第56話 公開討論会(中編)。
「時間になりました。ご着席下さい」
十分はあっという間だった。
「討論を始めます。議題は各候補者の公約についてです。制限時間は百二十分とします。発言は自由にして頂いて構いませんが、生徒会選挙の討論会であるという趣旨を踏まえて発言して下さい。それではどうぞ」
いよいよ討論会の開始である。
冬馬は弁も立ちそうだが、果たしてどうだろう。
「あー。えっとね。提案があるんだけど」
冴子様や冬馬が口を開くより先に、神楽様が言葉を発した。
「よそ行きの口調はやめにしない? 先生方には失礼に当たるのは百も承知だけれど、これは学生の代表を決める場だしね。普段の口調で話した方が、話しやすいと思うんだよ」
すでに砕けた口調になって、神楽様がそんなことを言い出した。
「私は別に構わないけれど……」
「オレもです。でも、お二人は先輩ですから、そこはけじめを付けさせて頂きます」
二人も異存はないようだ。
「じゃあ、そういうことで。でさー。冴子の愛校心云々っていうあれだけど、僕は違うと思うんだよねー」
「どういうことかしら?」
「愛校心を育てようという意図が先にあって、愛校心が生まれるんじゃなくて、いい学校にすれば、自ずと愛校心は生まれてくるものだと思うんだよ」
「おおむね、神楽先輩に賛成です。その二つの順序が逆になるのは不自然だと思います」
最初の標的になったのは冴子様。
しかも神楽様と冬馬の二人がかりだ。
しかし、冴子様の微笑みは変わらない。
「別に私はどっちが先という議論をするつもりはないわ。その二つは同時に成立するものだと思うから。鶏が先か卵が先かを論じても無意味じゃない? 重要なのは、愛校心はあって困ることはないということよ」
「……」
「いやいや。愛校心だって、過ぎれば十分害になるよ?」
様子見に転じた冬馬とは違い、神楽様はなおも噛み付く。
「エリート意識っていうのは厄介だ。気が付かないうちに自分を縛ってしまう。そしてエリートでない人っていうのは、そういう匂いに敏感だよ。ああ、愛校心とエリート意識が違うっていうのは無意味な反論だからね。百合ケ丘がエリート校だっていうのは、客観的な事実なんだから」
「それは愛校心が過剰になった場合でしょう? 応援歌をみんなで作って歌い継ぐことが、そんなに危険な愛校心に結びつくとは思えないわ。だって、応援歌なんてどこの高校にも普通にあるもの」
これは冴子様の言い分の方が説得力がありそうだ。
神楽様の批判は、議論の一点を過大評価しているに過ぎない。
「第一、そんなことを言い出したら、神楽君の自由制服制だって、公序良俗に反する格好をする可能性があるって言えるじゃない」
「あはは。それは大丈夫。さっきは時間がなくて端折ったけれど、ちゃんと公序良俗に反しない常識的な範囲でっていう文言は付け加えるから」
冴子様の反撃を、神楽様はさらりとかわす。
こちらもまだまだ余裕のようだ。
「常識の範囲内でって、結構曖昧じゃない?」
「そんな国会答弁みたいなこと言わないでさー。これは百合ケ丘生への信頼だよ。これが崩れるようなら、何もしなくたって百合ケ丘はもうどうにかなっちゃってるさ」
「オレも、百合ケ丘の学生が学業に差し障りがあるほど非常識な格好をしてくるとは思えません」
冴子様の追撃も不発。
でも、なんだろう。
冬馬がおとなしすぎる気がする。
「学業といえば、冬馬君の文化・芸術教育推進だけれど、それって理想論じゃないのかな?」
神楽様の矛先が、とうとう冬馬に向いた。
「と、言うと?」
「現状、学校教育には時間的制限があって、優先される目的は希望進路の実現な訳だよね。そりゃあ、教養はあった方がいいにしても、それを高校の先生方に求めるのはどうなのかな?」
「そうね。そういうことは各々が自主的に学ぶか、大学の教養課程で望むべきじゃないかしら」
さあ、冬馬はどう乗り切る?
「理想論と言われることは覚悟していました。ただ、こう考えることも出来ませんか? 現状は理想から現実に逃げているって」
「ふーん?」
「そもそも文化・芸術教育は、受験勉強よりも優先順位が低いとはオレは思いません。さっきの冴子先輩の言葉に似ていますが、同時に必要とされるものでしょう。それに、確かに自主学習や大学でも学べるかもしれませんが、この手のものは、早いうちに習わないと身につきませんよ」
「まぁ確かに、文化的・芸術的教養って、頭で理解して使うんじゃなくて、呼吸するようにできてないといけないものよね」
「ふーん……一理あるか」
何とかしのいだだろうか。
ナキのあの一言がなければ、危なかったかもしれない。
「それより神楽君、あなたの言う自由座席制って、言うほどいいものかしら」
「何か問題かい?」
「例えば、目の悪い学生はどうするの?」
「そういう場合は特例を設ければいい話じゃないかな」
「友達同士で座るのだって、結局は椅子取りゲームに勝たないといけないのよね? 先生方の立場になってみても、学生の把握が大変じゃない? メリットよりもデメリットの方が多い気がするわ」
「極端な話、早い者勝ちな訳ですから、部活動をしている学生なんかは、不利すぎると思います」
「うーん……そうかなぁ……」
神楽様、一つ黒星だろうか。
「冴子の教員評価もメリットよりデメリットの方が多いように思うけどなー」
「どういう点が?」
「いわば衆愚教育とでもいう状況になりはしないかい?」
衆愚とは、主に衆愚政治という熟語で用いられる言葉で、自覚のない無知な市民のことを指す。
今回の衆愚教育であれば、自覚のない無知な学生に迎合した教育くらいの意味になる。
「実際、教員評価の導入には賛否があるようだし」
「我が校の採用試験を合格するような教員も、入学試験に合格するような学生も、そんな愚かなことをするとは思えないわ」
「それこそ、先ほど神楽先輩が仰った百合ケ丘への信頼ではありませんか?」
「……それもそうだね」
あまりしつこくつつかずに、すっと矛を収める神楽様。
ここに来て神楽様がやや劣勢、冴子様が一歩リードというところか。
それにしても、やはりおかしい。
先程から、議論の主導権争いをしているのは冴子様と神楽様で、冬馬は完全に出遅れている。
冬馬のように頭の切れる男が、こんなにおとなしくしているはずがない。
何か狙いがあるのだろうか。
「冬馬君の学費削減の件だけど――」
冴子様が冬馬の公約に矛を向けた。
「我が校の栄養士兼食育担当の方に聞いたことがあるのよ。この学園の食堂制度の目的を」
「ほう?」
「確かに食堂の食事は割高だわ。無駄に豪華な品目もあるしね。でもそれにはちゃんと理由があるの。様々なテーブルマナーを身につけることが、目的の一つに入っているのよ」
そういえば以前、テーブルマナーが新入生の一部にとってハードルになっている、みたいなことを言ったけれど、何か関係あるのだろうか。
「食費が定額ならやっぱり高いものを頼むわよね? でもそれには相応のテーブルマナーが必要とされる。必要に迫られたら、テーブルマナーを覚える。そういう仕組になっているのよ」
「へえ、なるほどねー」
神楽様も関心したような声を上げた。
あの無駄にそろったカトラリーの数々は、意地悪という訳ではなかったのだ。
「なるほど。勉強になりました。でも、それは変動後納制にしても同じことが出来ます」
冬馬に怯む様子は全くない。
「大体、テーブルマナーなんて、覚えるまでそんなに時間かからないですよね? どんなに疎くたって、一ヶ月もあればひと通り覚えられます。テーブルマナーを覚えることが目的なら、それを明示して講習でもやればいい」
「日常的に使っていないと、忘れるわよ?」
「それは一理ありますが、だからと言って定額前納制を肯定する理由にしては弱すぎます。費用対効果の問題だ」
費用対効果とはかけた費用に対して、どのくらいの効果があるかということである。
冬馬は、食堂費を定額前納するという費用に対して、効果がテーブルマナーの取得だけでは、効果が低すぎると言いたいのだ。
「実際、どんな形で変動後納制にするつもりなんだい?」
神楽様が追撃をかける。
「食券制を導入します。券売機はコストですが、節約できる費用の総額に比べたら、大した額じゃないそうです」
「ふーん……」
今度も何とかしのいだ。
でも、議論の主導権を握らなければ、どうしても聞き手の印象は薄くなってしまう。
そのことを冬馬が分かっていないはずはないのに。
「冴子のOB・OG会への参加奨励だけど、僕はあまりいい気はしていない」
「なぜかしら?」
「エリート意識醸成への影響が、さっきの応援歌の比ではないからさ。はっきりと有害じゃないかい?」
「それは違うわ。これはむしろ、正しいエリート集団形成と、利益追求を目的とした現実的な提案よ」
再三に渡る神楽様の執拗な批判にも、冴子様はまるで堪えた様子はなく、朗らかに笑っている。
「ノブレスオブリージュという言葉はご存知?」
「うん」
「知っています」
ノブレスオブリージュとはフランス語で「高貴さは義務を強制する」くらいの意味を持つ慣用句である。
貴族に自発的な無私の行動を促す明文化されない社会の心理を表すとされ、エリート層が社会の模範となるように振る舞うべきだという社会的責任に関して用いられる。
「ノブレスオブリージュの精神は高潔で立派だわ。西欧の価値観がそのまま日本で通じるとは思っていないけれど、日本のエリート層にはこれが決定的に足りない。だから、私たちからそのあり方を変えていくのよ」
冴子様は続ける。
「でも、一方で日本でエリートであるためにはお金とコネが必要なことも悲しい事実。だから、私たちで助け合うの。百合の集いへの参加奨励は、理想と現実を両方見据えたものだと自負しているわ」
高らかに宣言する冴子様に、神楽様からも冬馬からも批判の声はもはやなかった。
とはいえ、そこで諦める神楽様ではない。
「僕の目安箱だって捨てたもんじゃないよ。みんなの声に耳を傾けるっていうのは民主主義の基本中の基本だからね」
「確かにそうね。でも、それは本当に基本中の基本。むしろ、それが出来ない者には人をまとめる立場に立つ最低限の資格すらないと思わない?」
「同感です」
「……」
ここに来て、冴子様がいっそう優位に立った。
冴子様のあの弁舌の後では、神楽様の目安箱は弱すぎる。
さらに言うなら、相槌を打つだけの冬馬など問題外だ。
「冬馬君? 私、君にはもうちょっと期待していたのよ? あの和泉ちゃんが気にかける相手だもの。もっと手強いと思っていたわ」
「オレは自分にできることは十二分にしてきたつもりです」
「その結果が恋愛に関する価値観の啓蒙? 上手いこと理論武装したつもりかもしれないけれど、誤魔化されないわよ? あんなのインパクトだけの薄っぺらい主張だわ。批判するまでもない」
「そうでしょうか?」
「僕も同感だね。恋愛について学校が口を出すなんてこと自体が間違ってるよ。それこそ、自由にさせて欲しいかな」
旗色が悪すぎる。
冬馬はここからどうするつもりなのだろう。
まさか、本当に手も足も出ないのだろうか。
「薄っぺらい主張……ねぇ?」
冬馬が笑った。
――肉食獣の笑みで。
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