第38話 学園祭に向けて。

 ナキとの交渉が決裂に終わってから数日後、学園内は学園祭ムードが高まっていた。

 百合ケ丘の学園祭は、一般の高校の学園祭とは少し趣が異なる。

 真面目系とエンターテインメント系がはっきり分かれるのだ。


 クラスごとの企画は真面目系――いわゆる研究発表が行われる。

 各クラスアカデミックなテーマを決めて、それについて研究をして展示を行う。

 何をテーマとするかは自由なので、真面目系と言ってもピンからキリまである。

 目玉焼きに何をかけるか(去年見に来たけれど大真面目で面白かった!)から相対性理論まで何でもアリである。


 私の属する1年A組は哲学系の研究をすることになった。

 テーマはクオリア。


 wikipediaによれば「クオリアとは、心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面のこと、とりわけそれを構成する個々の質、感覚のことをいう。日本語では感覚質と訳される」とある。

 何だか難しそうだからパス、と思った人はもうちょっとだけつきあって欲しい。


 これだけ聞いて分かる人は、よっぽど頭の回転が速いか、哲学に慣れ親しんでいるかのどちらかである。

 私も冬馬が例によって鼻息荒くホームルームを占拠して言い出したときにはつまらなさそうと思った。

 でも、調べてみると、結構面白いのだ、これが。


 例を挙げよう。

 ここにいちごが一粒あったとする。

 あなたにはきっと表面の赤い色が見えているはずだ。

 とても簡単に言ってしまえば、クオリアとは、あなたの心の中に浮かんでいるその「赤い感じ」のことなのである。


 視覚には限らない。

 例えば金木犀きんもくせいが薫った時のあの「甘い香りの感じ」や、友達と手をつないだ時のあの「手の柔らかい感じ」など、主観的に体験される様々な「感じ」がクオリアである。


 これのどこが哲学的なのか、と思われるかもしれない。

 ではこんな話はどうだろう。


 私とあなたはイチゴを見て「赤い」と言い、ミカンを見て「黄色い」と言う。

 さて、この時私とあなたのいう「赤」と「黄色」は、それぞれの主観的に見て同じものだと言えるだろうか。


 もしかしたら、私が「赤い」という時、私の心にはあなたにとっては「黄色い」とされる「色の感じ」が浮かんでいるかもしれない。

 そして逆に、私が「黄色い」いう時、私の心にはあなたにとっては「赤い」とされる「色の感じ」が浮かんでいるかもしれないのだ。


 赤と黄色という「色の感じが」そっくり置き換わってしまっていたとしたら、私たちはイチゴを見て「赤い」と共通の発言をしながら、主観的には全く別の体験をしていることになり、その事実にいつまでも気づくことがない。


 どうだろう。

 少しは「おや?」と思って頂けただろうか。


 クオリアにまつわるもう1つの有名な話として「哲学的ゾンビ」の話も挙げて置こうと思う。

 ここでもwikipediaさんに役立ってもらおう。

 曰く、哲学的ゾンビは『「物理的化学的電気的反応としては、普通の人間と全く同じであるが、意識(クオリア)を全く持っていない人間」と定義される』とある。


 哲学的ゾンビとは、罪悪感の希薄な人や冷たい人等の人間の性格を表す言葉ではない。

 また、精神疾患を意味する精神医学関連の用語でもない。

 脳の外科的な性質を含め、外面的には普通の人間と全く同じように振る舞うけれど、その際に内面的な経験(クオリア)を持たない人間のことである。


 要は、脳に電極を挿せば電気信号が観測されるし、一見すると喜怒哀楽もあるように見えて、行動様式も全く人間そのものだけれど、先ほどのイチゴとミカンの例で示したような、主観的な「感じ」を持たない、仮想の人間である。


 これはよくよく考えてみると結構怖い。

 あなたと親しいあの人は、あなたと同じように一喜一憂する人間だと思っているかもしれないが、その内観はまったくの虚無であるかもしれない、ということだからだ。


 もちろん、これは哲学的な思考実験であり、本気でそれを疑い出してしまうと、それは精神疾患の一種であるので注意されたし。


 とまあ、こんなようなことをああだこうだと調べたり議論した結果を、模造紙にまとめて展示したり、担当者がついて来校者に解説したりするのだ。

 冬馬の舵取りでみんな結構張り切ってことにあたっているので、企画は面白いものになりそうである。


 一方、エンターテインメント系の企画もある。

 こちらは部活動や有志団体が中心だ。


 高校の学園祭と聞くと、こちらのイメージの方が強いかもしれない。

 要は喫茶店や縁日の屋台、お化け屋敷のようなものを想像して貰えればいい。


 とは言え、そこは百合ケ丘の学園祭。

 例えば喫茶店一つとっても完成度は半端ではない。


 去年の学園祭ではメイド執事喫茶をやった部活があった。

 名門百合ケ丘にとっては俗に過ぎると思われるかもしれない。

 でも、中を覗けばなるほどと思って貰えるだろう。


 メイドは秋葉原にぞろぞろいるようなミニスカートにヘッドドレスのコスプレお嬢さんではなく、ヴィクトリア時代を彷彿とさせる丈の長いメイド服にメイド帽をかぶったクラシカルメイド。

 執事は皆髪を後ろに撫で付け、燕尾服に白い蝶ネクタイのこれまたヴィクトリアンバトラー。

 後者は我が家の佐脇さんが最もそのイメージに近い。


 メニューも凝りに凝っていた。

 紅茶一つとっても、いつだったか冴子先輩が出してくれたセイロンのブレンドのようなオーソドックスな茶葉から、ダージリン、ウバ、キームンといった三大茶葉まで取り揃えていた。

 もちろんティーバッグなどではなく、ポットで十分にジャンピングさせ、ティーコジーとポットマットで保温し、ティーストレーナーでこして淹れる本格派である。

 実家でいい紅茶を飲み慣れていた私も、フォートナム・アンド・メイソンのクイーンアンが出てきた時はさすがに驚いた。


 ちなみに、喫茶店をやったのは家政部であるのだが、所作や姿勢、礼法などは以前に紹介した和装礼法部が監修したらしい。

 百合ケ丘生の中には本物の執事やメイドを実家で侍らせている者も少なくないけれど、彼ら使用人がどれほど大変か身を持って知ることが出来たという。



◆◇◆◇◆



「いずみん、聞いて聞いて! 私、ヒロイン役貰っちゃった!」


 昼休みも終わろうとする頃、教室に入ってきたいつねさんが開口一番そんなことを言ってきた。


「演劇部の学園祭の出し物ですか?」

「そう! サンドリヨン!」


 興奮した面持ちで語るいつねさんは本当に嬉しそうだ。

 それにしてもサンドリヨン――これはフランス式の呼び名で、日本で有名な言い方をすればシンデレラ――とはべたな。

 などとは、口にしない。


「1年生でヒロイン役とは凄いですね」

「えへへー。練習いっぱい頑張ったから。でも、正直私もまだ信じられなくって」


 ストーリーが簡潔で時間も比較的短時間ですむことから、学園祭などで頻繁に演じられるが、王道のシャルル・ペローによるものだとすれば、サンドリヨンはヒロインの台詞が本当に多い。

 サンドリヨン役を任されたということは、いつねさんの演技力が本物だということだ。


「実力が認められたということでしょう。頑張ってください」

「うん! いずみんも絶対に見に来てね!」

「はい」


 私が頷くと、いつねさんはスキップでもしそうな足取りで自分の席に戻っていった。


 何にしても、打ち込めることがあるということはいいことだ。

 まして結果が伴うのであればなおのこと。

 いつねさんが本番でいい演技が出来るを願うのみである。


 いつねさんの話を聞いたからか、寮への帰路で、私はなんとはなしに誠とナキのことを思い出していた。

 結局、バンドはどうなるのだろう。

 ナキのあの様子ではご破産の可能性が高いと思うけれど。


 でもあの曲は本当にいい曲なんだよね。

 生で聴けるものならぜひ聴いてみたい。

 参加するのはまっぴらごめんだけど。


「You can change yourself……So do I……So do I」


 人気のないのをいいことに、主題歌『Change』のサビの部分を口ずさむ。

 この後のバイオリンとギターの協奏が素晴らしいのだ。


 パキ。


 突如聞こえた背後の物音に私ははっと我に返った。

 振り返ると、ナキが立っていた。


「ナキくん……」

「ええ声やな」


 聴かれた!

 ぼっと顔から火が出そうなくらい恥ずかしかった。

 今の私の顔は、きっとイチゴのように真っ赤だろう。


 さて、ナキの心の中のクオリアはどんな感じ?


 ……いかん。

 恥ずかしさのあまり現実逃避しかけた。


「……バンド、やってもええで」

「! 本当ですか」

「ああ。ただし、条件がある」


 ナキは意地悪そうな笑みを浮かべるとこう言った。


「和泉ちゃんがボーカルをやるんや。それだけは譲れへん」


 なんでやねん。

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