第75話 報われない想い。

 自室のベッドで何度目か分からない寝返りを打つ。

 時間の経過がひどく緩慢に感じて、今が何時なのかも分からない。


 でも、どうでもいい。

 何もかもどうでもよくなっていた。


 もう何日も学校を欠席している。

 それどころか、食事も取っていない。

 何も喉を通らないのだ。

 ずっとベッドの中で布団にくるまっている。


 浅い眠りと目覚めを繰り返すこと何回目か。

 私はただひたすら怠惰に、無気力に、時間を無為に過ごしていた。


 まるで前世に戻ったみたいだ、と思った。


 引きこもりだった前世の私。

 たまに起きてネットサーフィンとゲームをするくらいで、毎日のほとんどを寝て過ごしていた。

 ただ死んでいないだけ。

 そんな生きた死体だった。


 今世はああはならないって決めていたのに。

 結局、私は私ということなのだろうか。


 ガチャリ、と音を立てて扉が開いた。

 仁乃さんが帰ってきた。


「お姉様……起きていらっしゃいますの?」

「……」


 私は狸寝入りしようとしたのだけれど――。


「っくしゅん」


 扉から入ってきた冷気に、思わずくしゃみをしてしまった。


「おはようございます、お姉様。おかげんはいかがですの?」

「……」


 答えるのも億劫で、私は仁乃さんの問いかけを黙殺した。


「……お食事をお持ちしましたわ。何かお口に入れませんと」

「……いらない……」


 何も食べたくない。

 食べたら戻してしまいそうだ。


「固形物がダメそうなら、せめてこちらのスポーツドリンクを。何も口にしないよりはマシですわ」

「ありがとう。でも本当にいらないから、放っておいて」


 仁乃さんの声がとても遠くに聞こえる。

 まるで私だけ夢の中にいるようだ。


「お姉様……。お辛いのは分かりますが、このままではお姉様まで参ってしまいますわ」

「……」


 このまま死ねたら、いつねさんに会えるのだろうか。

 それとも、またどこかに転生するのだろうか。


 そういえば、最初にいつねさんと会った時、『チェンジ!』にこんな子いたかな、と疑問に思った。

 今にして思えば、当たり前のことだった。

 いつねさんは、ゲーム本編開始前に死んでしまうから、ゲームの中では登場しなかったのだ。


 この世界はゲームに酷似している。

 でも、みんな生きて、そして死んでいく。


 そう。

 みんな、いつかは死んでしまうのだ。


 いつねさんのように。


 私は布団を頭からかぶって、それ以上思考が進まないように自分の殻に閉じこもろうとした。


「お姉様、お風呂お先にどうぞ。洗濯物は洗っておきますわ」


 そんな私の様子に処置なしと思ったのか、仁乃さんが諦めたように言った。

 そういえば、もう長いこと、洗濯物などの家事を仁乃さんに任せっきりだ。


「……仁乃さん……面倒なら……私の分はいいから……」

「何をおっしゃいますの。いいから、早くさっぱりしていらっしゃいませ」


 追い立てられるように浴室へ。

 寝汗でぴったりと肌に貼り付いた下着とパジャマを脱ぎ捨て、乱暴に洗濯カゴに放った。


 シャワーを浴びても、爽快感はなかった。

 ぬるいお湯がなんだか不快で、温度を最低にしてみた。

 お湯が冷水に変わる。


 冷たい……気持ちいい。


 感覚が徐々に鈍くなっていく。

 世界が遠ざかる。

 時間の感覚がなくなっていく。


「お姉様? あまり長湯しますとお身体に障りますわよ?」


 遠くで何か音が聞こえるけれど、頭のなかで意味を成さない。


「お姉様? 大丈夫ですの?」


 このまま……何もかも無くなってしまえばいい。


「……お姉様、失礼しますわ」


 浴室のドアがそろそろと開けられ、仁乃さんが顔をのぞかせた。


「なっ!? お姉様、なんてことを!」


 ……あれ?

 仁乃さんが横に見える。


 違った。

 いつの間にか、私が倒れていたんだ。


「この時期に冷水のシャワーなんて、何を考えていますの!」

「仁乃さん……濡れちゃうよ……」

「少しお黙りになって!」


 浴室からかつぎ出されると、バスタオルを何重にも巻かれた。

 暖房が強にされ、部屋の温度がぐっと上がる。


「お姉様……。本当にどうしてしまったんですの……」


 仁乃さんは私を抱きしめながら泣いていた。

 ごめんなさい、仁乃さん。

 よく分からないけれど、ごめんなさい。


「私ではダメなんですの?」

「?」


 仁乃さんの言っていることが理解できない。


「私は、お姉様を愛していますわ」

「……」


 またいつもの冗談……かな。

 でもごめんね。

 今は笑える元気がないの。


「真剣、ですのよ? もう誤魔化しませんわ。私は一人の女性として、お姉様をお慕い申し上げております」

「……仁乃……さん……?」


 何を言って……。


「お姉様を取り戻すためなら、どんなことでも致しますわ。たとえ、世間から後ろ指さされるようなことでも」

「……」


 仁乃さんの顔を改めて見つめた。

 頬が上気している。

 興奮……している?

 視線は私の胸元や腰のあたりをさまよっているように感じる。


「お姉様、お嫌なら仰って。でないと私、お姉様を……奪ってしまいますわ……」

「……」


 仁乃さんの顔が近づいてくる。

 ああ……キスされようとしているんだな、とぼんやり思った。

 別にイヤじゃない。

 ただただ、どうでもいい。


「……よろしいんですのね?」

「……」


 仁乃さんが目をつぶった。

 唇が触れ合うまで、もう十センチもない。


「いつねさんのこと……忘れさせてくれますか?」


 何の気なしに言った言葉で、仁乃さんは凍りついたように動きを止めた。

 見開いた目に、みるみる涙がたまり、こぼれ落ちる。


 ああ、そうか。


 ――あなたはいつねさんの代わりになってくれる?


 私はそう言ったに等しい。

 何という酷い言葉だろう。


 仁乃さんは私にのしかかるようにしていた身体を静かに離し、私の身体に巻いたタオルを丁寧に整えると、静かに部屋を出て行った。


 私はなんて愚かなのだろう。

 仁乃さんまで傷つけて。

 本当に、救いようのない大馬鹿者だ。


 その日、仁乃さんは休学届を残して、学園から姿を消した。



◆◇◆◇◆



 仁乃さんがいなくなってから、また何日かが過ぎた。

 部屋には私だけ。

 気にかけてくれる人もいなくなり、私は怠惰の極みにあった。


 洗濯物も放りっぱなし。

 仁乃さんが洗濯して整理しておいてくれた下着の替えも、そろそろ残り少ない。

 パジャマはとっくに汚れて、汗臭い匂いが染み付いていた。


 部屋の暖房は切ってある。

 暖かいと、思い出してしまうのだ。

 あの、いつねさんのぬくもりを。


 食事は相変わらず取っていなかった。

 仁乃さんの残していった、スポーツドリンクをちびちびと飲んで乾きを癒やすくらいだった。


 もともと心許ない体力は落ちる一方。

 寝たきりで過ごしているため、だんだんと手足が衰え始めている。

 トイレとお風呂くらいにしか動かないのだから、当然だろう。


 仁乃さんが姿を消してから数日は、何人かの友人が様子を見に来てくれていた。

 実梨さん、佳代さん、幸さん、冴子様――みんな、私にやさしい言葉をかけてくれた。


 そして、その全てを私は拒んだ。


 もう放っておいて欲しかった。

 一人で消えて行きたかったのだ。


 そうして、飢えも乾きも感じなくなりつつあった頃。


「よお。しけた顔してるな」


 私の部屋に冬馬がやってきた。

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