第39話 天才の片鱗。

 私の参加を条件に、ナキも参加すると言われてから数日後。

 百合ケ丘の学生たちはすっかり学園祭一色だ。


 クラス毎にやる真面目系企画の調べ物に図書館を利用したり、エンターテインメント系企画の準備に学園外と渉外奔走したり。

 みんな思い思いに、一年に一度のイベントを楽しもうとしている。


 私はといえば、実家のつてを使ってボイストレーナーの指示の下、軽音楽部の部室でボイトレに勤しんでいた。

 前にも言ったとおり和泉は合唱部だったために、ボーカルとしての素地はある。

 しかし、私になってからずっと練習をしていなかったために、すっかり喉が錆びついてしまっているのだ。


「おー(↑)お(↓)、いー(↑)い(↓)、おー(↑)お(↓)、いー(↑)い(↓)、おー(↑)お(↓)、いー(↑)、いー(↑)、いー(↑)」


 高低をつけて何度も発声練習を繰り返す。

 地味な練習だが、こういうことは積み重ねだ。

 音楽は天分というものに左右されるものではある。

 努力したものすべてが報われる訳ではないけれど、成功した者はすべからく努力しているものである。


 ……はずなのだが……。


「ナキくんは練習しないのですか?」

「してんで。誠や和泉ちゃんの音を聴いとる」


 今この部屋には、誠、ナキ、私の三人がいる。

 逆に言えば三人しかいない。

 誠と本来バンドを組むはずだった例の二人の子は、まだ機嫌が治っていないらしく、顔を出していない。

 と、それはともかく。


「聴くだけですか? バイオリンは弾かないのですか?」

「今はその前の段階や。まずは二人のな」


 音を掴む?

 どういうことだろう。


「セッションは言うたら結婚式みたいなもんや。お互いのことをよく知って、いいところも悪いところも受け入れて、その上で一つの形を作り上げるもんや。今はお互いのことを知る段階やな」


 感覚的だが、何となく分かる気はする。


「それは一理あると思うが、もう本番まで二週間だぞ? バイオリンに触らなくて平気なのか?」


 誠がもっともな指摘をした。

 恐らくナキは百合ケ丘に来てから、まともな練習を殆していないはず。

 私の喉同様、錆び付いているのではないかと思うのだが。


「今はまだここでは弾けんねや。第三音楽室を使わせてもろてるわ。ちゃんとリハビリしとるから安心しぃ」

「なぜここで弾かん?」

「手前味噌で悪いけどな。喰ってまうねん。わいのバイオリン」

「喰う?」


 私同様、意味が分からなかったのか、誠も首をかしげている。


「半端な音じゃ、わいのバイオリンに飲み込まれてまうんよ。小中学生時代、クラッシクでいろんな奏者と共演したんやけど、わいと共演した奏者はみんなダメになってまうねん」


 自信を失ってしまうということだろうか。

 奏者としての格の違いを思い知らされて、音楽の道から遠ざかってしまう、と?


「俺のギターはそんなに甘っちょろいものに聴こえるのか」


 誠がいささか気分を害したような声を出した。

 侮られたと思ったのだろう。


「聴こえるわ。理想しか知らん、井の中の蛙やな」

「……貴様」


 今度は目に見えて怒りを露わにする誠。

 普段は寡黙で温厚な彼だけれど、こと音楽のことにかけては、人一倍激情家なのだ。


「納得行かへんって顔してるな? ええわ。ちょっと高くなったその鼻折ったるわ」


 ナキは軽音楽部に通うようになってから、ずっとケースに仕舞ったままだったバイオリンを取り出した。


 ナキのバイオリンはアマティである。

 アマティとは製作者の名前を冠したバイオリンのことで、同じような意味で使われる一般的で有名な所だとストラディバリウスがある。

 ナキのアマティは、アマティの特徴を模倣して作られるいわゆるアマティモデルではなく、正真正銘、十七世紀のイタリア人楽器作成者、ニコロ・アマティによる本物である。

 耳にやさしい柔らかい音が特徴と言われている。


「Changeはまだスコアがあらへんからな。お前さんの得意な曲でええわ。何か1回弾いてみいや」

「……いいだろう」


 憮然としながらも、誠はナキの言う通りにギターを構えて弾きだした。

 これは……一学期に図書館で楽譜を借りていたTake Fiveか。

 ロックアレンジされていてだいぶ印象が違うが、私のような素人耳にはとても上手な演奏に聞こえた。


 ナキはニヤニヤと余裕の笑いを浮かべると、


「ま、そんなもんやろな、素人の限界は」


 と挑発的なことを言って誠を煽った。


「そういえばこの間はさんざん言いたいこと言うてくれたな。これはその礼やと思うて聴きや」


 ナキが弓を構えた。


「初めて聴いた曲やけど……こんなかな」


 弾きだしたとたん、世界の見え方が変わった。


 おかしな表現だと思われるかもしれないが、そうとしか言い様がない。

 ナキの奏でる音を通して、聴覚から五感すべてが揺さぶられる。

 世界が、変わる。

 音というものには、こんな力があるものなのか。


 最初は不機嫌極まりないといった顔をしていた誠も、ナキの演奏が始まると顔色を変えた。

 呆然としたような、目の焦点の定まらない顔だ。


 無理もない。

 それほどまでに、誠とナキの間には絶対的な差がある。

 素人の私ですらはっきりと分かるのだから、音楽に携わる誠の耳にはもっとはっきりと差が分かるはずだ。

 きっとそれは、さながら奈落の奥底を覗きこむような絶望に違いない。


「こんなもんや。ちぃとばかり手加減しといたで。どや?」


 弾き終えたナキが得意げな顔を向けてくる。


「素晴らしかったです。今まで聴いたどんな演奏よりも」

「プロの演奏を聞き慣れてるだろう一条のお嬢さんに言われると嬉しいな。誠、どや?」

「……言葉も無い」

「さよか。折れたか?」


 またも挑発するナキ。

 しかし――。


「いや、見なおした。違うな。尊敬に値する。こんな演奏家と共演できるかもしれないことを誇りに思う」

「……ほう。自分、結構肝座ってるやないか。ええな。それでこそ音楽家や」


 私の思い込みとは違い、誠が見たのは絶望の奈落ではなかったらしい。

 今、彼の顔にあるのはナキへの素直な称賛と尊敬、そして負けてなるものかという音楽家としてのプライドだった。


「セッションが楽しみやな」

「ああ」


 二人が固く握手をする。

 何だか置いてけぼりの私。

 ぽつん。


「まぁ、さっきは挑発のつもりでああ言うたけど、誠もいい線行っとる思うで。でももっと広う世界を見なあかん。上には上がいることを、絶望や諦観なく受け入れて糧に出来なな」

「お前にとっては、それが詩織だったということか」

「……せや。でもあんまりその名前出してくれるなや。ほんま堪忍や」


 得意げな表情から一転、ナキはしょぼくれた顔をした。


「過去は過去として受け入れなければ前には進めんぞ」

「簡単に言うなや」

「簡単でないことは知っているつもりだ。俺も母親が自殺しているからな」


 ナキが伏せていた顔を思わず、といった様子で起こして誠を見た。


 当然だが、私は前世のゲーム知識で知っている。

 誠のご両親はともにSPをしていた。

 ある要人警護の仕事でクライアントを守れなかったことに深く傷つき、悔いるあまりに誠の母は自殺してしまったのだ。


「……せやったんか。辛いな」

「俺よりも親父や祖父の方が見ていて辛かった。普段から人を守れる力を持てといいながら、母を守れなかったとな」


 人を守れる力を持てとは、真島家の家訓だったか。


 過去を受け入れなければ。

 それはきっと亡くなった母親にも、誠が言ってあげたかった言葉なのではないだろうか。


 人は誰しも間違ったり失敗したりせずには生きていけない。

 その時、疲れて立ち止まるのはいい。

 でも、歩くのをやめてしまうのはダメだ。


 言葉少ない誠から、そんな思いを私は感じた。


「大事な人を過去にするのは辛い。だが、過去は思い出にすることも出来る。そして時間が必ず癒してくれる。残酷で一番優しい、それが時間だ」

「……そうかもしれんな」


 誠の誠実で真摯な言葉に、ナキは頷いて笑った。

 その笑みに誠も僅かな笑みで応えた。


 二人のそんな姿を見ながら私は、今度のセッションはきっと素晴らしい物になるに違いない、と思った。

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