価値を与えてみよう、と。全部僕が僕のために祝福してやろうって」


 —祝福?自分の病を?——

 —でも、それは——


 「勿論、ルサンチマンなんかじゃないよ?」

 —先を超された——


 「あれは、ただの諦めに小理屈を付けてるだけだから、祝福はできない。そうでは無くて、主導権は僕の方にあって、全てを僕の幸せの為に価値付けしなおすんだ」

 「でも、無意味なのに?」

 「無意味だから、価値は無限なんだよ」

 禅問答の様だ。

 「無意味さに流されるだけなら、動物の方が遥かに幸せだからね。食べた、美味しい!撫でられた、嬉しい!遊んでもらった、楽しい!痛いのもお腹が空いたのも、みんなその時限りで、直ぐ流れて行っちゃう」

 ハンゾウの間の抜けた顔が頭に浮かんだ。

 より多くの餌を食べるための間抜けな努力を惜しまなかったハンゾウの顔が。


 「でも、困った事に人類は違う。『過去』や『未来』があって、その時々で色々ぐちゃぐちゃになる。中には動物みたいに快不快で動く人もいるけど、多くは利害関係じゃないかな」

 —そう言う中で疲弊して来た——


 「そう言う人を知ってるみたいだね?」

 「あ——」

 思わず声が出る。

 「まあ、そう言う人が『普通』だからね」


 雪岳は目だけで笑うと、話を続けた。

 「じゃあ、人類は何が違うか?勿論、動物的な欲求はあるし、それも大事なんだけど、ヒトが他の種族と最も違うのは『虚構』を使って集団で環境を形成、変革してしまう点だね」

 「『虚構』?」

 —「虚構」なのなら、それは実際には無いのだから、やはり無意味なのではないのだろうか?——


 「うん。意味や価値が有るって思い込む事だね。だから『虚構』には物理的な担保は無いんだけど、その『虚構』によって環境を変えたりする『力』は、もう人類は随分と現実で見せつけている。地球上の大絶滅を何回か自分達でできるし、気候や海流さえ変えてしまった」

 「でも、自分達の首を絞めてますね」

 「そうだね。因果は廻るね」

 今度は、顔全体で雪岳は笑った。


 「で、その『虚構』からどれだけの『力』を引き出すかは『信じる力』による。どれだけ多くの人が、どれだけ強く『信じる』か、そのかけ算で『力』は変わる」

 「物理みたいに限界は無いの?」

 「うん。物理的担保がそもそも無いからね。質量とエネルギーみたいに等式にはならない。まあ、相対性理論とかだと、どちらかに『0』を入れると他方が『無限』になってしまう様な事もあるけど、それは『特異点』として、今は『事象の地平面』の向こうに押しやってるね」

 次から次へと言葉が出てくる。


 「物理的制約が無いから——」

 「そう、だから、価値は無限。現に、銀行は実際に用意している現金の十倍までは『あることとして』決済できるし、例えば物の値段だって、その価値を納得させられるなら、無限にできる。自分の好きなモノやブランドになら、幾らでもお金を払える人がいるでしょ?それと同じ——」

 そこまでいって、雪岳は口だけで笑うと、—まあ、僕も収集癖が凄いから、人の事は言えないけどね—と小さく漏らした。

 理解できなくもない。

 「で、困った事に——」

 雪岳は続けた。

 「その『力』の強さは『虚構』の『善悪』の区別無く引き出せるんだ。民族、主義、国家、家族、仲間、何でも良いし、組合せても良い。最悪はジェノサイドに繋がるけどね——」

 「『アウシュヴィッツ以後、詩を書く事は野蛮である』——」

 私は、詩が好きだったので、この言葉を知った時は、本当にびっくりしたし、いまだに引っかかっていた。


 「うん。そう言う事。で、色々な『虚構』の組合せがあるけど、一番強いのは『お金』かな。そうなると、僕みたいな無能になって行くのは無価値—どころか大赤字だと言う事になっちゃう」


 —ブランド、ステータス、スペック、様々な表現でそれに振り回される——

 —それに、もううんざりはしていた——

 —でも、価値が無限なら、ハンゾウや猫の死も、私にとっては無限の価値になり得るのだろうか——?

 —私の命や苦しみも——?


 「黒羽君は、それにうんざりして、全部を見限っちゃったんだ——」

 私は、黒羽の名を聞き、顔を上げる。


 「だから彼の『虚構』には『虚無』が納まり、何も引き出せなくなっちゃった。元が『0』なら、何をやっても『0』だからね。本当に無意味になっちゃった——」


 ヴヴヴヴヴ。

 携帯が震える。


 見ると、母からの連絡で、次が私たちの番だと言う。


 「あ、すみません——」

 思わず、謝ってしまう。


 「いや、大丈夫だよ」

 そう言うと、雪岳は目で微笑んだ。


 「いや、ありがとう。実はね、黒羽君から渡された本を読んでいて、ついそれへの反論を考えてしまっていてね」

 そういって、先程の文庫本を重そうに持ち上げる。

 「でも、巧く言葉に纏まらなくて、大日向さん、貴方が来てくれたお陰で纏められたよ」

 「いえ、こちらこそ」

 まだ、何を言われたのか、整理できていなかった。

 「これも、黒羽君が『虚無』をぶつけてくれたお陰だね。彼には感謝しないと」

 また、空を見る。

 —「虚無」をぶつけてきたから感謝する?逆なのでは?——


 「あ、この本、君に上げるよ。もう、僕は答えが出たからね」

 「え、でも——」

 「大丈夫。君に渡った方が、黒羽君も喜ぶはずだよ」


 —喜ぶ——

 —「はず」——?


 「彼、死んだんだ。首をくくってね——」


 —え——?


 「だから、君も君なりに彼に応えてあげてね」

 雪岳はそう言って目だけで微笑んだ。


 渡された本のタイトルは、ニーチェの『善悪の彼岸』だった。


+++


 親友が死んだ——


 学生時代からの親友で、明るいのにどこか寂しげで、美人なのに男子からは遠巻きに見られていた。まあ、文学部で詩が好きな女子なんて、そんなものなのかもしれない。


 手足の先から命を奪っているのではないかと思われる程の厳しく寒い日が続いた夜中、病院から連絡を受け、駆けつけた。医者や看護師も集まり、色々と処置をしたら、その時は収まり、日が昇り始めた。夜中までの寒さが嘘の様な、小春日和を伴った夜明けだった。その朝靄の中、元々弱っていた心電図の音が、再びさらにゆっくりとなった。


 ゆっくりと——

 のんびりと——

 心電図が平坦になった。


 彼女の病は筋萎縮性側索硬化症と言う長ったらしい名前で、段々動けなくなり、閉じ込められていくと言う、何とも厭な難病だった。しかも、症状の出始めが喉からだったので、同じ病気の他の人に比べて、死に至るまでの進行が早かった。

 学生時代も良く転んだり、携帯電話や物を取り落とす娘だった。

 頭が良いのに抜けている点がある彼女の特徴だろう、位に考えていたが、その後の検査で難病である事が判明した。

 その後は、何年も一緒に付合ってきた。


 だから、覚悟はできていた。


 ただ、彼女は、見舞いに行くたびに、何故かこちらを励ましたり勇気づける様な事ばかり言ってきた。病気が判明する直前位まで、犬が死んだ事や職場での関係が巧くいっていない気がする事だとか、あるいは「無意味」に囚われて落ち込んでいる、とかの事を散々ぶつけてきて、こちらが励ましてたのに、いざ病床に伏して、リハビリ(と言う名の進行を遅らせるためだけの、賽の河原で石を積むような作業)を始めると、立場が逆転した。


 何故か、彼女は自分の苦しみだけでなく、こちらの愚痴などまで一緒に悩み、自分達の糧にする方法を考えてくれた。

 最初は、病気に対する辛さや恐怖を紛らわす為に、意識を高く持とうとしているのだろうか、位に考えていたが、話し合う内に、少しずつ彼女の意味が解ってきた。

 彼女は本気で、自分の苦しみに自分なりの意味を与えようとしていたのだった。

 しかも、めいっぱい、自分の死を幸せに繋げる形で。


 —私が幸せに死なないと、ハンゾウの死も無価値になるから。黒羽さんや雪岳さんの死も——

 —だから、マリエ、貴方も幸せになってね——


 良く分らないが、彼女はリハビリで挫折しそうになったり、「虚無(彼女はそう呼んでいた)」に呑まれそうになると、そう言って自分や私まで鼓舞していた。


 そして、確かに、私は彼女に会う度に、どこかで救われていた。


 今、このコンクリートの塊と金属の扉で区切られた向こうに、彼女、いや、彼女だった死体がある。

 そして、無機質な扉の前にある台、その上に彼女の写真が置かれていた。

 顔全体で、穏やかに笑う、まだ立ててた頃の彼女の顔。

 その横には、位牌、というよりただの名札が立ててある。

 そこには、戒名ではなく(彼女が自分で断ったらしい)普通の名前が書かれていた。

 「大日向明子」——と


 彼女、明子が私に宛てて遺した闘病中の日記をめくる。

 

 その最初には、こう書いてあった。


 「犬が死んだ——」



+了+

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犬が死んだ話 @Pz5

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